84.エピローグ
エピローグ
ヒコは神戸に落ち着くとともに、婚約者の松本チョウ子を神戸に呼び寄せ結婚する。夫人は上野寛永寺の輪王寺宮一品親王の近臣・松本七十郎道貞の娘である。この時ヒコ三十九歳、チョウ子夫人十八歳であった。
ヒコは実業家としては決して成功したとはいえなかった。それは一つには、お人よしで高潔な彼の性格が災いした。たとえば北風商会の神戸支店開設の話を持ちかけられたとき、親会社の出資能力、融資における担保物件の有無などを事前にしっかりチェックするということをしなかった。企業家としての資質に欠けると言われても仕方ないだろう。
また日米における商習慣の違いもヒコを悩ませた。特にトラブルの解決方法である。法廷で白黒をつけるという合理的な解決方法は、相手を見て商売をする、示談で決着を図る日本的経営環境には馴染まなかった。たとえ裁判で勝利しても、長期化して、大変な労力を要した。開化直後の混乱期には、生き馬の眼を抜くようなあくどい業者が跋扈し、その傾向をいっそう強めた。
したがってヒコが引き継いだ会社が三年余りで行き詰まったのも致し方なかった。
開設してしばらくして、業者の男に茶を抵当に金を貸してやったが、茶価格の下落で男は損失を出した。ヒコは男に契約通りに、貸した金を全額返し、茶を引き取るよう言う。ところが男は雲隠れしてしまう。しばらくして神戸の町で男を見つけ、返済を迫ったところ、男は市価でいいから買って欲しいと言う。ヒコは市価に3ドル上乗せして受け取ることにする。ところが男は再び大阪へと逃げさる。
ヒコは大阪府知事を介して、警察部長に詐欺罪で逮捕してくれるよう頼むと、その陳情書の提出を求められる。陳情書提出により男は逮捕され裁判にかけられたが、民事事件は扱わないとの理由で釈放される。ヒコが今度は合衆国領事を間に立てて追求すると、男はヒコから借金したこと自体を否定し開き直る。
ヒコは、金を貸したときの男の領収書、その場にいたものの証言、借金返済督促状に対する先方からの返書の三種の証拠書類を提出する。日本の司法当局から審問の日が決められ、軌道に乗るかと思うと男は仮病を使って出廷しない。判事が強制出頭を命じると、今度はヒコ自身を知らないとしらを切った。
裁判は当然ヒコが勝訴した。ところが、男が控訴したのでさらに長引く。上告審でも勝利したが、男は弁護士を通して、生計を立てることができないほど貧窮しており、返済は困難であると連絡してくる。
ヒコは前もって使用人に命じて、男の近辺を見張らせ、男が自分の息子名義で商売を続けている事実を掴んでいたので、それを証拠として突きつけ、結局は最終的な勝利を収めた。
解決まで三年近くを要した。当時ヒコが巻き込まれたような事件が、製茶貿易業者の間で多発していた。
81(明治14)年、ヒコは兵庫県知事森岡昌純の依頼により、神戸で新式の精米所を始めるが、これも長続きしなかった。
当時は水車による精米が主であったが、業者は中に白砂を混入させ不正を行っていた。当局の厳しい取締りにもかかわらず、業者の不正行為は跡を絶たなかった。
ヒコは五馬力の蒸気精米車と45台の突き臼で稼働を開始させる。ところが、知り合いの日本人に相談したりして、最初は十分採算が取れると踏んでいたにもかかわらず、儲けがほとんど上がらない。
水車精米業者が白砂を交えるとしても、利益を出すには、相当量加えなければならない。ヒコは小規模経営の日本人同業者が、どのようにして事業を成り立たせているのかを使用人に探らせた。
結果、ヒコは白砂混入のうわさは事実で、その量が百分の二〜三の割合であるということの他に、新たな不正を知らされる。引き取り前に、俵に散水をし嵩上げをはかっていた。ここでもヒコは事前の情報収集および調査研究が如何にいい加減であったかを痛感する。顧客を騙してまで商売をしたくはないヒコは、同業者に原価の三分の一の即金で機械設備を譲り渡した。
譲渡者が残金を払い終わらないうちに、機械の騒音が問題になり、設備の移転を余儀なくされる。譲渡者はヒコとの契約を破棄し、設備を返す代わりに、納入金の返済をするよう迫った。
ヒコは一方的な契約破棄であるから、納入金は払い戻す必要はなく、設備こそ逆にヒコに返却されるべきだと主張した。話合いは平行線をたどったため、ヒコは裁判に訴えた。しかし、結果は被告側に軍配が上がる。ヒコはさらに大阪控訴院でも敗訴する。再度神戸の裁判所に持ち込み、やっと勝訴した。
ヒコは川沿いの倉庫を買い取り、そこに機械設備を移転させ営業を再開した。臼の数も一挙に70台まで増やした。代価表を精米商に配布したりして、顧客拡大に勤める。しかし儲けが上らない。原因は水車精米業者の物々交換主義にあった。
当時精米商人は石数を記入した切符を米問屋からもらい、それを水車精米業者に渡した。水車業者はその切符分の玄米を米問屋から受取り精米した。水車屋は精米した米に加え、砕米と糠とを依頼した精米商人に手渡し、同時に減り分を告げた。
精米商人は手間賃として、引換に見合うだけの生活必需物資を与えた。水車屋の現金収入としては、一石につき五銭五厘だけだった。つまり儲けよりも、日頃の付き合いが重んじられた。
精米業者は損失を出しても、我慢するのが当り前とされた。これはマコンダリー商会で合理的な欧米式の経営方法を学んだヒコにとっては信じがたいことだった。稼ぎよりも人との繋がり先というのは、もはや商売とは思われない。
84(明治17)年の暮、兵庫県書記官・柳本から、精米用蒸気機関借用の申し込みが入る。神戸市街に電燈設備付設の計画が持ち上がり、その発電機としてヒコの蒸気機関に白羽の矢が立った。
ヒコが孤独に耐え欧米の知識を身に付けたのは、祖国のために役立つためである。自分の機械が神戸の街を明るくするなら、願ってもないことである。ヒコは二つ返事で話を受ける。
十二月二十六日、電燈の灯りが神戸の街を初めて照らした夜、ヒコはニューヨークで初めてガス燈を見たときのことを思い出した。サンダースに連れられ宿泊したホテルの部屋にも、窓からみえる街路にもガス燈が明々と灯っていた。ヒコは驚きのあまりしばらくの間動けなかった。
電気燈はガス燈より数倍明るかった。眩しくて眼が痛いほどだ。師走の夜気が少しも寒く感じられない。
「ジョセフ殿。見てください。吐く息が、この通り、白い、です。まるで、真昼のような明るさですね」
点灯式でヒコの傍らに立つ県知事の盛岡が子どものようにはしゃいだ。
ヒコは精米機を県に譲り渡すのを機に一切の商業活動から身を引く。ヒコはこのとき47歳である。
一線から身を辞してもヒコは伊藤俊輔のことが忘れられなかった。このとき伊藤はすでに日本最初の総理大臣の職についていた。ヒコは伊藤がくれたぶかぶか服姿の彼の写真を見ながら、自分より頭半分は小さい彼の、一体どこに一国を率いるような気概が潜んでいるのか不思議に思ったものだった。
ヒコの思いが通じたのかまもなくヒコは伊藤に出会うことになる。
87(明治20)年、五十歳になったヒコは、持病の神経痛が悪化し、治療のため海路東京に向かう。横浜で汽車に乗り換えようとしたとき、偶然伊藤に出会う。
伊藤はヒコの手を握りながら久闊を叙したあと言った。
「どちらへ行かれるのですか、ジョセフ殿」いかにも儀礼的な調子のあと一転、誇らしげに声を上ずらせた「ああ、こちらは外務省の陸奥氏で、こちらが神奈川県令の沖氏でいらっしゃいます。われわれは京都から上京される皇太后様を横浜駅でお出迎えするところです」
伊藤はこういうといかにも忙しげに一礼してヒコに背を向けた。
貴重な時間をとられてもったいなかったと伊藤の背中が語っていた。
東京滞在中にヒコは度々伊藤を訪問したが、いつも留守をしていた。神戸に帰るときにも、会えなかったのでヒコは書記官に名刺を残しておいた。帰宅して間もなく書記官から、折角の度重なる来訪を無駄に終わらせたことを詫びる書簡が届く。
ヒコは何を今更と思った。在京中あれ程度々訪ねたのだから、その気があるなら、都合のよい時日を書記官か誰かに伝えておくことが出来たはずだ。初代の内閣総理大臣になって、欧米の政治制度を導入し定着させるに際しての、気苦労や多忙さは当然あるだろう。しかし就任以来すでに二年近く経過している。今なら三十分や一時間ぐらいは、裂ける余裕はあるだろう。
その年の暮、伊藤が神戸にきたときも、ヒコは知らされなかった。伊藤は神戸で一泊して、翌日郵船の汽船で横浜に帰る予定だったが、何故か乗船せず、さらに次便の長門丸もやり過ごし、結局往路に乗った浪花艦で帰京した。
神戸における伊藤の不可解な予定変更は、伊藤が郵船汽船に乗ろうとするとき暴漢に襲われたがため、との新聞報道で初めてヒコは伊藤が神戸に来たことを知った。
位人臣を極めた身には一介のアメリカ帰りの商人などは何十分、いや何百分の一の値打ちしかなかったであろう。一時期の付き合いを、いつまでも持ち出されるのは、はた迷惑であったに違いない。
88(明治21)年二月初旬、ヒコは神経痛治療に専念するため東京へ転居する。医者のすすめによるものだった。一時は終の棲家と決めた神戸の地、病なら仕方なかった。ヒコはもう神戸には戻れないだろうと思った。郷里の古宮からも離れることになるが、浜田家を再興したし、先祖の墓も建立した。思い残すことは何もなかった。
ヒコは結婚して二年目、夫人に〈先祖播磨国加古郡古宮村浜田長蔵(ヒコ一歳のときに死別した実父)〉の死籍相続人として浜田家を再興させていた。
神戸を去る日、ヒコは船の上から六甲山に最後の別れを告げた。一時期、日々仰ぎ見ながら暮らしたいと思っていた六甲の山並み。ヒコはかすんで見えなくなるまで、じっと見ていた。
ヒコは治療の合間をヒコ自伝“The Narrative of a Japanese”(上巻)の執筆に費やす。ヒコは寺子屋時代より身辺の出来事を書き記すことが好きだった。遭難したときも義父のすすめで携帯していた矢立てで漂流日誌をしたためた。そしてその習慣はそれ以来ずっと続いている。
上巻を92(明治25)年春に上梓し、J・マードックに校正を依頼する。マードックは有名な日本歴史研究家で日本史三巻の大著を残した人物である。上巻は同年十一月丸善から出版される。
引き続き95(明治28)年五月、ヒコ自伝『ナレイティヴ』下巻を完成させ、同年丸善より出版する。ヒコは下巻の邦文訳を藤島長敏なる日本人に依頼したが、その完成を待たずに世を去る。
ヒコは晩年を祖国の人々の間で過ごすことを望んだ。しかし外国人である彼に居住地選択の自由はない。外国人居留地に住むことを余儀なくされた。ヒコの希望を知った第三十三国立銀行頭取の川村伝衛が、自分の語学教師という名目で、ヒコのために小石川原町に土地を世話する。自伝上巻執筆中の89(明治22)年に、新居が完成した。
ヒコは家の裏手で自分のミルク用に乳牛数頭を放牧し、また前庭は一面芝生を敷き詰め、所々に区切った花壇には色々な西洋の四季の草花を植えた。神経痛と寄る年波で、体の動きは次第に自由が利かなくなり、外出するときは人力車に頼った。
1897(明治30)年、十二月十二日、ヒコは六十年の生涯を閉じる。死因は心臓病だった。
日本人として死にたい…ヒコの願いは実らなかった。
〈去る十二日死去せしジョウセフ彦は、維新前後名高かりし播州彦のことなり…日米条約締結の際より引続いて維新前後、内外の間に介して大に国家の為尽力せり。近来は退隠して余年を楽むと聞きしに忽焉死去せしは惜むべし〉
福沢諭吉は十二月十八日付け『時事新報』でヒコの死を悼んだ。
横浜の合衆国総領事ゴーウィはヒコの死去の翌日、本国の国務次官デイに宛てて、次のような内容を添えてヒコの死を報告した。
〈彦は温和で正直でありましたので、彼を知るものすべて彼を尊敬しておりました〉
伊藤博文からは悔やみの言葉さえも届けられなかった。
ヒコの遺体は東京青山の外国人墓地に葬られた。御影石製の三段仏式墓石で、正面には「浄世夫彦之墓」、裏側には「高智院法憧浄辯居士」と戒名が刻まれ、香盤には丸に違い矢の家紋が彫られた。
戒名はかつて彦太郎の遭難を知った義父・吉佐衛門が、檀那寺の住職に特に頼んで付けてもらったものである。
帰化法ができたのは、ヒコの死後二年目の1899(明治32)年だった。
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(注)ヒコ夫人の名前。チョウ「〈金〉偏に〈長〉」が受け付けられませんでしたので、かな書きにしました。あしからず。
次回「あとがき」が最終です。