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76.終章(相模灘の彼方の富士の峰)---伊藤と木戸

76.終章(相模灘の彼方の富士の峰)−−−伊藤と木戸


 桂(木戸)と伊藤の言う尊王思想はリンカーンの説くアメリカ型のデモクラシーとはあまりにもかけ離れてはいたが、同胞同士が血を流しあうことは避けなければならない。混沌一方の世情を考慮すれば、ヒコに断ることは許されなかった。


ヒコは頼まれた通り外国人たちに日本の歴史を教えている。幕末・維新における外国人記者ブラックは『ヤング・ジャパン』で〈日本生まれでアメリカに帰化したジョセフ・彦に教わった〉と前書きで述べたあと、日本の歴史を史実に基づいて詳しく記した。


ヒコが幕末・維新の日本の歴史に、如何に深く関わっていたかはイギリスの外交官アーネスト・サトウ『一外交官の見た明治維新』にも伺われる。


慶喜に対する大政奉還勧告(薩摩、土佐、芸州、備前、阿波の諸侯連名で将軍慶喜に辞職を勧告し、また政府を改造する道を開くことを要求)の極秘ニュースを、直前に話し合っていた木戸(桂)や伊藤からでなく、帰途立ち寄ったヒコから聞いたと記している。


木戸がヒコを評価していたことは、坂本龍馬宛の手紙からもわかる。ヒコと会って三ヵ月後の67(慶応三)年九月四日付けの書状で、ヒコとよく話し合い、外国の世論に訴えて明治維新の大芝居が大出来になるよう配慮を望むとしたためている。


竜馬は自分の主宰する亀山社中の庇護者である貿易商グラバーを通してヒコを知った。当時ヒコはグラバー商会の経営に参加していた。竜馬は何度かヒコに会見を申し込んでいる。竜馬の「船中八策」に、「上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべきこと」と、アメリカ型共和制民主国家の思想を謳い込んでいるのはヒコとの交流の深さを証明している。

 

〈左の長州役人は主君の命に依り、米国人J・彦氏を雇い、日本長崎港の特別代理人を命ずることを約す〉


 この書状をヒコに手渡したあと木戸が長崎にイギリス軍艦が停泊する機会ができれば、伊藤が乗せてもらえるようヒコに尽力願いたいと言う。長州がイギリスに注文した軍艦数隻が近日中に回航する予定なのだが、航海術の心得をもつものがいないので、乗艦して教えを受けたいというのである。


 数日後、英国海軍艦隊長ケッペル乗船するサラミス号が入港してきたので、木戸の希望を告げて善処を申し入れると、彼は長州公の願いなら喜んで協力すると答える。そしてもうすぐ軍艦ロドニー号が入ってくるだろうから、それに乗れるよう手配をしておくとの快い返事をくれた。船賃についても、長州藩で支払うとの木戸の申し出にも手を振って、それには及ばないと手を振る。


 ロドニー号が入港してきて艦長から伊藤の乗船許可がおりた日、木戸がひとりヒコを訪ねてきて言った。


「航海術習得とは真っ赤な偽りで、之は薩長土の謀にて、京都大坂における情勢偵察が目的でござる。薩・長・土三藩は大政奉還の建白書を京都の政府に送ったのでござる。しかし、これは大胆きわまりない挙動であり、必ずや大名や公卿たちの間に相当な騒ぎが起こること間違いない。何より将軍がそう簡単に承知するとは考えられない。将軍を担ぐ大名や旗本たちが戦争を起こすかもしれない。したがって、その時に備えて正確な情報が欲しいのでござる」


 木戸は別れ際に建白書の写しをヒコに渡して言った。

「三藩連合は決して外国人を敵に回すものではござらぬ。天皇を助けるべく将軍に対抗しているのでござる。それを貴公から他の外国人諸氏に説き明かして頂きたい」


 木戸が去り長崎に留まった伊藤がロドニー号に乗船する前々日、ヒコを訪ね自らの写真を贈り、手荷物を預ける。


 写真の伊藤は襟の広いハーフ・コートに長ズボン姿。頭には昔の探検家などの使ったヘルメット風の深い帽子を被っている。右手を胸に当て、白手袋を握った左手を伸ばし、長いすを背にして左半身で構えている。しかし、間に合わせのためだろう、コートも、ズボンも、帽子もすべてがサイズが大きすぎる。コートは袖が手を隠し、ズボンは床を引きずり、帽子は眼を覆っている。まるで大人なの衣装を身に付ける幼児である。


 ヒコは初めて自分が洋服を着せられたときのことを思い出した。アメリカ船オークランド号で他の船員のお古を着せられたのだが、大きすぎたため、仕立て直してもらった。


 ヒコはぶかぶか服を着て正面を見据える伊藤の姿を、黒船に憧れた頃のかつての自分に重ねた。ヒコは伊藤の並々ならぬ決意がうかがえた。


 預かった荷物の処置について伊藤に手紙で問い合わせると、英文で返事を寄越した。

 Dear Heco Please you keep my things at your office. I will take them when I

go on board this evening and oblige. Ito Shunsuke


〈ヒコ=Hiko〉を英語読みすると〈ヘィコゥ〉と聞こえる。滞米中からおそらくアメリカ人より‘Heco’と綴られていたため、帰国後もそれで通したと思われる。


伊藤は出発の日の夕、晩餐にヒコを招く。五代才助(友厚)といっしょである。


 五代は薩摩の士でグラバー商会関係で知り合った。彼は薩摩の儒者の家に生まれ、いち早く渡欧して先進国の産業を視察していた。


 五代氏が他に用事があって辞去したあと、ヒコは伊藤を波止場まで送り、彼が浮き船でロドニー号に乗り移るのを見届ける。


 伊藤を乗せたロドニー号は途中の寄港が多くて、兵庫に到着したときはすでに鳥羽伏見の戦いは終わり、大坂城に立て篭もっていた将軍は米国軍艦で江戸に逃げ帰る。兵庫の役人たちも財貨など一切をもって江戸に引き上げていた。


 長州の紋を記した旗を掲げた伊藤は、天子の名の下に、残っていた税関奉行に談判し兵庫の地の領有権を認めさせる。そして治安維持のため京都政府に頼んで500人の兵を送ってもらい、同時に兵庫および摂津四郡、播磨八郡の知事の勅命を受ける。


 いっぽうヒコは伊藤をロドニー号で送り出す前後にもさらに、長州のために働く。

木戸より長州藩のための外国人薬剤師の紹介を頼まれ、友人でアメリカ船ジェームズタウン号の船医をしているヴェダーを派遣する。


 面接してヴェダーの人柄がすっかり気に入った木戸は、折り返しヒコに礼状を送る。同じ書状の中で木戸はまた、大政奉還がなったことを知らせ、新生日本のため尽力してくれるよう懇願する。


 木戸の手紙の中に井上聞多(馨)の手紙があり、ヒコは初めて井上の名前を知ることになる。井上は兵庫の開港が迫った現在、諸外国のこれに対する反応がどんなものか外国人の様子を教えてくれとヒコに頼んだ後、次のような私的な依頼をしている。


 …又、千万申上げ兼ね候えども、コヲート(coat[上着])。ウエストコヲート(waist-coat[チョッキ])。タラウセルス(trousers[ズボン]) を私用致したく候えども、一つも持合わせず甚だ以てこまり入り候。…御求め下さるべく、若し其の品無之候はば、貴公様、お持ち合わせの分にてもよろしく候。…


 ヒコと井上の付き合いはこのあとさらに深まる。


 長州程ではないが、薩摩との繋がりも強いものがある。鳥羽伏見の戦いが始まってまもなく、薩・長の敗北が長崎の人々の間でもっともらしく囁かれた時、薩摩の出張役汾陽治郎右衛門は部下を密かにヒコの元にやり、万一の場合は自分と家族を保護してくれるよう依頼する。

 

イギリス人トーマス・ブレイク・グラバーは、1859(安政六)年に来日し、61年長崎で貿易商を設立した。当初は日本茶などの輸出を主に手がけていたが、64〜65年頃より薩摩・佐賀・土佐・熊本等西南雄藩への艦船・武器販売を開始した。


65年には、五代友厚等薩摩藩のイギリス留学派遣を仲介したり、薩英提携・薩長同盟締結に重要な役割をはたす。また、長崎小菅ドック建設、高島炭坑開発(ヒコも参加)、新政府造幣局の造幣機械導入の斡旋に携わる。一時は長崎最大の貿易商であったが、68年頃より経営が悪化し70(明治三)年に倒産する。


 ヒコが長州と薩摩に期待するのは日本の混乱を速やかに治めてもらうことである。再び日本人に帰らせてもらうためにも、安定した政府を作ってもらわなくてはいけない。長州や薩摩の人たちが新しい政府の要職を占めれば、自分の働きを評価し、願いを聞き届けてくれやも知れぬ。念願の帰化が実現するかもしれない。


 ヒコは自宅にいるとき、木戸と伊藤が残していった、ヒコを長州の長崎代理人にするとの二人の署名入りの念書を、祈りを込めて何度も読み返した。


 とはいえ、報酬が全くないのも寂しいものである。軍艦・武器輸入の仲介、アメリカ人薬剤師の紹介、伊藤のロドニー号乗船への尽力、グラバー商会を通じての薩摩・土佐等他藩との橋渡し…夜寝る時以外は、商会の事務と同じぐらい、彼らのために時間を費やした。なのに、あれ程約束した


 報酬は何一つない。礼といえば書状による一言だけで、それも新たな要望に対する繋ぎの言葉程度しかない。


 ヒコは長州の人間たちに対して、次第に期待感をなくする。長州政権は確かに今は混乱の最中、ヒコなど個人にかかずらっている余裕はないであろう。しかし天下を取った後は江戸政権と大して変わらないに違いない。建て前と本音を使い分けるであろう。


 かつての合衆国政府、そして江戸幕府と同じように、自分は結局は長州人に利用されている。彼らの都合で使い分けられる。だから用事がなくなればぽいと捨てられる。新政府の樹立のためには手段を選ばないのだ。ヒコは伊藤や木戸が、ヒコ個人のために尽力してくれるとは思えない。


胸中に夢見る相模灘の彼方の富士の峰が遠ざかったように見えた。


                                 つづく





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