77.終章(相模灘の彼方の富士の峰)---戊辰戦争の混乱
77.終章(相模灘の彼方の富士の峰)−−−戊辰戦争の混乱
1868(慶応三・明治元)年一月。京都・大阪方面の出来事は直ちに長崎に伝わる。
兵庫、大坂、新潟等の開港間近となって長崎、横浜の各商館は支店開設に忙しい。幕府官吏は数ヶ月前より税関奉行所、官舎などの建設に大わらわである。中でも今月開港した兵庫港には内陸各地あるいは旧開港地のみならず中国からも各種業者、顧客、商人等が殺到している。
ヒコがヴェッダー医師を長州に紹介した礼状を木戸から受け取ったのはこの頃である。この中で、将軍の辞職と大権の京都政府への復帰を告げ、外国の理解を得るために協力してくれるようヒコに頼んだ。同じ便の中に井上多聞のものもあった。政情を伝える手紙は伊藤からも届いた。
伏見戦争において薩長土の苦境がもたされたとき、長崎は町中が浮き足立った。長崎在住の三藩役人たちは周章狼狽のきわみであった。
その夜薩摩藩役人の川南清兵衛はヒコを訪れ、味方が敗れたときには自分と家族を匿ってくれるよう頼まれた。ヒコは長崎に飛び火しない限りは引き受けると約束する。
また薩摩の海軍将官・沖直次郎は川南と協議の末、長崎奉行と談判して、勝敗の如何にかかわらず、長崎在住の双方のものは敗北側を一切咎めることなく、報知到達の二十四時間以内に長崎を退去することで合意した。これは市民の同様を押さえるのに効果があった。
二週間後幕府側敗北の確報が届くや、奉行はいち早く情報を入手し、アメリカ汽船を雇い幕僚とともに深夜ひそかに脱出した。もちろん財産を持っていくことも忘れなかった。
確報が広がるや薩長の志士たちは上官に奉行所とその財産を没収することを迫ったが、薩摩の長官は奉行所との約束をたてにこれを拒絶する。土佐の浪士たちはこれに反発し、空になった奉行所を占領し、土佐の紋章を記した旗を表に翻した。
その夜、一杯機嫌の薩摩の浪士が再度長官に奉行所占領を進言したが、入れられず憤懣の態で、奉行所に押しかけ、天子の勅命で参ったと叫んで闖入しようとしたため、土佐浪士たちは彼を薩摩人の名を借りた幕府側の士と勘違いし、連発銃で彼を射殺した。
この事件は薩摩と土佐の間に悶着をきたし、うわさでは撃った土佐人は切腹したらしい。また土佐は奉行所に掲げていた藩旗を降ろした。
京都の動乱によるこの一ヶ月ほどの役人たちの慌てよう、そして身勝手さにヒコは、こういう人々の上に立つ人もまた当てにならないだろうと思った。いざとなれば、保身に走る。自分や家族のことしか考えない。彼らが選んだ指導者である。どんな政府ができても、一般の人々のことは考えないだろうと思った。
ヒコは八年前の出来事を思い出す。九年振りに帰国するヒコを乗せたアメリカの軍艦ミシシッピー号が、長崎港に入港して石炭の積込みしているとき、米兵と日本人労務者との間に争いが起こった。
日本人労働者が休憩中に酒を飲んでいたのを見たミシシッピー号甲板士官が、酒類販売が禁止されている米船で、彼らが酒を販売しているものと勘違いしたのだった。ニコルソン艦長より神奈川に着くまでは日本語の使用は禁止されていたがあのときは、争いを収拾するため、言いつけを破らざるを得なかった。
「貴公は一体、何と申される御人でござるか。何処で、日本語を学ばれしや?」
日米両国語を自由に操るヒコを見て目を丸くした奉行の顔が、今も瞼の裏に残っている。
あのとき自分は大望に胸を膨らませていた。日米両語をが話せて、欧米の文化に通じた自分は近い将来きっと新しい日本のために役立つ。霊峰富士山のように故国で聳えるのだ。
その夢はすっかり萎んでしまった。しかしこの身勝手さ狡さが日本人なのだ。ヒコ自身もその血を引いている。ヒコは現実を受け入れる以外にはないのである。
二月十三日京都政府から、一橋将軍による大権返上の上奏文とこれに対する天子の勅命の内容が報じられる。
三月二十五日、ヒコはグラバーの命を受けて、彼とともにコスタリカ号で大坂に向かう。途中兵庫に立ち寄ったが、その賑わいぶりには眼を見張った。二年前横浜から長崎に行く途上で見た兵庫は、いまだ開港前のことで、浜辺の一寒村であった。ところが今は各国の船舶相並び、居留地には多数の外国人が行き来している。
大阪は鳥羽伏見の戦乱の跡が生々しく残っていた。幕府の役人は江戸へと逃げ、外国人は不安に脅えて去っていた。住民たちは天皇の側が勝利したと聞いても、それが何を意味するかもわからず、次にまた戦いが始まるに違いないと噂し合い、恐れおののくばかりであった。
ヒコたちの大阪出張は、江戸湾に停泊中の合衆国戦艦ストーンウォール号の京都政府への引渡しを、京都に代わって合衆国側に要求するためである。62(文久二)年ヒコが横浜にいるころに、幕府がアメリカに注文した軍艦三隻のうち富士山号一隻はすでに引き渡されていたが、他は南北戦争で建造が中断されていた。
他方、甲鉄艦製造技術が南北戦争中に開発され、戦争終了後その新製法で建造した戦艦を、残りの二隻分にアメリカは当てた。ストーンウォール号がそれである。
ストーンウォール号が届けられたとき、ちょうど京都政府と江戸幕府が争っている最中で、アメリカ側が旧幕府側に新造船を渡せば、本来優秀な幕府海軍がさらに威力を得て、維新政府支配下の港を封鎖するる危険があった。合衆国は一応は中立を保っているようだがいつ、幕府側に傾くか分からない。
危機に立たされた京都政府は、大阪府知事の五代友厚を通してヒコとグラバーにアメリカ側との橋渡しを頼んだ。ヒコは五代とは、長崎を出る伊藤の晩餐に招かれたとき同席して以来の付き合いである。
二人は横浜に行き、ヒコは合衆国領事を訪ねる前に県令に面会したあと、書記官の寺島と伊関にアメリカ側の様子について尋ねた。
「国際法で決められている以上、いずれにも味方はできない。したがって合衆国は決着がつくまでは何れの側にも艦は手渡さない、とこう言っておりましてな…」
「…どうやら、京都政府が軍事行動を起こすに際して、正式に戦争を宣言して、関係諸外国に公布したことが災いしたようです。外国は中立を保つことが義務付けられていますからね」
二人は無念そうに答えた。
ヒコは合衆国と意図を知ったうえは無駄だと思い、領事を訪ねることは止める。
いっぽうグラバーはイギリス側からも口を利いてもらうためイギリス公使を訪ねたが、同様な情報を得る。
報告を受けた五代は仕方なさそうにうなずいた。
「しかし少なくとも、ストーンウォール号がこちらに来ない代わりに、敵側にも行かないという確証が得られたのですから、そう悲観はしていません」
五代はそれほど落胆した様子ではなかった。
大阪滞在中にヒコは、さらに二つの奉仕をする。鳥羽伏見の衝突があってしばらくして、次第に維新政府が政権の地を固め始めた。三月に各国公使が京都で初めて天皇に面会し、四月には「五ヵ条誓文」と「政体書」が出される。外国側は二つの政府公文書の英訳をヒコに頼んだ。
「私たちの最大の関心は天皇政権がどんな政治をするのかです。居留地にいる私たちの国がどんな扱いを受けるか大変心配なのです。ですから新政権の政策が正確に分かるように、どうか一字一句、間違いなく忠実に翻訳してください」
ヒコは各国代表者から頼まれる。
ヒコは小さな訳し間違えでも重大な誤解に発展するかもしれないと考えると、筆路がたびたび滞るのだった。
翻訳作業を終えた七月、ヒコは京都の藩邸で病床に伏す藩主鍋島閑叟のために、外国人医師を世話することになった。ヒコは兵庫に駐在している合衆国領事を通して、天保山に停泊中のイロコア号のボイヤー軍医に頼み、承諾を得た。手続きが面倒だった。
領事が同道を希望したため、さらに厄介であった。外国医派遣の許可しか出ていないため、それ以外の外国人の京都入りは認められなかった。領事には軍医助手の役目が与えられた。翌日、領事、医師、留守居役人、ヒコ、領事付きボーイの六人、小舟に乗り肥前藩の大阪屋敷へ行き、そこからは肥前藩役人に守られて淀川をさかのぼり、枚方で一泊した。
翌朝閑叟のもとから派遣された、スペンサー連発銃で武装した五十人の護衛隊に導かれ京都に入った。途中、淀の辺り一帯は戦乱のため城も家並みも焼け落ち、廃墟になっている。
伏見第一の茶屋で饗された昼食は、椅子に掛け、ナイフとフォークで肉を刻むなどまったくの欧風料理で、最上級の葡萄酒まで出されたのにはヒコたちは驚いた。
「日本人は本当に勤勉ですね。西洋を取り入れるのがじつに早い。ワインまでいただけるとは思いませんでした」
「天皇が住んでいる京都の町ですから、純日本風の料理が出るかと思っていましたのに」
領事と医師は眼を丸くした。
夕方五条の橋まで達した時分に、一行は俄かに雷雨に襲われ、馬は暴れ、護衛兵は右往左往する。幸いすぐにおさまり、半時間ほどして藩邸に到着する。一風呂浴びた後、藩公は直ぐに診察して欲しいという。ところが、衣服が先ほどの夕立でびしょぬれ。服装は構わぬというとだったので、ヒコたちは浴衣のままで診察することになった。
「ジョセフ殿。見てください。料理は西洋を真似することができても、衣服までは難しいようですよ」
領事は脛が丸見えの自分の脚を見下ろして笑った。
領事は背丈が六尺(180センチ)を超え、かつ肥満体である。浴衣の裾が膝の下までしかこない。まるで大人が子どもの浴衣を着ているようである。
窮屈そうに浴衣をまとい、下駄を履いて、両側に日本人下男を従えた領事と医師の姿は、鳥羽絵(江戸時代の風刺漫画)も遠く及ばぬほどに滑稽であった。
しかしヒコは長崎を発つ少し前、長州の伊藤がくれた写真のことを思いだしたとき、複雑な気持になった。大人の服を着せられた幼児のように、ぶかぶかのコートとズボン姿の、すまし顔の伊藤が写っていた。領事と伊藤、同じ滑稽さでも両者の間にはどうしようもないほどの隔たりがあるように思われた。
羽織袴に小刀を帯びた十五六人の武士に囲まれた金屏風の中で、半洋風にしつらえた臥所に横たわっていた肥前公は一行の労をねぎらった。
「炎天下にもかかわらず遠路はるばるご苦労でござった。さぞかしお疲れになったことだろう」
ヒコたちは身をかがめて挨拶をしたあと、三脚の椅子をすすめられた。
公は大変やせ衰え、声も弱弱しく死を待つばかりの容態に見えた。しかしこれはヒコの勘違いであった。公は突然、美しい絹布団の寝床の上に起き直りヒコに向かって言った。
「ジョセフ殿。頗るの炎天に、遠路外国医を斡旋いただきまことに感謝にたえぬ。余の館で何かご不自由なことはござらぬか」
死人がまるで生き返ったように達者な口調でしゃべった。
「滅相もございません。私のほうこそ、至らぬところが多くあり恐縮いたしております。それより、お体のお具合はいかがですか。どの辺りがお苦しいのでしょうか」
ボイヤー医師は閑叟公の脈をはかったり、傍らの役人から過去の病状の説明を受けたりして診察した。病はリューマチと診断された。
午後六時ごろ遅れていた荷物が到着したので、医師は薬剤を取り出し調合して、侍士を通して公に与えた。
幸いこの処置が効いたのか、明け方公を訪ねると、かなり具合はよくなり、熟睡し食事の量も増えたと言った。
つづく