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78.終章(相模灘の彼方の富士の峰)---故郷(1)

78.終章(相模灘の彼方の富士の峰)−−−故郷(1)


「市中見物など滅相もござらぬ。得体の知れぬ浪人や攘夷を叫ぶ浪士などが、昼となく夜となく徘徊しておりまする。異国人は格好の獲物。時を経ずして、貴公等の頭上に四方から刀が振り下ろされるは必定。是非思いとどまりくだされ」


領事と医師がせっかくの機会だからと、京都見物を希望したところ、藩士の一人が顔色を変えて押し留めた。


彼のすすめで、代わりに邸内にある火の見台からの眺めで我慢することにした。しかし街の様子は一瞥もできず、民家の屋根、仏閣の堂宇や塔、そして遠くにかすむ山並みだけでは、さすがに物足りなかった。逆に一行が観光目当てにされ、たちまちのうちに藩邸門前には人々が群がり、午後十一時ごろヒコたちが床につくまで去らなかった。


 ボイヤー医師滞在の知らせはたちまち市中に広まり、何人かの患者が診察を求めて現れる。維新政府の参与職にある肥後藩士横井平四郎(小南)は長らく淋疾に悩まされ、役所も休みがちになる程病状が重かった。医師の治療と処方が功をそうしたのか、診察後まもなく回復し再び公務に復帰する。しかし彼は翌年御所からの帰途暗殺される。


 三十歳前後の日本人藩医は藩公夫人の病状についての診察を請う。夫人は以前より子宮を患っているとのことである。ボイヤーが詳しい病状を聞くため、患者の身体をくまなく検診したのかと尋ねると、若い藩医は首を激しく振った。


「高貴なお方のお体を診察するなどとんでもござらぬ。左様なことをいたせば切腹ものでござる」

「直接お体を拝見して患部を診察してみないと詳しい診断は下せませんし、処方も書けません。ですから、残念ですが、それがかなわないのでしたら、おうかがいしても無駄だと思います」

「左様でござるか。国の方の習慣では是非もないことでござる」

 藩医は悄然と引上げていった。


 鍋島閑叟は謝礼として、領事は縫箔した絹布二点と漆塗り小箪笥、医師には縫箔した絹の帯地五点と銀五〇両、ヒコには銀七〇両、領事のボーイには一〇両を与えた。


 当日の夜、頭役の中野氏の屋敷の晩餐に招かれる。氏のほかに仲間の藩士、佐野、片山、本山の各氏が直にヒコたち三人を接待する。主が自ら馳走するのが高官の歓迎方法とのことである。


 食後、謡の免許皆伝である片山氏が謡を供すると言った。領事と医師は気味悪がって遠慮したが、氏は構わず謡った。さすがに謡の師。音声座に響き渡り、曲の抑揚高低自在であった。

 すっかり感心感激した領事はアメリカの歌を紹介するといって、賛美歌など二、三曲を歌った。お開きになったのは夜の十二時近くであった。


 翌朝十時にヒコたちは肥前の役人に警護され、藩邸を出た。そして行く先々で藩の役人が一行を待ちうけ、午餐は美酒佳肴を供され、晩餐は伏見の大寺院にて芸妓の歌舞管弦で供応された。


「大動乱で市民が大騒ぎをしているというのに、じつにのんびりした人々だね」

「それに、この信じられないほどの贅沢な食事と大げさな護衛、言葉が出ないよ」

 領事と医師は戦火で荒廃した家並みや田畑を見渡しながら、呆れたように言葉を交わした。

 英語は藩士たちには分からない。


ヒコは二人の言ったことを遠まわしに尋ねてみた。

「人民が鼓腹撃壊にある時にこそ、かくあるのが富貴なる旅人の慣わしなのでござる」

 ヒコは高貴な人の診察は許されないと言って帰っていった某藩の医師のことと思い合わせ、欧米の技術を取り入れるのは易しいだろうが、考え方まで変えるのは並大抵では行かないと思った。


 午後十時半、ヒコたちは護衛に役人たちと別れ、船上の人となった。大阪には予定の時刻に帰り着いた。肥前公の薬を受け取るため藩士の本山氏が同行した。

 

京都からボイアー医師を連れて帰った二日後の八月四日、ヒコは兵庫県令の職にあった旧知の伊藤博文の訪問を受ける。夕食中のヒコは、彼に晩餐を勧めたが、すでに済ませたというので、伊藤の誘いで出かけることにした。夕涼みがてら淀川に屋形船を浮かべて想い出話や政談に一時を過ごそうというのである。


 ヒコには日頃から気になっていることがある。故郷、播州古宮への里帰りである。十三歳のとき義父に連れられ村を去って以来、十八年間帰っていない。義父吉左衛門は亡くなったことは、領事館に訪ねてきた義兄の岩松から聞いた。


 しかし達者なら叔母が住んでいるはずである。義兄はその後どうしているだろうか。瀬戸の海を行く船を見ながら日々、異国を夢見た、白砂青松の浜辺にもう一度立ってみたい。


 そして懐かしの我が家。庭先に柿木があり、秋には毎日のように木に登って捥いで食べた。母屋のわきに張り出すようにして蔵が立ち、その白と黒の海鼠壁が美しかった。蔵と母屋に囲まれた小さな一角は、土塀で方形に仕切られ石組みの庭にしつらえてあった。松の木が一本植わっていた。


 明日をも知れぬ命。一度見ておきたかった。伊藤は兵庫県の高官の職にある。相談するには打ってつけの相手である。

 川船を雇って乗り出して、昔話や別れてからの互いの近況など一頻り語り合い、話題が途切れたときヒコは言った。


「私は1850年に生国を去ってから一度も帰っていません。攘夷の刃に邪魔されて機会がなかったのです。今なら、もう危険なく故郷に戻れるのではないでしょうか」


「政府が変わったのですから、大丈夫でしょう。何でしたら政府が買い入れたばかりの蒸気船オルファン号でお送りして、錦を飾らせてあげますよ。万が一ということがありますし、陸路より安全かもしれません」

伊藤は事もなげに賛成した。


翌日午後三時ヒコは、大阪府知事五代氏夫妻とともに天保山に行き、待っていた伊藤とともに、伊藤差し回しのオルファン号で神戸に向かった。運わるく、途中で船が故障したため、翌朝上陸し神戸まで陸を行くこととなった。


 八月七日、通行証明書と護衛数人をあてがわれ、ヒコはアメリカ人の友人数人と出発した。ヒコたちは駕籠に乗る。ところが友人の一人が六尺三寸に近い背丈の大男だったので、彼の駕籠は駕籠屋を五人雇い、三人で担がなければならなかった。二人を交代要員とした。明石で駕籠を乗り換える。


 街を抜けて田舎道に差し掛かると美々しく着飾った人々が沿道に群がっている。

「今日は盂蘭盆じゃ。一年でいちばん大きな行事じゃで、みんなめかし込んでおるんじゃわい」


「そうじゃ。異国帰りの男が古宮の浜田村に里帰りするちゅうことを聞いてのう、そんでこうして見に来とるんじゃわい」


「この行列がそうらしいが、仰山おって、一体(いってえ)(どいつ)がその異国帰りの男なんか分からねえぞ」


 ヒコが何の騒ぎか尋ねると、堵列する人垣から次々と身を乗り出して話し掛けてきた。

友人のアメリカ人とは区別は付いただろうが、護衛役の日本人役人が四、五人いたので、人々はヒコが見分けられなかったのだろう。


 東海道を南に向かってそれてまもなく、海が見えてきた。懐かしい瀬戸の海である。やがて松並木に差し掛かる。濃緑の松、白い砂浜、そして真夏の太陽にきらめく瀬戸の海。すべて昔のまま。駕籠に揺れるヒコの心は十八年前の彦太郎の時代に返って行った。



                                 つづく


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