82.終章(相模灘の彼方の富士の峰)---故郷(5)
82.終章(相模灘の彼方の富士の峰)−−−故郷(5)
翌1872(明治五)年が明けてまもなく、肥後の藩士が熊本に駐屯する新政府軍兵士の指揮官を池に投込んだという知らせに接したとき、ヒコはつい先月友人と熊本城を訪れたときのことが思い出された。藩士たちが城を政府に明け渡すのを拒否するため、城を破壊するとまで言っていることを家老から聞いた。彼らの不満が噴出したのだとヒコは思った。
これは肥後藩だけに限られたことではないだろう。程度の差はあるものの全国の藩は江戸の政権を支えてきた。その政権に維新政府が武力で取って代わった。すんなり治まるわけがなかった。不満分子は他の藩にもいるに違いなかった。
ヒコの想像は当たった。二月、佐賀および伊万里で藩士が騒ぎを起こし、家禄の変改を論じたあと、壮年層を中心に新政府打倒の叫び声をあげた。さらに、三月には、柳川藩士が新政府に抵抗するため城に放火した。多量の火薬が城中に保管してあったため大爆発を起こした。爆発の際の振動は数マイル(6,7キロ)離れた所でも感じられたという。
熊本でも藩士が、兵営代わりに手渡した城の一部に火を放ったとのうわさが流れたが、こちらはデマだった。
同じ三月、肥前および長州の兵との不和を理由に、若干の薩摩兵が東京から追放されたとの報が伝わったとき、ヒコは藩士同士のいがみ合いがついに首都にまで及んだと思った。新政府の膝元に火が及べば、ヒコにとっても他人事でない。
政権が安定しなければ、帰化法の実現は明らかに遅れる。下手をすれば自分が生きている間は難しくなるかもしれない。
奇しくも1872(明治五)年のこの年、いわゆる壬申戸籍が導入され、江戸以来の宗門人別帖制度が廃された。ところがこれには帰化条項が含まれていなかった。もっとも婚姻、養子縁組を通して相手の戸籍に入ることは可能であった。
しがって、ヒコが日本人女性のところに婿入りをすれば簡単に日本人に戻れた。ヒコはまだ三十歳過ぎ。その気になりさえすれば条件は整っているのである。しかしヒコは家出人のように、裏口からは戻りたくなかった。
《私はアメリカ帰りの浜田彦蔵として、正面玄関から、堂々と日本に帰るのだ》
ヒコの信念は揺るぎなかった。
五月、工部省の友人から同省職への誘いを受けて思案しているところに、大蔵省の本野氏からも働き口の打診がくる。
本野盛亨は、ヒコの『海外新聞』の〈童子にも読なん〉新聞精神を受け継いだ『読売新聞』(1874[明治七]年創刊)の創刊者の一人で、彼とは1867(慶応三)年、肥前藩主鍋島閑臾の使いとして彼が長崎時代のヒコを訪ねてからの縁である。
横浜税関長をしていた関係で、本野は大蔵省の井上馨大蔵大輔とは懇意であり、高島炭鉱の清算事務をしていたヒコを望んだのであった。
ヒコは旧知である本野の勧めを受ける。
東京への呼び出しを待つあいだのことである。知り合いの税官吏が新しい御誓文の写しを見せてくれたとき、東京行きが心急かされる気分になった。実態にそぐわないとして、旧の御誓文が前年の冬改正されたばかりであった。
前文に〈三省を増設して八省となし、…従来錯雑せる法律規則を確定するに必要なればなり〉とあった。自分のためでもありヒコは新しい政府のために早く尽くしたいと思った。
八月上京の途上、大江卓神奈川県知事がヒコを横浜居留地のイギリス倶楽部の晩餐に招待した。彼と税関長の本野と夕方までの時間を馬車で居留地の周辺を散策下が、その変わりように眼を見張った。
競馬場が作られ、道路は広げられ、丘の上には立ち並ぶ瀟洒な家々には美しい花の咲く庭園があった。ヒコが住んでいた66年頃は横浜の半分は田畑が残る小さな漁村であった。
晩餐会では、副知事と神奈川の西裁判官にも会った。ヒコは初めてだったが、副知事はそうでもないらしく、自己紹介を終わるやいかにも感慨深げに話掛けてきた。
「ジョセフ殿、私は昔からよく貴方を存じ上げております。もっとも、昔は夷狄の風に染まった人物としてでしたが。以前、貴方はここにお住まいのとき、攘夷派浪士に命を狙われたことがおありでしょう。私はあの時貴方を付け狙ったうちの一人でした。今では、貴方の頭上に刃をよくも打ち下ろさなかったと安堵しております。…まさか、今日ここで貴方と晩餐に同席することになるとはね、夢にも思いませんでした」
ヒコははじめ冗談だと思った。しかし知り合って早々のジョークにしては、あまりに生々しい。戸惑っているヒコに裁判官の西氏が真顔で頷いた。
ヒコはしばらく言葉が出なかった。
「その私が貴方と同じ政府で働くのですから、これを呉越同舟というのですね」
ヒコは習いたての故事で切り返すのが精一杯だった。
翌日、開通してまのない汽車の一番列車で東京に向かう。
東京では官舎が完成するまで知人のT・ウォーター氏宅に厄介になる。
ヒコの仕事は主計局長・芳川顕正(後の東京府知事、文部大臣)の下で、アメリカ合衆国に倣って国立銀行条例を作成することであった。
明治新政府は当初、旧幕府、各藩の発行した一切の通貨を引き継いだため、その統一整理を喫緊の課題とした。その対策として政府はいわゆる太政官札などの発行を試みたが、金との交換ができない不換紙幣であったため、増刷されるに従い価値を下落させる結果を招いた。
近代的な銀行制度の確立の必要性を痛感した政府は、合衆国のナショナル・バンク制度を採用することにしたのである。
ヒコは銀行事業の専門家であるアメリカ人友人のアドバイスを受け、銀行条例・規範・規則の作成に当たる。そして日本版ナショナル・バンク条例完成後もさらに銀行条例改正にむけ尽力するが、その間1873(明治六)年、井上馨は予算編成をめぐり大久保利通や大隈重信と対立して辞任していた。
大蔵省在任中は職務以外でもヒコは活躍する。
八月末、卿代理・渋沢栄一の緊急呼び出しを受け、神奈川県知事・大江卓より、横浜停泊中のペルー船訴訟事件に関する依頼があることを知らされる。芸娼妓「牛馬ときほどき令」を出させたいわゆるマリア・ルース号事件である。
この事件は船体修理と水補給のため緊急寄港したペルー船から中国人労働者たちが逃げ出し、同港に停泊中のイギリス船に助けを求めたことに端を発する。中国人たちの話を聞いたイギリス公使は、中国人労働者虐待でペルー船のヘレイラー船長を日本政府に訴える。
当時日本はペルーとは外交関係がなかったため、裁判は日本において英語で行われることになった。大江知事は原告の申し立てを聞くため英語の堪能なヒコに頼んだ。
取調べの結果船長は罪を認める。日本法に照らせば彼の罪科は重大で一百以上の苔杖か、一百日以上の自宅禁錮に当たるとの判決が下される。しかし、本人が罪を素直に認めたのと、拘留期間が長期にわたっていたため、情状酌量され放免される。
ところで審理のさなか、中国人たちが不当に奴隷的な労働契約をさせられていたことが明るみに出た。船長の日本人弁護士は日本にも類似した奴隷的売買が存在するとして、遊女と遊郭主間の契約書を提出する。
そして知事など多数の官吏たちが驚きうろたえるなか、弁護士はその契約書を声を張り上げ読み始める。裁判長は慌てて朗読を止めさせた。
十一月十二日、政府は遊女と遊郭主人間の契約を破棄せよとの布告を出す。
明けて1873(明治六)年二月、近頃になくヒコを喜ばせる出来事があった。政府が全国に設けられていた高札場を廃止し、キリスト教の禁を解く。三月には、尾張方面に流されていた浦上のキリスト教徒たちは郷里に帰ることを許された。
もっともこれは、禁を解かなければ外国に駐在する日本人公使への厚遇は約束できないとの諸外国からの圧力によるものと聞けば、素直にはヒコは喜べない。
しかしまもなく起こった薩摩首長・島津三郎の東京行進をみればそれも頷ける。断髪、洋装化が急速にすすむ首都東京に、旧藩主の彼は両刀差しの紋付羽織袴姿で突然現れた。旧幕時代の大名行列然として多数の藩士を従えている。彼らは外国人に出会うたび罵声を浴びせたため、外国人たちは生麦事件を想起して震え上がったらしい。この薩摩が新政府に加わっている。
そういう時期における井上大蔵卿たちの突然の辞任は青天の霹靂、朝野を問わずさらに外国人たちをも驚かした。ヒコが大蔵省に出仕することにしたのは井上卿との個人的な繋がりからである。帰化法実現につても話題にしたことはあったが、仕事を離れたときでしかなかった。
大分、鳥取、福岡などから旧藩士たち反乱の知らせが届き、国外ではあるが、台湾に流れ着いた琉球民が現地人に虐殺されたことに抗議するため、外務卿の副島氏が軍艦で中国に向かった。
かくも新政府が国の内外において多忙な時期に、個人的な願い事が出せるはずがない。
ヒコは適当な時期に官職から身を引こうと考えた。
ヒコに残された道は貿易業しかない。幸運にも、開港されて間のない神戸の港は躍進著しい。それに生国の播州はすぐ近くである。帰化が実現しなくても、アメリカ人のままでも、故郷の傍らで暮らせれば今は満足であった。
つづく