表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
85/85

85.あとがき

あとがき


 『相模の海の輝きの向こうに』はジョセフ・ヒコの自伝(上下巻・英文)の邦訳版をもとにしている。ヒコは13歳で漂流して以来記していた日記を晩年になってまとめた。したがって出版することを念頭においたのであれば、おそらく都合のわるい部分は削ったりあるいは脚色したりしただろう。


たとえば、身近に登場する女性としては、松本チョウ子夫人以外一人として自伝には記述はない。しかしヒコは結婚前、横浜岩亀楼の娼妓を落籍しているといわれる。ところが、そのことには一言も触れていない。「港、港に遊女あり」。ヒコは幾度も航海をしているのであるから、横浜以外でも出入りはしていただろう。


遊女宿を記述したらしい箇所が一つだけある。救出されサンフランシスコに上陸した彦太郎が、アメリカ人水夫に連れられ踊り子たちの働く食事処に行く場面があるが、あれは船乗り目当ての妓楼だったに違いない。まだあどけなく、遊郭そのものの存在もあまり知らなかったであろう彦太郎は、連れの男に女を買うことをすすめられたとしても、言葉の壁があることもあって、わけが分からず、そのまま引き返したと思われる。


横道にそれるが、横浜開港にさいし幕府はおもに駐留外国人対策として、港崎(みよざき)に幕府公認の遊郭を作ったが、そのなかで前記岩亀(がんき)楼は五十鈴楼と並んでもっとも高い格式を誇った。港崎遊郭には500人の遊女が働き、合衆国公使T・ハリスも常客の一人だったと言われている。


本筋に戻る。女性関係を探るのはヒコの人物像に迫るのには格好のテーマではあるが、本書の目的ではないため割愛した。


ヒコが削除したらしい場合としては他に、あるときまで重要な役割を果たしていた人物が、説明もなく突然に登場しなくなったり、重大な事件が身近に起こったのにその前後の説明がすっぽり落ちていたりする箇所である。


記憶をたどるのではなく、その時どきに記したものをまとめるのであるから、これは筋が通らない。明らかに意図的に手を抜いたとしか考えられない。その隠された部分もまた、ヒコの人となりを知る重要な手がかりである。こちらこそ筆者の予断と偏見を縦横に駆使して補った。


たとえば、ヒコが遣米使節団を護衛する咸臨丸を横浜港で見送るとき、ヒコはブルック艦長からジョン・万次郎を紹介される。ところが詳しい記述がない。一言、会った程度の表現である。合衆国領事館で働いていたヒコは、幕府旗本として通訳に当たる万次郎のことが耳に入らなかったはずはない。万次郎が自分と同様な数奇な体験の持ち主であるからなおさらである。


きっとライバル心が働いたのであろう。意識するあまり競争相手を無視する、いや無視しようとする。米国の上流階級の人々に持て囃され、日米の架け橋役を自認して帰国したヒコにとっては、祖国日本ですでに滞米外交の前線に立っている万次郎に嫉妬を抱いたとしても不思議はない。ちょっとしたことで仲間や同僚に追い越され、歯軋りしたこと数知れない筆者には何となくヒコの気持が分かるような気がして、この部分は筆がすすんだ。


この無視するという姿勢は栄力丸乗組員たちのその後に対しても同じで、18年ぶりで帰郷したときの記述には彼らのことは一言も触れていない。同郷の仲間が何人かいたのだから、漂流民は帰国後は咎人扱いされると聞かされていたのだから、当然彼らの消息には関心があったはず。なのにである。さらに同道したアメリカ人友人、警護の日本人役人たちの表情についても何一つ描かれていない。


これはおそらく廃村同然の故郷を前にして、立身出世したヒコが自分のアイデンティティーに引け目を感じ、過去との決別をはかろうとしたとも考えられる。


情景描写については、筆者自身、サンフランシスコなどアメリカ西海岸、ニューヨーク、ワシントンなど東海岸、あるいはA・リンカーンの生家など訪れたことがあるので、まったくの根も葉もない予断でも偏見でもない。


さらに事件の中身、起こった時日などヒコ自身が勘違いした部分があるようであるが、文脈に沿っている限り手直しはしなかった。


反省点はいくつかある。

主人公に没入してしまって(筆者の欠点の一つ)、取捨選択が甘かったこと。七、八年前に書いたものに加筆補足したのだが、あれもこれもと欲張るあまり書き足しすぎた感が否めない。少なくとも遭難から漂流あたりは省略し、救出後に思い出のなかで簡単に振り返る程度にすべきであった。


したがって用語の不統一、表記上の誤りや食い違いなども少なくなかったに違いない。その都度さかのぼって確かめようと努めたつもりであるが、書き終えた現在、あらためて振り返ると自信はない。


執筆中いちばん意識したのは、ジョン・万次郎(中浜万次郎)との比較検討であった。本書の目的がジョセフ・ヒコの認知であったからだ。最初は何とかなるだろう程度の暢気な気分で書き始めた。ところが書き進むにしたがい、それが決してそうではないことが分かってきた。


時期的には十年ほどずれるが、二人とも漂流中にアメリカ船に拾われ、アメリカで教育を受けたあと帰国した。たどった運命も生きた時代もほぼ同じと言える。しかし、その中身がまるで違う。


捕鯨船で働いていた万次郎はおそらく若いながらも、しっかりした自我の確立が出てきていたと思われるのに対し、ヒコはいまだ寺子屋通いの少年であった。異文化への接し方はまるっきり異なったに違いない。


異国という未知なる世界を、万次郎は大人として冷静に見極め対処したのに対し、幼児性から脱皮しきれていなかったヒコは、幼いころからの異国への憧れも手伝って、大した抵抗もなく受け入れたであろう。改宗、市民権取得という人生的決断にさいしても、ヒコにはさほどのためらいが見られなかったことからもそれはうかがわれる。


帰国してからの活躍舞台もまた二人が交わることはほとんどない。万次郎は日本人として幕府(旗本)につかえ、ヒコはアメリカ人として合衆国のために働いた。住処もヒコは居留地の中で、万次郎とは隔離された世界であった。


もっとも両者を比べる物差しがなくはない。視点の問題である。身びいきするのでなくキョリをおいて見る。一段高い公判廷のような場で審議するのである。


筆者の文学仲間の何人か(六〜七十代)は、今でも筆者の作品を話題にするとき、しばしばジョン・万次郎と混同する。また08年6月19日現在、パソコン・ウェブで〈ジョセフ・ヒコ〉と〈ジョン・万次郎〉を検索してみても、グーグル:216件対6110件、ヤフー:12・6万件対43・9万件とヒコが圧倒的に劣勢である。


ところで、日本の難民認定者数は90〜00の10年間でわずか60人(ドイツ16万人・カナダ13万人・アメリカ8万人)で、先進諸国からは〈難民鎖国〉と非難されていることや、また悪名高かった〈明治2年制定の北海道旧土人保護法〉にかわって、アイヌ文化振興法(通称アイヌ新法)が制定されたのが、ほんの十年少し前の1997年であることなどを考え合わせると、我われ日本人の異民族・異文化に対する接し方がヒコの生きた時代とあまり変わっていないと言える。


さらに、建物や橋梁の手抜き工事、賞味期限など食品の偽装表示、老舗料亭における料理の使いまわし等々。実業家ジョセフ・ヒコが直面した〈足元を見る〉日本的商習慣そのものではないか。もちろんヒコのもって生まれた人のよさ、高潔さが商売人向きではなかったことを十分に考慮してでもである。普段はぺこぺこ頭を下げ、何か事が起きると、開き直る。そして二枚舌を巧みに使い分け、のらりくらりと逃げ回る。


先ほどのヒコと万次郎を比べる物差しの話に戻る。身びいきしない民族的キョリとは、他の民族も視野に入れて物事を考えることと言い換えられる。異民族すなわち異文化とまっすぐに対面し、それらを受け入れることである。民族をこえた(internationally-minded)視点を持つことである。


二酸化炭素、異常気象、オゾン層破壊などばかりが環境問題ではない。ものの見方・考え方の異なった人々と、如何に付き合っていくかを研究するのもまた重要な環境問題の一つと考えられる。


私がヒコの存在を知ったのは五十歳過ぎ、二度目のアメリカ旅行の二年後だった。もう少し早く彼のことを知っていたらと悔やまれた。サンフランシスコを皮切りに、東部のペンシルバニア、ヴァージニアなどをめぐるレンタカーの気ままな旅だったので、ヒコの足跡をかなりの程度まで辿ることができたであろう。


と はいえ、主人公になったつもりで記憶をたどるのは十分に楽しい作業であったし、それだけ独自のジョセフ・ヒコが描けたのではないかと自負する。じっさい、シスコでヒコが初めての職を小さなホテルに見つけたベニシアの町を、グーグルの地図上で探し出し、それを航空写真で見たときは、筆者自身がすっかりヒコになった気分だった。


歴史を作ったのは、何も伊藤や西郷や桂など明治の元勲ばかりではない。名もない、しかし彼らと重大にかかわった人達もまたその栄誉にあずかるべきであろう。先ほど見たように、平成の我々は頭のなかは、幕末明治のころよりさほど進化してはいないと思われる。


親方日の丸。東京一極集中時代はすでにおわった。それはかつては〈常勝〇〇〇〇軍〉などと嘯いていた某職業野球チームが、今や東京の一角の一球団に落ちぶれてしまったことに象徴される。我々の身の回りにはジョセフ・ヒコ的な人物が無数に存在する。


阪神、名古屋、広島は別格にして、北海道、東北、千葉、埼玉、横浜、福岡。プロ野球もすっかり地方に根付いた。今や文化の面においてもローカルなものを正しく評価し、全国ネットに乗せるべきであろう。


拙著がそういうヒコ的人事が掘り起こされ、配信される一助にでもなればうれしい限りである。


          *      *      *


最後になりましたが、拙著に最後までお付き合いくださった皆様方に心より感謝申し上げますとともに、本書に対する忌憚無いご指摘、ご批判を願いつつ筆をおくことにいたします。

ありがとうございました。


筆者


 参考図書


 開国逸史 アメリカ彦蔵自叙伝 土方久徴・藤島長敏共訳 ミュージアム図書

 ジョセフ・ヒコ自叙伝 (一) 開国之滴 鷗洲散士訳  

 ジョセフ=ヒコ        近盛晴嘉        吉川弘文館

 ペリー艦隊 黒船に乗っていた日本人 足立 和     徳間書店

 漂流             春名 徹        角川書店

 日系米人第一号        中川 努        筑摩書房

 アメリカ彦蔵自伝 上下二巻  中川 努・山口 修   平凡社

 怒涛を越えた男たち      播磨町教育委員会






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ