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80.終章(相模灘の彼方の富士の峰)---故郷(3)

80.終章(相模灘の彼方の富士の峰)−−−故郷(3)


維新政府が単に江戸幕府が衣替えをしただけに過ぎないことを示す事件が、この年の二月にヒコの近くで起きる。禁教政策を引き継いだ新政府が、長崎・浦上村のキリシタンたちを流罪の刑に処したのだ。約3,280人の耶蘇教徒たちは西日本を中心とする20藩22ヶ所に強制移送させられた。


宗派こそ違えヒコもクリスチャンである。他人事ではない。領事館時代のことが生々しく思い出される。幕府との交渉の場とか、ヒコが個人的に警護されたときなど、幕府の役人から、〈この西洋かぶれの、毛唐メが!〉と言わんばかりの蔑みの視線をしばしば浴びせられた。


《考えてみれば、国の頭を大君から天子様に挿げ替えただけ。中身が変わるはずはないのだ》

ヒコにとって祖国は依然としてはるか彼方。相模灘の富士の峰は以前にもまして遠ざかって見えた。


時を同じくして始った鉄道敷設計画の推進にヒコは希望を託すしかなかった。政府が契約を交わしたイギリス人技師が来日し、江戸・横浜および神戸・兵庫間の鉄路建設予定地の測量を開始したのだ。欧米の奇跡が日本人の頭まで変革してくれることをヒコは祈らずにいられなかった。


六月、二人の宮方が外国、イギリスとアメリカへの留学に出発したとの報はヒコに勇気を与えた。国のリーダーの親族が欧米に学ぶのである。天子に右へ倣えをする国。人々は少しずつ変わるだろう。


秋が来て、68年以来ヒコの勤めるグラバー商会が潰れる。商会がドル箱とする武器、艦船など兵器類が、内戦終結のため売れなくなったのに加え、掛売りをしていた薩摩、長州など諸藩の財政が破綻した。


高島炭鉱を抵当にして横浜のJ・マセソン商会から、多額の借金をしていたが、返済を迫られついに破産を申告する。負債総額は50万ドルであった。ヒコも債権者の一人で、かなりの損害をこうむった。


ヒコは大して慌てなかった。サンフランシスコ時代にマコンダリー商会で実務を叩き込まれた。横浜ではアメリカの商社の代理人も務めた。いまやヒコもいっぱしの商業人である。戦争景気で回っている商売は、平和がくれば破綻するのは自明の理だ。グラバー商会の破綻はそう遠くないと踏んでいた。


それに、内心ほっとしてもいた。糊口を凌ぐためとはいえ同胞の殺し合いに手を貸すことは心が痛んだ。


体の空いたヒコは十月の末、兵庫に行き、伊藤知事を訪問したあと、故郷播州までの通行証明書の発行を受ける。家族の墓を建立するためである。菩提寺の蓮花寺住職と戒名など詳しく打ち合わせた帰路、神戸の石工店に立ち寄り墓石の注文をする。


開設間近な大阪造幣局の様子を見るため、大阪に行って技師のウォーターに会ったところ、造幣局長に井上聞多が任命されたことを知り、訪ねる。ヒコは井上から歓待される。ヒコは墓建立のことや、グラバー社の破産のことなどを井上に語り、彼からは新政府の状況などの情報を得た。


「貴方ほどの人材が野に埋もれるのは、国家にとっては大いなる損失です。是非、我々新政府の中にお招きして、お力添えをいただきたい」

 心強い井上の言葉を背にヒコは彼と別れた。


 大阪から神戸までは土佐の産物会社所有の外車汽船ナットレス号で送られ、二週間ほど神戸に滞在したのち、オレアン号で長崎に帰った。


居留地で小さな貿易業を始めてまもなく、ヒコは肥前公より高島炭鉱の顧問職への招請を受ける。ヒコは肥前役人の松林を助け、高島炭鉱とJ&M社の契約を実現させる。ヒコは報酬としてT・グラバーより大判一枚を与えられる。


〈この大判はT・B・グラバーが肥前公より受領したもので、ヒコ氏の懇篤及び営業上種々の相談に対し感謝の意を表すためヒコ氏に贈る。 1870年12月25日〉

大判にはT・グラバーのサイン入りの言葉が記されている。


高島炭坑に顧問として職を得てしばらくたった八月、薩摩に赴く姫路藩の高官数人が途中で、何の前触れもなくヒコのところに立ち寄った。ヒコは姫路藩主とは一面識もないし、その高官も知らなかった。とはいえヒコの生国の役人である。


ヒコが彼らを歓迎するため居留地に案内して、西洋料理を食べさせたり、外国人の生活を見せたりしてやると、彼らは大いに感謝感激し、帰ってからそのことを藩主の酒井公に報告した。酒井公は折り返し礼状を寄せ、いずれ機会があればその報酬をも供したいとヒコに告げた。


八月、旧幕吏の一人で外務省につとめていた知友・斉藤氏が、月俸250ドル・官舎付の職を打診してきた。ヒコは高島炭鉱の計算整理、記録編纂で多忙を極めていた。責任者の松林は、自分一人では仕事はお手上げだと言って、ヒコを必死で引き止める。


日本に帰化法がない今、みずからが実現に向け運動しなければならないのではないか。中央政府の一員になって、夜昼なく各方面に働きかける必要があるのではないか。二度とこのようなチャンスはやって来ないかもしれない。ヒコは悩んだ。


ヒコに引導を渡すようにして、すぐ翌日旧姫路藩主酒井忠邦公からの手紙が届いた。制度改革で、東京居住を命ぜられた公が、おそらく二度と姫路には帰れないだろうから、出立前に一度ヒコに会いたいと言ってきた。ヒコは公の招待を受けることにした。前年に里帰りして手配した墓碑の建立がこの機会に実現できる。ヒコは斉藤の申し出を辞退した。


ヒコはコスタリカ号で長崎を発ち、同船で横浜経由東京に向かう予定の酒井忠邦に神戸で謁見した。初対面にもかかわらず、酒井公は旧知のようにヒコに接し、ヒコが持参した外国品の手土産数個を渡すと、大喜びし、遠路はるばるやってきた労をねぎらったあと、長崎における姫路藩役人歓待の謝礼として、藩公の定紋入りの反物一反と金二十五両の目録をヒコに与えた。


旧制度下では藩主の紋を付けるのは特別の許可が必要で、大変な名誉であった。ヒコは少し前、肥後藩家老が藩が購入した船を検査したときのことを思い出した。客室に案内された家老たちが、藩主の紋入りの絨毯を見つけて、恐れ多いとしてわざわざ剥ぎ取らせ、また紋入りのテーブル掛を撤去させた。


酒井公は二十歳前後と若く見え、愛嬌のある顔立ちをして、性質は怜悧であった。外国人に殊のほか関心があるようだった。


「ジョセフ殿に折り入ってお願いがござる。貴方が姫路の城下のお生まれであるのも何かの縁。家老にくれぐれも申し付けておきますので、ひとつ姫路までご足労願って、外国の事情など為になる話を藩の役人たちに講義してやっては下さるまいか」

ヒコは墓碑建立のことにも触れ、喜んで受けると言った。


酒井公は続いて藩がいかに賑わっているかを経済を中心に述べた。それは姫路藩が現在所有する「速鳥丸」、「神護丸」という二隻の西洋帆船によるところが大きい。なぜなら米、木綿、砂糖などを江戸まで運んでいるのだが、和船と比べて小型であるが船脚は数倍速く、江戸までの所要日数はわずか九日と従来の三分の一で済む。


他藩の多くはまだ和船しか持たず、そのため姫路藩の積み荷がそれだけ新鮮で、それで顧客に人気がある。かつては破綻寸前だった藩の財政を建て直した程だ。


 先に建造されたのは「速鳥丸」で、十五年近くがたち、江戸往復回数は八〇回を越える。文久三年に進水した「神護丸」は速鳥丸より一回り大きく二本マストである。

 

ここで公は手にしていた茶を一飲みするとやおら口を開いた。

「ところで、これら二隻の西洋式の船は誰が造ったかお分かりになりますか、ジョセフ殿」

 予期せぬ問いにヒコが戸惑っていると公が続けて言った。


「清太郎と浅五郎と申す元漂流民です。ジョセフ殿、貴方覚えておいででしょう。二人はむかし栄力丸に乗っておりました。そして貴方といっしょに遭難しました」


 ヒコは聞かなくていいことを聞いてしまったような気がした。最初里帰りしたとき栄力丸乗組員の消息を尋ねるつもりでいた。しかし故郷があまりに落ちぶれ、そして変わり果てているのを見たときヒコは思いとどまった。


もし彼らが無事帰国したとして、お咎めを受け、そのあおりで後はきっと罪人として惨めな生活を送っているに違いない。そういう彼らの前に、立身出世をしたヒコが現れる…それは許されない、少なくともこちらから出向くべきではない、ヒコはそう思った。


ところが聞けば、清太郎と浅五郎という二人のかつての乗組員仲間が、二隻の西洋船の建造を指揮しただけでなく、西洋船の航海術をつぶさに見聞した経験をかわれ、その帆船の船長を交互に任されているらしい。藩の役人並みに働いている。ヒコは半分救われた気分であった。


「ずっと昔のことですから、名前はもう忘れました。しかし、船の名前が同じですから、間違いないと思われます」

 ヒコは正直に答えた。


清太郎、浅五郎といわれてもはっきりとは思い出せない。二十年以上も昔の十幾人も仲間がいた。そう言われれば、そういう名前の仲間がいたような気がするといった程度しか記憶にない。


「一度両名のものに会われてはいかがですか。もしご希望ならそのように取り計わせて頂きますが」

 最後に酒井公はヒコに尋ねた。


「折角ですが、今回は遠慮させて頂きましょう。再会しても大して話すことがありません。現在の私はもう昔の私ではありませんから」

 ヒコは丁重に辞退した。


                              つづく


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