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3.初恋の行方

 


       ◯




 教室の前に立つと、俺は一度深呼吸した。

 それから入口の扉に手をかけ、ゆっくりと横へスライドさせる。


 中を覗くと、ちょうど黒板の日付を書き換えていた日和の横顔が見えた。


 音で気付いたのか、彼女もすぐにこちらへと顔を向ける。

 真ん丸な愛らしい瞳が、俺の顔を静かに見つめた。


 一瞬の沈黙。


 妙な間を置いてから、どちらともなく「お、おはよう」とぎこちなく挨拶した。


 教室には俺たちの他には誰もいなかった。


 窓の外では雨が降り続いている。


「その、昨日は……」


 そう切り出そうとしたところで、俺はいきなり言葉に詰まった。


 一体何から話せばいいのだろう。

 聞きたいことは山ほどあるのに、いざ彼女を目の前にすると、途端に頭が真っ白になってしまう。


 固まった俺の代わりに、今度は日和が口を開いた。


「昨日はごめんね。びっくりしたでしょう?」


 そう言った彼女の笑みはいつもの明るいものではなく、どこか不自然な作り笑いだった。


「温泉、旭くんも来てたんだね。月花さんと一緒に」


 月花の名前を出されて、俺の胸はざわついた。


「仲が良いんだね。付き合ってるわけじゃないって話だったけど……やっぱり、隠してるだけでしょ? 本当はもう、二人は付き合って――」


「違う」


 やっと、声が出た。


 精一杯の反論だった。

 日和にだけは誤解してほしくないという思いが、俺の口を動かした。


「月花とは本当に付き合ってないんだ。だって俺は、まだ……――お前のことが好きだから」

「…………」


 勢いのまま、言ってしまった。


 これで二度目の告白だ。

 しつこい男は嫌われるとわかっているのに、抑えることができなかった。


 もう後に引けなくなって、俺は言い訳するみたいに続けた。


「もちろん、わかってるよ。お前は俺のことなんか好きじゃないっていうのは。……理解はしてるつもりなんだ。でも、理屈じゃなくてさ。何て言うか……」


 しどろもどろになった。

 これでは駄々を捏ねる子どもみたいだ。


 けれど、そんな風に狼狽える俺を前にして、日和は、


「私も好きだよ」


 と、諭すような声で言った。


 半ばパニックになっていた俺は、不意打ちのような彼女の言葉に「え?」と間抜けな声を漏らした。


「私も、旭くんのことが好き」


 もう一度念を押すように、彼女はそう言い直した。


 けれど、その顔はどこか寂しげだった。


 あの日と同じだった。


 去年の夏、告白の日。

 あのときも彼女は同じことを言って、そうして結局は俺をフったのだ。

 だから、


「……嘘だ」


 俺はそう先回りして、予防線を張った。

 要らぬ期待をして、余計に凹むのはもうたくさんだった。


「嘘じゃないよ」


 残酷なことを、日和は表情を変えずに言う。


「なら、どうして……」


 なぜ、雲水とキスをしたんだ――とは聞けなかった。


 恋人でもない相手とキスをするのは、俺も同じだから。


「……どうして、俺の告白を断ったんだ?」

「だって」


 日和は黒板に背を向けて、窓の外を遠く見つめて言った。


「旭くんは、私のことなんか本当は好きじゃないんだもの」

「え?」


 謎めいた発言だった。


 俺にはよくわからなかった。


「本当は、好きじゃない……? どうして、そんなことを言うんだ? 俺の心は、俺が一番わかってる。その俺がお前を好きだと言っているのに、どうして――」

「なら、旭くんは私のどこが好きなの?」


 彼女は再びこちらに視線を向けて言った。


「どこって……」

「いつのまにか好きになっていたんでしょ?」

「それは……」


 そうだ。

 いつのまにか、好きになっていた。

 気付いたときには、彼女のことばかり考えるようになっていた。


 恋なんて、もともとそういうものなんじゃないのか?


「私をいつ好きになったのか、どうして好きになったのか……それは、旭くんにはきっとわからないよ。だって旭くんは、そのときのことを忘れてしまっているんだもの」

「……どういうことだ?」


 彼女は時々難しいことを言う。


「旭くんは……やっぱり覚えてないよね。あなたはもともと、私じゃない、誰か他の女の子のことを好きだったんだよ」

「他の、女の子?」


 一体何を言い出すのか。


 俺は今まで、日和以外の女の子に恋をしたことなんてない。

 小さい頃からずっと、彼女だけを想ってきたのだから。


「私はね、小学二年生のときにここへ引っ越してきたの。そしてここで、旭くんと出会った。……旭くんは、私と初めて会ったときから、とっても仲良くしてくれたよ。――そう、まるで、ずっと前から友達だったみたいに」


 どくん、と心臓が跳ねた。


 何だ、この感覚は。


「初めはね、私すごく嬉しかったの。周りは知らない子ばかりで不安だったけれど、旭くんと一緒にいれば寂しさなんて吹っ飛んじゃったから。……だから、私にとって旭くんは特別だったの。でも……」


 そこで一度言葉を切ると、日和はわずかに視線を落とした。


「一緒に過ごすうちに、段々とわかってきたの。旭くんは私のことを何か勘違いしてるんだって」


「……勘違い?」


「一番わかりやすかったのは、昔のことを話すとき。旭くんは私との思い出を話すときに、幼稚園のときのことを語ることがあるの。昔からよく一緒に遊んだなって。幼稚園のときに二人でこんなことをしたなって。……私は、幼稚園の頃には旭くんと会っていないのに」


「……それは」


「それで私、わかったの。旭くんは、私と出会う前に仲の良かった誰かと、私のことを重ねているんだって。私のことを、その子と勘違いしているんだって」


 ちがう。


「旭くんは最初から、私のことなんて見ていなかった。私を通して、私の知らない、誰か他の女の子のことを想っていたんだよ」


「ちがう!」


 そんなはずない。


 俺はずっと、日和のことが好きだった。

 小さい頃からずっと、彼女のことだけを想ってきたはずだ。


 日和以外に好きだった誰かのことなんて、覚えていない。


「俺は、お前のことがずっと好きだった。他の誰かを好きになったことなんて一度もない!」


「でも、それじゃあ辻褄が合わないよ。私のこと、幼稚園の頃から好きだったんでしょう? 私は小学二年生までここにいなかったんだよ?」


「何かの間違いだろ。だって俺は……ずっと……っ」


 それ以上の反論なんて出来るはずがなかった。


 幼稚園の頃、日和はここにいなかったという。

 本人が言うのだから、それは紛れもない事実なのだろう。


 そして小学一年生のときも。

 白いタンポポを一緒に探しに行ったことだって、当時の日和には不可能なのだ。


 俺がずっと大切にしてきた思い出は、日和との思い出ではなかったのだ。


「これでわかったでしょう? 私が旭くんの告白を断った理由」


 日和はまた窓の方に目をやって、止まない雨を見つめた。


「旭くんが私を好きだって思うその感情は、きっと本当の気持ちじゃないんだよ。もともと他の女の子に向けられていたあなたの好意が、何かの手違いで、私に回ってきただけなんだよ。……だから、あなたは私のどこが好きなのかを知らない。いつ好きになったのかもわからない。あなたは、私との『思い出』に恋をしていたんじゃないの?」


「…………」


 ……ああ。


 理屈はわかった。

 日和が俺をフったのは、俺が本当の意味で彼女のことを好きではなかったから――と、彼女はそう言いたいのだろう。


 でも。


「……思い出が、なんだよ」


「旭くん?」


 思い出がどうした。

 子どもの頃の記憶なんて、もともとアテにならないものばかりじゃないか。


「幼稚園の頃の思い出がなんだよ。たとえ昔の記憶が混乱していたとしても、小学二年生から後のお前は本物だろ。お前との思い出は、他にだっていっぱいあるじゃないか」


「でも、恋の始まりは私ではないでしょう? それに、私との思い出だってどこまでが本物なのかわからないよ? 旭くんは、また忘れているのかもしれない」


「そんなこと言い出したらキリがないじゃないか。俺の記憶力を何だと思ってるんだよ」


「だって、旭くんが忘れてたんじゃない」


 思わずムキになって、お互いにヒートアップしてくる。

 これじゃあただのケンカだ。


「私だって旭くんのことが好きだったんだよ。だから本当は、旭くんに告白されて嬉しいはずだった。でも、旭くんがそんな風に忘れてるから……!」


 彼女のその叫びは、俺の胸を締め付けた。


 じゃあ、なんだ。

 もしも俺の記憶が正常だったなら、彼女は俺の告白を受け入れてくれたとでもいうのか。


「なら、お前はどうして雲水とキスをしたんだよ」


 勢いに任せて、つい口が滑った。


 この話題はできるだけ避けようと思っていたのに。


「俺のことが好きだって言うわりには、雲水とだってそういうことができるんじゃないか」


「だ、だってあれには理由が……!」


 そう何かを言いかけた日和の声を遮るように、ガラリと後方の扉が開いた。


 俺と日和が驚いて見ると、教室の後ろの入口から、一人の男子生徒が入ってきた。


「……取り込み中のところ悪いね、お二人さん」


 気だるげな声だった。


「雲水くん……」 


 日和が言った。


 彼女の視線の先で、教室に入ってきた男子生徒――雲水は、手にしたカバンを床に投げ捨てた。

 その衝撃で、カバンからは雨の滴が飛び散った。


 明るい髪に、着崩した制服。

 中性的で整った顔にはいつものニヤニヤとした笑みが浮かんでいる――が、心なしか、今は少し疲れた表情をしているようにも見える。


「ひどいなあ……日和ちゃん。ボク、ずっと待ってたんだよ? いつもの場所で……」


 そう言った彼の額には、雨か、汗か、薄らと水滴が滲んでいた。


 熱でもあるのだろうか。

 ほんのりと頬を紅潮させた彼の息は、わずかに乱れていた。


「雲水くん。ごめんなさい。いま向かおうと思ってたんだけど……」


 どこかで待ち合わせでもしていたのか。

 彼らの発言からすると、その約束は今日だけが特別というわけではなさそうだ。


 雲水はまるで俺の存在を気にかける様子もなく、日和だけを見て、彼女の方へとゆっくり歩み寄っていく。

 その足取りはふらふらとして、いかにも病人然としたものだった。


「ま、待って雲水く――」


 制止の声を上げようとした日和の唇を、雲水はあろうことか、自分の唇で無理やり塞いだ。


「! ……」


 すぐ隣で傍観していた俺は、息をするのも忘れて固まっていた。


 まさかこの悪夢を、もう一度目の前で見ることになるなんて。


 日和は身体のバランスを崩し、雲水に押し倒されるようにして後ろへ倒れた。

 一度黒板に背中を打ち付け、そのまま壁に沿って下へ崩れ落ちる。


 雲水は項垂れたまま唇を離すと、


「……ふう。生き返ったあ」


 そう言って満足そうに微笑むと、今度はゆっくりと俺の方を見た。

 その顔にはもう、疲れの色はどこにもなかった。

 赤くなっていた頬も正常に戻っている。


 あたかも、それまで孕んでいた熱が一瞬にして取り払われたかのようだった。


 日和とキスをすることで、容態が落ち着いた。

 その様子はまるで――。


「この症状、旭ならわかるよね」


 俺の心を見透かしたかのように、雲水は言った。


「雲水、お前……まさか」


 そんなはずはない、と思いつつも、否定できない現実が目の前にあった。


「そのまさかだよ」


 彼は何もかも知っている、といわんばかりの不敵な笑みを浮かべていた。


「ボクも月花ちゃんと同じさ」


 異性とキスをすることで、熱が下がる――そんな不可思議な症状を持つ病は、この世に二つとないだろう。


 俺の予想を代弁するようにして、彼は言った。


「ボクも、白雪姫なんだ」


 

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