9.第一章(漂流)---赤鬼2
7.第一章(漂流)−−−赤鬼2
キャプテンは船内をあちこちと見せて回った。食料倉や水槽らしい設備のところでは、船長は食べたり飲んだりする仕草をしたあと、鷹揚に頷いて見せた。食料と飲料水に心配はないという意味であることはすぐに理解できた。
最後に連れていかれた船長室はまるで別世界であった。大海原の荒波にもまれている船の中とは思えなかった。周囲は美しい羽目板が張られ、床には一面えんじ色の深々とした敷物が敷かれていた。
彦太郎たちは余りの豪華さに眼を奪われ、椅子に掛けるよう指示されてもしり込みして、そのまま立ち尽くしたり、膝を抱えて床にしゃがみ込んだりする始末であった。
中央に据えられた大きな机の上には一枚の絵図が拡げられていた。船長は絵図の真ん中の青い色の部分を指先で押さえたあと、両手を大きく上下させたり、自分の足もとを指さしたりした。青い部分はどうやら海を示しているらしかった。
キャプテンはやがて絵図の右端の方に描かれた、緑色の逆三角形を指さして言った。
「ァメェルカ。ァメェルカ」
栄力丸の水主たちはさっぱり意味がわからず顔を見合わせていたが、やがて彦太郎が叫んだ。
「アメリカじゃあ!」
寺子屋の先生がもつ書物の中に、世界地図をのせたものがあって、彩色はしてなかったが、逆三角形をした国があった。面白い形をしていると笑うと、先生はにこやかだった顔を突然険しくし、これが日本に開国を迫っているアメリカであると言った。
そしてその後で、先生の指が日本の上におかれたとき、彦太郎は愕然としたのだった。アメリカと比べて何と日本は小さいのか。彦太郎はしばらくのあいだ声が出なかった。
さらに先生は、アメリカと日本の間に描かれた大洋に当たるらしい部分を指差しながら、アメリカは広大な海を横切ってやってくる鉄の船を造る造船技術をもった大国であると付け加えた。彦太郎はあのときの先生の真剣な眼差しを思い出した。
「ア、アメリカ!…ァメェルカ」
彦太郎は今度はキャプテンを見て叫んだ。
最後は船長の言った異国の発音を真似てみた。彦太郎の仲間たちは彦太郎の声の大きさに驚いたが、異国船の船乗りたちはもっと驚いた。彦太郎の「アメリカ」の英語の発音が実に巧みだった。
「オゥ ・イェエース! ァメェルカ。ァメェルカ。イェエース、ァメェェルカ!」
キャプテンは一瞬眼を丸めたが、すぐに満足げにうなずいた。「アメリカ」にはことさら力を込めた。ひとみを一段と輝かせた。
晴れやかな船長の表情からみて、彦太郎の言葉が通じたらしかった。船長は彦太郎に歩み寄り手を握った。毛深く逞しい手であった。軽く握っているようなのに痺れるほどの握力であった。しかし大変温かった。大きな手は彦太郎に養父の吉佐衛門を思い出させた。
《親父が今のワシを見たら、たまげるじゃろのう》
彦太郎は髭の下で白い歯を見せる船長を見上げて笑みを返した。
地図の傍らに引き返した船長は、次に左端の方の黄色の部分を指して「チャイナ」、「チャイナ」とゆっくりくり返したあと、すぐ隣に描かれた小さな点を押さえて「ジャパン。イェドウ」といった。言ってから「ジャパン」の場所と万蔵を交互に指差した。
《チャイナちゅうのは唐人の国のことで、ワシらの国はジャパンとゆうらしい。イェドウは多分、江戸のことじゃ》
彦太郎は船長の説明をすぐに理解した。「ァメェルカ」の例から、「エド」も彼らの発音では、「イェドウ」と強弱がつくと判断した。そういえば、「チャイナ」を「チャアァイナ」、ジャパン」を「ジュパアァン」と強弱をはっきりさせた。
「チャアァイナ。ジュパアァン。エド」
彦太郎は船長を真似て言った。江戸は英語の抑揚はつけず、日本語のとおりに平坦に発音した。
「オゥ ・イェエース。イェドウ…エ、エド。イェエース。エド!」
船長の顔が再び輝いた。彼は口にくわえていた煙の出る棒を手に持ち、満足げに身を反らせた。栄力丸の他の仲間たちは予想だにしない歓待にすっかり戸惑い、身を寄せ合ってひそひそ話に閉じこもるばかりだったから、彦太郎の物怖じしない態度はそれだけ際立った。
キャプテンはそういう彦太郎に好感を抱いたようであった。万蔵以下他の仲間たちはみな、孤軍奮闘して異国の船長と渡り合う彦太郎を横目に、半信半疑の表情を表した。寺子屋など行ったことのない彼らは、話には聞いていたが、アメリカや唐の国と比べて日本の国が米粒ほどにも小さいことが信じられなかった。