83.終章(相模灘の彼方の富士の峰)---故郷(6)
83.終章(相模灘の彼方の富士の峰)−−−故郷(6)
明けて1874(明治七)年は年頭から日本は揺れる。一月、朝鮮征伐、台湾遠征など対外政策に消極的だった岩倉公が、不平武士の刺客に襲われて重傷を負わされ、二月に入ると肥前と肥後において暴動が起こり、とくに前者は一時佐賀を占領し、長崎をうかがうほどの勢いを示した。紀州でも騒乱が発生し、全州に広がりかけた。
政府の対応は速やかだった。汽船と電信で事件の報が直ちに東京にもたらされた。電信機は54(嘉永七)年、ペリー提督が再来日したときに大統領からの贈り物としてもってきたモールス信号機である。69(明治二)年には、横浜裁判所と東京築地運上所間に架設され、営業を開始していた。
政府は兵を派遣しこれらすべての蜂起を鎮圧した。佐賀においては激戦が行われたが、まもなく叛徒は降伏した。首魁数名が処刑された。
ヒコは通信の威力をあらためて知らされた。ヒコは初めて電信機を見たときの驚きを思い出した。ヒコがサンダースに連れられ、西部からニューヨークに到着した晩に、翌日のボルチモア駅の到着時刻をサンダースが彼の妻に打電すると、その通り彼女がヒコたちを迎えにきていた。ヒコは魔法以外の何ものでもないと思った。
テレガラフと時を同じくして、驚きたまげた陸蒸気がすでに東京・横浜間に開通している。大阪と神戸の間も今年の秋には通じると聞く。ヒコは異国の技術を取り入れることの新政府の熱心さ、そして日本人の勤勉さにあらためて感心した。他方、外部を取り繕おうとすればするほどそれだけ中身が疎かにされるのではないかとの疑念もわいた。
まもなく府県知事会召集に関する太政官布告を横浜新聞で読んだとき、その思いを強くした。
〈全国民の代表者をして公に法律を議せしめ、以て朝野一致の道を開き、以て国民の志望を達せしめ…〉
上から下へ。この一方向に日本人は馴染んでいるようである。このやり方は表を揃えるときにしか効果がないような気がする。府知事にしても政府が任命したものである。下から上に向かって変えていく、指導者を人々の中から選ぶアメリカ型民主主義とは大変な違いだとヒコは思った。
十一月十一日、ヒコは旧東海道を旅する機会を得る。少年時代に義父の吉佐衛門たちから沿線の名所旧跡についてよく聞かされていたので、出かける前より胸躍らされた。
横浜で汽車を降りてからは駕籠に乗り換え、箱根、名古屋を経て伊勢に達っする。伊勢では伊勢神宮の壮麗な霊廟に天皇家の威光をしのぶ。大津から京都へは人力車に乗る。京都からは再び駕籠。大阪で奈良在住の友人レッパーと出会って旧交を温めたあくる日神戸に到着する。
神戸では滞在先の友人から、商売変えを考えている両替屋の相談に乗ってくれるよう頼まれる。ヒコは神戸で新たな商売を計画していた矢先でもあったので、二つ返事で依頼に応じる。そして、ヒコも共同出資して製茶の輸出業を始めることにする。
十二月十四日、大蔵省での事務処理、横浜の事務所と住居の後始末のため神奈川に戻る。
明けて1875(明治八)年一月、63年以来横浜に駐屯していたイギリスとフランスの軍隊が退去した。
英仏公使が寺島宗則外務卿に出した書簡の新聞報道から推し量ると、駐屯は居留外国人保護目的であったが、新政権が安定の方向に向かっている今すでに駐留の必要はなくなったとのことである。
活発な商業活動には世の中の安定は欠くことが出来ない。これから事業を始めようとするヒコたちには励みになる知らせである。
政府も治安維持に自信を持ったか、三菱汽船会社に横浜・神戸・長崎・中国間の便開設の許可を与えるとともに、九隻の汽船を供与した。また船による郵便事業を支えるため毎年26万円の補助を与えているとも言われている。
聞くに三菱の創始者はむかし土佐の一介の浪士であったらしい。驚いたことにヒコとあまり歳は違わないとか。遭遇した艱難はヒコのほうがたぶん勝っていただろう。しかし、成り行き任せだった自分とは異なり彼は自ら立ち向かい克服していったに違いない。とはいえ、政府の支援が得られる三菱が羨ましかった。
両替商北風荘右衛門との共同経営で製茶の輸出業を始めた。ヒコが神戸の支店を任される。しかし、本店からの出資金1万ドルでは運転資金の3万ドルに遠く及ばす、直ぐに苦境に立たされる。ヒコは県知事の伊藤博文を訪ね融資を頼み込む。
70(明治三)年、両親の墓碑建設に帰郷したとき以来の出会いである。
伊藤はヒコをたいそう厚遇したが、依頼をきくと途端に事務的な口調に変わった。
「現在、銀行に20万ドルばかり預けていますが、利息がわずかに四分しか付きません。もし貴方に確かな抵当がおありなら、五分の利息で三、四万程度ならお貸しできると思いますが」
「本店は1万を出すのにも精一杯ですし、私もおなじです。株券一枚としてありません」
「今の時代、現金以外の担保物資は困難ですな。無担保でお貸しするというのは、いくら貴方と私の間といっても…残念ですが」
伊藤は冷ややかに言い放った。
ヒコはこんなにそっけない伊藤を初めて見た。伊藤はヒコの恩を忘れたようだ。
薩摩藩士を装って木戸といっしょに訪ねてきたのが最初の出会いだった。外国事情を知りたいと言って質問ヒコを攻めにした。
アメリカ型民主政治の話をしてやると二人して眼を剥いた。長州のものと見破られるや一転開き直り、朝廷と江戸幕府の歴史を長々と聞かされ、その挙句に長州への協力を約束させられた。
そして、あのロドニー号のこと。操船技術を習ってそれを部下に教えるためだと言ってヒコに外国船を世話してくれるように頼んできた。ヒコはロドニー号を見つけて乗せてやった。出向直後にやってきた木戸から初めて、伊藤の本当の乗船目的を知らされた。
伊藤は鳥羽伏見の戦い直後、無政府状態に陥った兵庫に到着すると、直ちに兵庫奉行所を仲間の壮士を率いて乗っ取った。ヒコの援助については詳しく知らない新政府は、伊藤の行動を高く評価し県知事に任命したのだ。
ヒコから言わせれば伊藤は英雄でもなんでもない、ただの火事場泥棒一味の首領だ。
「伊藤さん。いつぞや貴方は兵庫に港が開かれたときは、私を長州の貿易代理人してやると言ってくださいましたね」
ヒコは彼の口約束を思い出した。当てつけで切り返すことぐらいしかできない。
「そうでしたかね、そういうお約束をしたような気もします。しかし、当時は藁をもつかむ思いでしたから」伊藤はあっけらかんと言ってのけた「それに、今あるのは長州政権ではありません。維新政府なのですぞ、ジョセフ殿」
ヒコは完全に伊藤の踏み台にされてしまった。
ヒコは伊藤が長崎を発つ前の晩、彼から彼を撮った写真を贈られたが、彼の眼の前でそれを破り捨てたい思いであった。
伊藤は知事室から辞去しようとするヒコに向かって言った。
「ジョセフ殿。時は待ってはくれないのですよ。タイム・アンド・タイド・ウェイト・ファ・ノウ・マン。西欧のことわざにもあるではないですか」
引き返して北風に尋ねると担保らしいものは兵庫の海岸に立つ100棟ほどの倉庫ぐらいである。県取引の銀行と掛け合ったが倉庫などを抵当扱いすることは規則違反といわれた。
商人からの借金を考えたが、一割二歩〜一割五歩という高利では手が出せない。担保物件もなしに、銀行からの融資に頼ろうとしたのだから、全くヒコの落ち度である。生来の呑気さ、人の好さ災いした。結局わずか九ヵ月でヒコは経営を任された支店を閉鎖し、北風との提携を解消する。
仕方なくヒコは破産した支店を受け継ぎ、単独で続けることにする。外国籍のものは市中営業が許可されなかったため、し婚約者の弟・松本銀三郎を東京から呼び寄せ番頭として雇う。
ヒコは大蔵省に勤めている時分に、結婚相手を決めていた。
ヒコも三十半ばを過ぎていた。若い頃は異人扱いされても耐えられたが、盛りを超すと寂しさがつのるようになった。慰めてくれる相手が欲しかった。
ある日、事務の仕事に疲れたヒコは眼を休めるため外に出た。早春の冷たい風がほてり気味のヒコのほほに心地よい。行き交う馬車や荷車の響き、商人たちの掛け声など。神戸の町の賑わいが、近頃閉じ篭りがちなヒコの耳朶にはどこか懐かしい。
見上げると六甲の山並みが見えた。
ヒコは先日の伊藤の言葉を思い出していた。
〈時は待ってはくれないのですよ〉。聞き分けのない幼児に言い聞かせるような語調だった。しかし、その通りだ。伊藤に一本取られたのだ。英語力、英米事情に関してははるかに素人のはずの彼に、英語の諺まで引用され諭された。人を見る眼、時代の先を見る眼においては到底彼には太刀打ちできそうもない。
振り返ればヒコは幸運に恵まれ通しだった。窮地に陥ったときでもきっと救助の手が差し伸べられた。栄力丸で遭難・漂流したときはアメリカ船に拾われたし、ワシントンで国務省入りが駄目になり、経済的に行き詰まったときは中国にいるサンダースの友人が送金してくれた。
さらに帰国の便を探していたときに、ブルック艦長が測量船に雇ってくれたし、そのあとハワイで香港行きの他の船に乗り換えたとき、船賃が足りなかったのを現地在住の友人が気持ちよく補助してくれた。その他、他人の親切、善意に頼ってばかりだった。
そういう意味では、合衆国の国籍を取り、キリスト教に改宗したことも前向きに捉えなければならないのかもしれない。実際、幕府が警護をつけて攘夷派の刃からヒコを守ってくれたし、合衆国で高等教育が身に付けられたのはカトリックの大学だった。
確かに、稀有な体験をしたという意味では、伊藤は自分にはるかに及ばない。しかし、自分の体験はいつも与えられたものだった。自ら飛びこんで行ったことはあまりなかった。
伊藤は井上といっしょではあったが、密航までして西欧に渡った。帰国してからは、変装して長州に上陸し、藩政刷新を図ろうとした。そして、チャンスと見るや、ヒコを出し抜いてまでして、兵庫を押さえた。
攻める者と待つ者との違いは大きい。ヒコは所詮伊藤の敵ではないのである。伊藤に手を貸すことで日本の近代化に尽くす、むしろ彼とのかかわりを善意に解釈すべきなのかもしれなかった。
〈ジョセフ殿。時は待ってはくれないのですよ。タイム・アンド・タイド・ウェイト・ファ・ノウ・マン〉
伊藤の言葉が三度聞こえた。
そのとき不意に背後で番頭の銀三郎の声がした。
「六甲山もきれいですが、富士山にはかないませんね。膝元にも寄れません。東京からくるとき船の上から見ましたが、それはそれは見事でした。頂上に雪をいただいていて、それがお天道様にきらきらと輝いて、いつまでも見飽きませんでした」
半ば夢見心地である。
「君は雪の富士山を見ましたか」
「富士山を見ること自体今回が初めてだったんです。ジョセフ殿は?」
「これまでたびたび見る機会はありましたが、雪の富士山はまだです。相模の海を行き来したことは、数え切れないほどあるのですが、夜の間だったり、昼間でも季節が暖かかったりして、まだ雪の富士山にはお目にかかっていません」
「そうですか。アメリカにおられるとき、富士山を思い出して寂しさを紛らしたとおっしゃっていましたが、雪の富士山は貴方の心の支えだったんですね」
「確かにね、十三年ぶりに帰国したとき見た富士は、雪はなかったですが素晴らしかったですよ。異国で挫けそうになる自分を支えてくれただけのことはあると思いましたね。でもね…」
「でも?」
銀三郎の催促にヒコはただ眩しそうに眼を細めて、しばらくの間六甲山を見上げていたがやがて答えた。
「つまり、相模の海の輝きの向こうには、六甲の山並みがあったというわけです。六甲山もいいですよ。今は冬枯れではかばかしく見えませんが、春は新緑、夏は緑、秋は紅葉にそれぞれに美しいですよ。それにね、冬はたまにですが、雪が積もることもあるんですよ。化粧したようにうっすらと」
「相模の、海の、輝きの、向こうには、六甲の、山並み、ですか」
銀三郎はかみ締めるように一語一語を区切ってヒコの言葉を繰り返した。
ヒコは銀三郎をちょっと見やったが、直ぐに視線を元に戻し、再び六甲の山並みを眩しげに見上げた。
完
ヒコのその後については、次回エピローグに回します。あと一回ご辛抱ください。