2.豪雨
◯
三階はやけに静かだった。
階段を上りきると、正面には木造の廊下がまっすぐに伸びていた。
その両脇には個室が並んでおり、それぞれが障子で立て切られている。
障子の向こう側には人の気配があり、時折話し声も聞こえるが、宴会のような賑やかさはなく、終始ひっそりとしていた。
廊下の先に目をやると、突き当たりの右側に目的の部屋があった。
そこの障子だけが開け放されているので、迷うことはない。
記憶通りなら、その部屋はそれほど広くはなかったはず。
狭いスペースなので、人が多い場合は長居がしづらくなる。
どうか無人であってほしい――と願いながら中を覗くと。
部屋の中央では、一組の若い男女がキスを交わしていた。
「……あ」
俺は息をするのも忘れて、室内の光景に目を奪われていた。
隣に立つ月花は何かを言おうとして、ハッと口を噤んだ。
若い男女は唇を離すと、固まったままの俺たちの存在に気がついたようだった。
「……やあ、奇遇だね」
そう言って笑ったのは男の方だった。
明るい髪に、中性的で整った目鼻立ち。
白地の浴衣を着たその姿は、女好きのクラスメイト――雲水だった。
対する女性は躊躇いがちに目を逸らしたものの、顔を隠す暇はなかった。
肩まで伸びるやわらかそうな髪に、くりっとした真ん丸の瞳。
浴衣を纏った日和の姿が、そこにあった。
「日和? なんで……」
そこから先は言葉が浮かばなかった。
何を言えばいいのかわからないのは月花も同じだったようで、俺の隣で黙っている。
沈黙を破ったのは雲水だった。
「いやあ、見られちゃったね。恥ずかしいところをさ」
まるで羞恥心など持ち合わせていない、軽々しい口調だった。
日和は居たたまれなくなったのか、今度こそ完全に顔を背けた。
髪の間から覗く耳は赤くなっている。
俺は強張った口元を無理やり動かして言った。
「いつから……付き合ってたんだ?」
声に出せたのはそれだけだった。
もっと聞きたいことはたくさんあるのに、何から質問すればいいのかわからない。
「別に付き合ってなんかないけど?」
雲水はそう挑発するかのように言って、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
「付き合って、ない……?」
その発言に、俺はさらに混乱した。
「なら、さっきのあれは……ただの遊びだって言うのか?」
「さっきのあれって?」
とぼけながら、雲水は耳元のピアスを指で弄ぶ。
わざと俺に言わせるつもりなのだろう。
その態度に苛立ちが募るのと同時に、先ほどの光景が頭の中で何度も再生される。
「だから、さっきの……日和とキスをしたのは、遊びだって言うのか?」
その事実を口にするのはつらかった。
認めたくなかった。
雲水と日和が、ただの遊びでキスをしていただなんて。
こと雲水だけに限っていうなら、まだわからなくもない。
そういう男だというウワサは前々から聞いていたし、日和を狙っていたのも本人が認めていた。
でも、日和は。
彼女だけは、遊びで身体を許したりするような子ではなかったはずだ。
……いや、そう俺が思い込んでいただけなのだろうか。
心の整理がつかない俺の前で、雲水は楽しそうに笑って言った。
「遊び? ふふ。失礼しちゃうなあ。少なくともボクは遊びだなんて思ってないよ」
「……嘘だ」
俺は震える声で反論した。
「嘘? 嘘なんかじゃないよ。ボクは真面目だよ」
「嘘だ。だっておかしいだろ」
「何が?」
「だからっ……」
湧き上がる感情を抑えられず、俺の声は荒々しくなっていた。
「付き合ってもいないのにキスをするなんて、おかしいって言ってるんだよ!」
「あ、旭さん……っ」
隣から制止の声を上げたのは月花だった。
見ると、彼女は何かを堪えるような、複雑な視線を俺に向けていた。
その眼差しを受けて、俺はハッとした。
彼女が何を訴えようとしていたのかがわかった。
(……そうか、俺)
少しだけ冷静さを取り戻した頭が、大事なことを思い出す。
俺には、こんなことを言う資格なんてないのだと。
俺だって、普段から月花とキスをしているのだ。
付き合っているわけでもない月花と。
それも、ほぼ毎日のように。
そんな俺の心を見透かしたかのように、
「よく言うよねえ」
と雲水が言った。
「知ってるんだよ。キミたちがいつも、屋上でキスをしてるってこと」
言われて、背筋が寒くなった。
見られていたのか。
あるいは噂になっているのか。
雲水は続けた。
「付き合ってはいないけれど、キスはする――ボクたちの行為がただの遊びだって言うなら、それはキミたちも同じじゃないか。キミたちだって、別に付き合ってるわけじゃないんでしょ? 人のことを言える立場じゃないはずだよ」
「だって、それはっ……!」
つい、キスの理由を口にしかけて、ぎりぎりのところで思い留まった。
言えるわけがない。
月花が白雪姫症候群だなんて。
「だって、何?」
煽るように雲水が言う。
日和は顔を背けたまま。
俺は唇を噛んだ。
「……くそっ」
言い訳もできず、開き直ることもできず。
何もかもが嫌になって、俺はその場から逃げ出した。
「旭さんっ……!」
後ろから月花の声が聞こえたが、振り返る余裕はなかった。
◯
建物から飛び出すと、外では雨が降っていた。
狙ったような集中豪雨だった。
構わず走り続けると、向かい風とともに、雨は容赦なく顔面を打ち付ける。
瞬きだけでは水捌けが追いつかず、ほとんど前が見えない状態のまま、俺はがむしゃらに走った。
傘も持たずに全身を雨に晒していると、次第に水分を吸収した服が重くなって、足がもつれた。
そうして勢いのまま、頭から水たまりへとダイブした。
「旭さん!」
後ろから、再び声が聞こえた。
思ったよりも近くからだった。
「大丈夫ですか!? お怪我はっ……」
月花はその細い腕で、俺の肩を抱き起こした。
慌てて後を追ってきたらしい彼女もまた、全身をずぶ濡れにしていた。
「月花……お前、傘は?」
「傘なら持ってきましたよ」
そう言って、彼女は手にした傘を頭上に広げた。
「じゃなくて、お前……びしょ濡れじゃないか。俺のことなんて放っておけばよかったのに」
我ながら身勝手な発言だと思う。
彼女の性格を考えれば、こうなることは予想できたはずなのに。
「私のことはいいんです。それより旭さんの方が――」
「俺のことはいいんだよ!」
「いいえ!」
珍しく声を張った月花を前に、俺はびくりとした。
月花はまっすぐな視線をこちらに注いだまま、諭すような声で言った。
「……こうして今あなたが傷ついているのは、もとはといえば私が原因です。私があなたにキスを強要したからです」
その言葉で、いつかの押し問答が思い出された。
前にも、彼女は同じようなことを言っていた。
自分の存在のせいで、俺が迷惑を被っているのだと。
「だから月花、それは……強要なんかじゃないって前にも話したじゃないか。お前にキスをしたのは……俺がそうしたかったんだって」
「それは、あなたの優しさです。あなたは優しいから、私に情けをかけてくれていただけなのです」
「違う。違うよ。俺はただ……」
ただ、キッカケを探していた。
前に進むために、心を改めるためのキッカケを。
日和にフラれて、生まれて初めての失恋を経験して、そこから時が止まってしまっていた俺の前に、救世主のように現れたのが月花だった。
「……ただ、誰かにそばにいてほしかったんだ。失恋して、傷ついて、寂しくて仕方がなかったときに、お前に出会って、それで……」
自らの醜い感情を改めて思い知り、俺は懺悔するような気持ちで月花に頭を下げた。
「……好都合だと思ったんだ。お前と一緒にいることで、俺も気持ちを切り替えることができるんじゃないかって。……本当にごめん。最低だよな、俺」
「あなたが謝る必要はありません」
月花は普段通りの、優しげな声で言った。
「傷ついたあなたの、心の隙につけ込んだのは私です。私さえいなければ、こんなことにはならなかったのに……」
そう言って、彼女はまた泣きそうな顔をする。
彼女の表情に釣られて、俺まで目頭の奥が熱くなった。
そんな情けない顔を見られたくなくて、彼女の目を塞ぐように、俺はその華奢な身体を強く抱き寄せた。
反動で、傘が落ちた。
「ごめん……。ごめんな、月花。俺のせいで、つらい思いをしてるよな」
「……ごめんなさい、私……――ごめんなさい」
降りしきる雨の中、俺たちは小さく身を寄せ合って、お互いに何度も謝り続けた。
奇妙な巡り合わせだと思った。
お互いの目的のために、ただ前を向いていればそれでよかったはずなのに。
どうして、こんな風に話がこじれてしまうのだろう。
俺たちのような関係を、世間は何と呼ぶのだろう?
月の見えない夜の雨は、容赦なく俺たちの体温を奪っていった。
◯
翌日もまだ雨は降り続いていた。
起床して一番にスマホを見てみると、月花からラインが入っていた。
どうやら風邪をひいたらしい。
今日は休むから、昼食は持参してほしいという内容だった。
毎度律儀な彼女の人柄に感心しつつ、俺は申し訳ないことをしたと反省した。
風邪をひいたのは、きっと夕べの雨に濡れたのが祟ったのだろう。
罪悪感に苛まれつつ、俺は久しぶりにコンビニでオニギリを買った。
◯
学校へ向かう足取りが重い。
ここまで気分が下がるのは、ただ月花の手作り弁当が食べられないせいだけじゃない。
今日は日直で、クラスの誰よりも早く登校しなければならないのだ。
しかも、ペアの相手は日和。
神様の悪戯だろうか。
ただでさえ顔を合わせるのも気まずい状態なのに、嫌でも共同作業を強いられる状況だ。
すぐにでも逃げ出したくなる足を無理やり学校へと向かわせながら、ふと思い出す。
そういえば、アルバムを確認するのを忘れていた。
昨日は色々とありすぎて、そこまで気が回らなかった。
というより、精神状態がそれどころではなかった。
「はあ……」
また一つ深い溜息を吐きながら職員室に入ると、教室の鍵はすでになかった。
おそらく日和が先に持って行ったのだろう。
教室で、彼女が待っている。