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81.終章(相模灘の彼方の富士の峰)---故郷(4)


81.終章(相模灘の彼方の富士の峰)−−−故郷(4)


 十一月二日、酒井公の要請に応えるために姫路の城下へ向かう途中、ヒコは故郷古宮の浜田村に立ち寄り、墓碑建立の落成式典の用意を松浦家に頼んだ。松浦家は最初里帰りしたときヒコたちを二晩世話をしてくれた家である。


石碑は前年帰郷して明石の石寅に注文していた。姫路からの帰路、藩公からの御下賜品・定紋入りの羽織の披露を兼ねて、盛宴を張る予定である。


 翌日三日は天長節。長崎で知り合った藩士たちを訪ね、手土産を贈ったあと、ヒコは旧城前で家老本田隠岐を大将とする兵隊の軍事訓練を見る。兵士は雷銃を携え、半洋風の軍服に身を包む。この後、旧幕時代には縦覧を許されなかった白鷺城の城内を案内された。


天守からの眺望にヒコはしばらく我を忘れた。東方を望めば一面に田畑が広がり、その向こうを市川の白い流れがまっすぐに流れ下っている。西北の方角に眼を転ずれば、はるか彼方に書写山が霞む。書写山には武蔵坊弁慶縁の円教寺がある。さらに南をはるかに眺めれば、城下の家並の果てるずっと彼方に、青い瀬戸の海が大小の島々を散りばめて細く長く横たわっている。


「私が姫路の御城を初めて見たのは未だ漂流前でした。従兄の船で琴平や宮島見物をしたのですが、そのとき船の上から見ました。船客の一人が指差して教えてくれました。海の上からでも、見事な姿でした。白壁が美しく輝いて、遠目にも鳥が飛んでいるように見えました。さすが偉い御殿様が御住まいになる館だけのことはあると思いました」感に堪えたヒコは思わず口を開いた「それが、まさか自分がこうして、この天守に上らせて頂けるとは。信じられません」


「藩主の酒井公も拙者どもも、同感でござる」

 案内役の近藤氏がわが身に置き換えたような答え方をした。

 政治、社会の大変動は彼らとて同じなのだった。


 夜は家老の河合氏宅で晩餐を馳走された。彼は大変好奇心の強い人らしく、人力車を持っていた。人力車は発明されて日まだ浅く、神戸でも見ていなかったものに、姫路の城下でお目にかかった。


 二日後、城代家老宅での饗宴の席で、ヒコは六十人余りの藩高官とその知友たちに外国事情を語った。主君の客だからといって、家老の本田氏は遠慮するヒコを無理やり自分の隣に座らせた。十二三歳の少女十五人が給仕をしてくれた。

 ヒコは十日間姫路に滞在した。


十一日、ヒコは姫路を出発し浜田村に立ち寄る。松浦のおばさんのお陰で墓碑の除幕式を恙無く執り行うことができた。布で包まれた三段積みで御影石の石碑は、周囲を石柱の柵で取り巻かれ、蓮花寺表門を入ってすぐ右側の、本堂に続く石畳の小路に面した空地に据えられていた。

 除幕されるや、ヒコは歩み寄り表面に刻まれた戒名を見た。

  心 觀 淨 念 信 士、

  弘 覺 自 性 信 士、

  修 善 即 倒 信 女、


 小母さんと住職に頼んで付けてもらったものである。漢字一つひとつの意味は大体知ってはいたが、組み合わせるとどんな意味になるかは、住職が説明してくれてもよくは解らなかった。母の「即倒」については、亡くなったときの状況をヒコの口から詳しく話しておいたので、すぐに理解できた。


 石碑の右側にはこの日の日付、明治三庚午年十一月が、そして左側には彼らの命日が彫られている。しかし、行方知れずの義兄のところは空白にしてある。義父は安政三丙辰年十二月二十三日、母は嘉永三庚戊年五月十有八日とある。


 義父の死を知ったのは、義兄が領事館に訪ねてきてくれた時だ。サンダースのように優しく広い心の持ち主だった。船旅から帰郷するたび、珍しい土産を買ってきてくれたり、旅先での面白い話をしてくれた。異国への憧れをもったのは、()()をしていた義父の存在が大きい。


 二度目に帰郷したとき、ヒコは年老いた蓮花寺の住職から義父がまだ達者だった頃のことを聞いた。自分が行方不明なって四年後、栄力丸漂流民一行が長崎に帰ってきたとき、長崎奉行所より、地元出身の清太郎、浅五郎、喜代蔵、甚八の四人の身元確認の調査があった。


彦太郎については「…彦太郎外弐人ハ外国又者唐国ニ而立別候ニ付、行衛不相知」とあったため、自分は死亡したものとされた。生還を知った四人の家族や縁者が歓喜していたので、それだけ彦太郎の義父吉佐衛門の落胆の仕様は甚だしかった。義父は、ヒコがまだ子供だったために、住職に頼み込んで戒名を付けてもらった。


「法憧浄辨信士」という。住職が過去帳を見せてくれた。戒名は、仏教では死んだとき誰でもが与えられるもので、その人物の人柄とか、生前の社会的な業績などから付けると言う。住職の説明によれば、「法憧」は仏法の印をつけた旗ほこのことだが、「憧」はまた「憧れる」にも通じるし、さらに偏を取れば「童」で少年ことである。


さらに、「浄辨」はそれぞれ「汚れのない」と「わきまえる」を意味する。異国に憧れ、素直で、よく親の言いつけを守った彦太郎を偲んで付けたという。


「〈辨〉を〈辯〉と変えれば、〈通辯〉を表しますで、〈ジョ(浄)セフ通辯〉とも読めますわい。お義父(とう)さんの吉佐衛門殿は、ジョセフ殿、貴方の未来をお見通しだったのかもしれないですのう」

住職はヒコに向かって盛んに感心して見せた。

ヒコは住職の説明が理解できず、ただ住職に合わせて頷くだけだった。


 母はヒコが未だ幼いとき、瀬戸内の船旅から帰って直後に、突然脳卒中に倒れ息を引き取った。意識を失う前、母が床の中より腕を伸ばし、震える手で貴重品を収蔵する土蔵の鍵束をヒコに手渡したのが、今でも鮮明に思い出される。


 墓石の裏手に回って初めてヒコは人心地つく。

‘Erected to the Memory of his Parents & Family by Joseph Heco December 1870’


 十行に分けて刻まれている。前年、アルファベットなど彫ったことのない石工に、ヒコが直接会い指示したものだ。祖国の国籍が得られないなら、せめて自分を故郷に結びつける家族の墓石には、英文で自分の存在を書き残したいと願った。一字々々手渡した原稿通りに刻まれており、ヒコは石工の技能の確かさに感心した。


「〈ジョセフ・ヒコ 両親と家族の記念碑をここに建立する 一八七〇年十二月〉と彫っ

てあります。正面と左右が漢字、裏面が英語。これは私のことです。私は四分の三が日本人で、残り四分の一がアメリカ人ということです」


英文の意味を説明された住職はヒコの言葉の意味がよくは分からなかったのだろう、言い終わったヒコが苦笑いすると、少し遅れて曖昧な笑い方をした。


 式典を終え立ち去る前に、ヒコはもう一度石碑に向かった。最初の帰郷の時は、故郷だけは温かく迎えてくれるのでは、と期待した。しかし甘かった。〈四つ足獣を食う毛唐〉とか〈バテレンみたいに気色悪い〉などと村人から囁かれ、蔑まれた。


自分には故郷はないのだ。墓石建立の念願が叶った今、もう何も思い残すことはない。父母の石碑にヒコの名前を刻んだからには、死後は自分は必ず父母の膝元に行くことができる。帰化して日本人別に戻るという望みは、これできれいに捨てられる。


 そのあとヒコは参列してくれた松浦家の縁者や村人たちのために祝宴を供し、酒井公御下賜の紋入りの反物を披露した。


長崎に帰ったヒコはその年の末近く、J&M商会の友人とともに熊本に招かれ、熊本城を案内される。しかし、かつては藩主が使った部屋は今はがらんとして何もなく、ただ二三人の番人がいるのみで、また往時の絢爛豪華さを物語る周囲の襖は全て引き裂かれ、辺りに放り投げられていた。


名将加藤清正の建てた日本四名城と一つと聞かされていたヒコは、その余りの落ちぶれように言葉が出ない。廃藩して中央政府に引き渡すまでは、部外者は立入り禁止であったので、この破壊は維新が成って以降のことであると、案内役の家老平野九郎右衛門が説明した。


 天守からの眺望は絶景であった。つい何日か前上った姫路城の天守を思わせた。すぐ眼下に、城の濠を隔てて外側に立つ細川公の邸宅とその庭園が見下ろせる。庭園は人工の山や岩や池が面白く配置され、それらの間に梅、桃、桜、松などの木々が美しく植えられている。城と邸の間は、屋根と窓を備えた橋で繋がれていた。


 ヒコは家老が城の取壊しの許可を政府に願い出ていると聞いて驚く。

「家臣の中に城を新政府に手渡すことに反対するものが多いことにくわえ、城を保有しておくと政府への謀反を企てていると誤解される恐れがあるためでござる」

 家老は無念そうに説明する。


「そんな馬鹿な! こんな貴重な建造物を壊すなんて、野蛮人のすることだよ」

 友人は信じられないといった調子で叫んだ。

「私もそう思います。それに、単に城一つが残っていることが、陰謀の有る無しを決定するなど考えられません」

 ヒコも強い口調で反対した。


 もっとも二人のセリフは英語である。家老には通じない。しかししかめ面をしたところを見ると、二人の険しい表情と激しい口調から、意味を察したに違いなかった。


 熊本城の廃毀は70(明治三)年に藩知事の名で中央政府に出され、すでに承認されていた。藩内においても、〈無用をはぶき、実備を尽くす〉ための藩政改革の一貫として取壊し案が諭告されていた。


 このあと政府は許可を撤回し、熊本城には鎮台を置く。そして77(明治十)年、西南戦争のときに西郷隆盛率いる薩摩が熊本に入る前日の二月十九日に、原因不明の出火により天守閣が焼け落ちる。


 ヒコは熊本城の運命を聞かされたとき、建物は簡単に壊せても人々の心はなかなか変えられないだろうと思った。切腹に対する一般日本人の考え方がそうである。


封建時代の初めのころは、大名が死んだときは、殉死と言って股肱の家臣は切腹して主君の冥途の供をすることが期待されていたが、三代将軍家光逝去を最後に行われなくなっていた。


ところが殉死がつい今年の三月にあった。それもヒコの極めて身近なところで起こった。ヒコが贔屓にしてもらっていた肥前閑叟公が亡くなったのだが、家臣の古川與一は葬儀万端準備を整えたのち、黙って一室に入り、静かに割腹した。


ヒコは殉死がなお生きていることが驚きであったが、それを大いなる賞賛を持って世間が迎えたことがさらに衝撃であった。


                                つづく


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