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1.曖昧な記憶

 


「ねえ見て、旭くん」


 いつものように日和と二人で弁当を食べていると、彼女は嬉しそうに言った。


 見ると、にっこりとあたたかい笑みを浮かべた日和の手には一冊のアルバムが握られている。

 彼女はそれを制服のスカートの上に広げると、


「ほら、この写真。懐かしいでしょ?」


 そう言って、ある一点を指し示した。


 俺は首を伸ばしてそれを覗き込む。


 けれど、広げられたページは真っ白だった。

 写真を嵌めるための透明なフィルムが貼られてあるだけで、肝心の写真は一枚もない。

 

「写真って、何のことだ?」


 俺が反応に困っていると、


「見えないの?」


 と、彼女は不思議そうに言った。


「ほら、この写真。覚えてない? 小学校に上がってすぐの頃のだよ」


 しかしそう言われたところで、俺にはどうしようもなかった。

 いくら目を凝らしてみても、そこに写真が浮かび上がってくるなんてことはない。


 俺はアルバムから目を離し、日和の顔を見上げた。


「どこにも写真なんて……」


 そこで俺は、息を呑んだ。

 

 見上げた先に、日和の顔はなかった。

 代わりに、目も鼻も口もない、顔中が皮膚の色だけになった、つるんとした肉の塊がそこにあった。


 のっぺらぼう――そんな妖怪の名が頭を過った。


「どうしたの、旭くん」


 顔のない女は、日和の声で俺に語りかける。


「私の顔、忘れちゃった……?」


 女は手元のアルバムを放り出し、いきなり白い両手をこちらに伸ばして飛びついてきた。


 迫りくる十本の細い指は俺の首に絡みつき、恐ろしいほどの力で爪を喰いこませてくる。




「――――…………っ!!」


 そこで俺は、目を覚ました。

 短い悲鳴とともに、布団を撥ね退ける。


 夢だ、と気付くまで数秒かかった。


 乱れた息。

 心臓の音。


 全身は汗でびっしょりと濡れている。


 窓の外では小雨が降り、さあさあと儚げな音を立てていた。






       ◯






 最近、日和の夢ばかり見ている。


 それも良い夢ではない。

 どこか恐ろしい、奇妙な夢だった。


「あの……旭さん」


 月花の声がして、俺は我に返った。


「どうしたんですか、ぼーっとして。……お弁当、おいしくなかったですか?」


 弁当箱を膝に乗せたまま、彼女は隣から言った。


 垂れ目がちで大きな瞳が、不安そうに俺の顔を覗き込んでくる。

 首を傾げた際に、二つに結われた長い黒髪が小さく揺れた。


 六月の中旬。

 季節は本格的な梅雨に入り、ここのところ久しく太陽の姿を見ていない。


 屋上で昼食を取るのが日課だった俺たちにとって、連日の雨は厄介なものだった。


 いつもの場所だと濡れてしまうので、最近は仕方なく、下の階へ続く階段室の入口で雨を凌ぎながらのランチとなっていた。


「おいしくない? って……い、いや、そんなわけないだろ。うまいよ! 相変わらず」


 半ば飛んでいた意識を無理やり手繰り寄せ、慌ててフォローすると、


「でも、なんだか上の空……です」


 月花は疑わしげな目を向けてくる。


 彼女の手作り弁当は無論、美味いことこの上なかった。

 けれど、俺の意識が上の空であることは確かだった。


 せっかく月花と一緒にいるのに、俺は日和のことばかり考えている――それは以前からも気にしていたことだったけれど、ここ数日は特にそれが顕著だった。


 原因はわかっている。

 先日の、日和の言葉が頭から離れなかった。


 ――私は、旭くんと一緒に裏山には行っていない。私がここに引っ越してきたのは、二年生になってからだったから。


 小学一年生のとき、日和はここにいなかったという。


 けれど、それでは辻褄の合わない部分が出てくる。

 俺の思い出の中には、一緒に裏山へ行ったときのことや、さらには幼稚園のときに二人でキスをした記憶まであるのだ。


 幼少期の記憶はアテにならない、なんて言う人もいるけれど、俺は府に落ちなかった。


 もしも日和の言うことが本当なら、俺は、今までの日和との思い出を疑わなければならなくなる。

 彼女と仲良くしてきた記憶――それらが夢や幻だったのかもしれない、と思うと、考えただけでぞっとする。


「旭さん、目の下にクマが出来ていますよ。あまり眠れていないんじゃないですか?」


 月花は尚も俺を心配して言った。


 彼女の言う通り、最近は寝つきが悪くてあまり眠れていなかった。

 悪夢のせいもあるだろう。

 運よく眠りにつけたところで、あの夢を見ればたちまち飛び起きることになる。


 そろそろ本気で気持ちを切り替えなければ、体調にも支障が出そうだ。


 何かリフレッシュができるものがあれば――と頭を巡らせたとき、ふと、街の東にある温泉のことを思い出した。


「なあ、月花。一緒に温泉に行かないか?」

「えっ?」


 自分でもびっくりするくらい唐突な提案だった。


「あ、いや。用事があるなら別にいいんだ。ただ俺がリフレッシュしたかっただけで……だから、もし暇なら今夜一緒にどうかと思ったんだけど」


 温泉に浸かれば少しは気分転換になるかもしれない。


 ちょうど今日から明日にかけて両親は旅行に行っているので、夜は俺一人になる。

 どうせ一人で風呂に入るのなら、自宅の浴槽に湯を張るよりも、温泉に浸かりに行った方が有意義な気もする。


 そして、何より。

 あの温泉には、日和と一緒に行ったことがない。


 彼女のことから意識を逸らすには、絶好のリフレッシュ法だと思えた。


「ええと……。ご一緒していいのなら、私も行きたい、です」


 月花はもじもじと肩を揺らしながら、微笑を浮かべて言った。

 ほんのりと赤く染まった耳が、いかにも彼女らしい反応で愛らしい。


「じゃあ、決まりだな」


 あっという間に成立した約束。

 もはや二人きりで出掛けるのが当たり前のようになっている。


 先日のタンポポ探しでタガが外れたのか、こうして彼女を誘うことに、俺はほとんど抵抗がなくなっていた。

 

 




       ◯






 そして、日が落ちた頃。


 俺たちは洗面用具を持って、現地の最寄り駅で集合した。


 街の東側に建つその温泉は、本館と別館とがそれぞれ独立している。

 二人で話し合った結果、今回は本館の方に入ろうということになった。


 立派な瓦屋根を持つ本館は明治の頃に建てられた三層楼で、この街ではちょっとした観光名所となっている。

 建物の周囲では観光客が浴衣を着て、土産物屋を回る姿が多く見られた。


 入口で先に会計を済ませ、汗取り用の貸浴衣を受け取る。

 湯上がりにはこれを着て大広間で寛ぐことができるのだ。


 靴を脱ぎ、古い木造の廊下をしばらく進む。

 すると途中で、


「では、ここで一旦お別れですね」


 と、月花が言った。


 俺は一瞬意味がわからず、「なんで?」と真面目な顔で返した。


「え? だって……私、女ですから、男湯には入れません、し……」


 言いながら、月花は段々と俯きがちになり、何を想像したのか、ほんのりと顔を赤く染めた。


 当たり前のことを言われて、俺はハッとした。

 そうして自分のアホさ加減に眩暈がした。


 二人で温泉に来たところで、一緒に入浴することはできない――そんな当たり前のことを忘れていた。

 というより、夢のことを考えるあまり、現実に意識が向いていなかったのだ。


 廊下の先には男、女、とそれぞれ書かれた暖簾が並び、そこで家族やカップルが非情にも二つに引き裂かれていく。


 その掟に抗う術はなく、俺は泣く泣く月花と別れた。






       ◯






 脱衣所では見たくもない男の裸が並び、むせかえるような熱気が漂っていた。


(これが現実か……)


 しかし浴場に着いて湯に浸かり始めると、周りの景色なんて段々とどうでもよくなってくる。

 一日の疲れを優しく溶かしてくれるようなじんわりとした熱に包まれて、次第に頭がふわふわとしてきた。


 ぼうっとした思考で、改めて日和の言葉を思い出す。


 ――私は、旭くんと一緒に裏山には行っていない。旭くんは、誰か別の……私じゃない誰かと二人で裏山を登ったんだよ。


 誰かと二人で、裏山に登った。

 その相手が誰であったのか、俺はまったく覚えていない。


 情けない。


 日和にフラれて、彼女との思い出を忘れるために、裏山での記憶を上書きしようなんて考えていたのに。

 まさかそれよりも先に、すでに誰かとの思い出を忘れてしまっていたなんて。


 こうしてみると、人の思い出なんて案外簡単に壊せてしまうものなのかもしれない。


 なら、今こうして日和のことで悩んでいるのも、やはりいつかはどうでもよくなっていくのだろうか。


 ――ほら、この写真。懐かしいでしょ?


 不意に、今朝の夢の内容を思い出した。


 あのとき、日和が手にしていたアルバム。

 あれは確か、親の寝室の奥に仕舞ってあるものだ。

 あそこにはたぶん、俺が幼稚園だったときの写真も納められているはず。


「そうか、アルバム……!」


 瞬間。

 俺はその場に勢いよく立ち上がった。


 その拍子に、ばしゃんっ! と周囲の湯を跳ねさせてしまった。


 あんまりいきなりのことだったので、隣で鼻歌を歌っていた爺さんは「ほあっ!」と驚いた声を上げて固まった。


「あ。す、すみません」


 俺は詫びを入れてすぐ浴槽から出た。


 アルバム、という手があった。


 写真は嘘を吐かない。

 アルバムを見れば、俺の中で曖昧になっている記憶もうまく思い出せるかもしれない。

 バラバラになった時系列も、パズルのピースみたいにぴたりと正確な位置に嵌めこむことができるかもしれない。


 早く、アルバムが見たい。

 帰って確認しなければ。


 身体を洗うのもそこそこに、俺は慌てて浴場を出た。


 そうして二階にある休憩室を覗いてみると、がらんとした大広間の隅っこで、すでに貸浴衣に着替えた月花が座布団に座って待っていた。


「あ。おかえりなさい、旭さん。疲れは取れましたか?」


 優しく笑いかけてくる彼女の髪は、まだ濡れていた。


「ああ、おかげさまで。それより、ずいぶん早いな。髪は乾かさなかったのか?」

「私、髪が長いので……乾かしていると時間がかかってしまいますから」

「だからって、濡れたまま出てきたのか? 俺のことは気にせずゆっくりすればよかったのに」


 人を待たせるのがよほど嫌いなのだろうか。

 さすがにこの季節に湯冷めの心配はないだろうけれど、満足に身支度が出来なかっただろうその姿は見ていて可哀相になる。


 下ろしたままの黒髪は毛先が濡れて、首や頬に張り付いていた。

 白地の浴衣は襟元が崩れ、不自然に開いた首元からは華奢な鎖骨が覗いている。

 腰に巻いた帯も、結び目がちょっと左にずれている――……まあ、これは彼女が不器用なだけなのかもしれないけれど。


 急かしてしまったのは申し訳ないが、しかし俺も内心ではそれほどゆっくりする余裕がない。


 本当は、出来ることなら今すぐにでも帰りたい。

 帰って、アルバムの写真を確かめたかった。


 けれど、もともとこちらから誘っておきながら、今さら月花を邪険にすることなんてできない。


 逸る気持ちを抑え、俺は彼女の隣にゆっくりと腰を下ろした。


 すると、触れてもいない彼女の身体から、ほかほかとした熱気が伝わってきた。


 温泉によって温められた頬はほんのりと赤く染まり、浴衣の裾から覗く手足は瑞々しく白い輝きを放っている。


 それらを目の当たりにした俺は、一瞬だけ、触れたい――と思ってしまった。


 しかしすぐに理性を取り戻し、やましい考えを振り払おうと頭を振る。




「あの、よかったら上の階も見に行きませんか?」


 二人でささやかな茶菓子を堪能していると、思い出したように月花が言った。


 上の階――三階には、この地にゆかりのある文豪の写真や胸像などが飾られた部屋がある。

 窓からは外の景色も見えるので、それらを眺めながら涼むというのもなかなか乙なものだ。


 アルバムのことが気がかりだった俺はあまり気が進まなかったけれども、他でもない月花が見たがっている――もしくは、俺のために気を利かせてくれているのかもしれない――なら、賛成しない手はない。


 俺たちは茶菓子を食べ終えると、私服に着替え直してから、改めて三階へ続く階段を登った。


 

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