表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/85

73.第6章(新たな旅立ち)---四国戦争

73.第6章(新たな旅立ち)−−−四国戦争

 

天命とも信じた新聞業に行き詰まったヒコは、上梓して間のない『漂流記』を読み直すことにした。生きる目標を失いつつある現在、半生を振り返り初心に戻りたかった。祖国に骨を埋める決意をして書いた言わば過去との決別の書である。


〈…父母の国なれば異国の人別終らんも本意ならず。希はくは日本の読書をも学び、時を得て日本人別に戻り、亜国と日本の両間に在て両国の為に微行をいたし、国恩を報ぜんことを願ふばかりなり〉                      播州彦蔵


ヒコは序文を読んだとき、口述筆記をしてくれた岸田と本間の顔が眼の前に浮かんだ。ヒコを慕った二人が寸暇を惜しんで見事な漢文調に書き上げてくれた。


彼らの美しい文体を眼の前にするとヒコはなおさら惨めな自分を見出すのであった。岸田と本間の労に報いるためにも、初心に立ち返らなければならない。

〈そうだ。私は播州彦蔵なのだ。播磨の国は古宮生まれの彦蔵なのだ〉


 貿易業は文化、思想など仲介はしないが、商品流通の仲立ちをすることで、それを製造した人々の心を伝えることができる。立派な掛け橋ではないか。

ヒコは実業に後半生を賭けることにした。


 『海外新聞』発刊中もヒコは時流には注意を怠らなかった。とりわけ、長州征伐に公使代理として引率した関係で、長州関連の報道には関心を持った。


 二十一日。イギリス軍艦二隻が二人の長州人・伊藤俊介と井上多聞(五月二十五日着の郵船でイギリスより帰朝)を乗せて下関に向かう。

 

 八月十日。先月二十七日夕、長州の起き50キロの姫島に碇を下ろしたイギリス艦二隻から医師に変装した日本人二人がひそかに上陸した。月曜日にイギリス艦は海峡に移動すると以前より大砲を増やしており、艦に実弾を撃ってきた。その夜、下船していた二名の変装医師が、長州は拒絶との回答を持って艦に帰ってくる。このイギリス二艦は、先月伊藤博文と井上聞多を乗せ長州に向かったイギリス艦である。


 二十日の報。実行力を伴わない日本政府に代わってイギリスは、米仏蘭にも呼びかけて軍事力で長州政府に報復攻撃を行うつもりのようである。


 二十六日。京都騒動(御所で長州、会津と衝突)の報道あり。

 二十八日。フランスとオランダの軍艦が下関に向け出帆する。江戸を発した日本船が監視するためこのあとを追う。


 三十日。昨日合衆国領事より、幕府と長州の間の問題が解けるまで、歩行、乗馬とも居留地外には出ないようにとの通達があった。横浜港内の外国軍艦十八(うち米艦一)隻はみな長州攻撃のため出尽くしている。近くにいる米艦は帆前船のジェームスタウン号しかなかったので、タキアング号を月1万ドルで借り受け米国軍艦を代表させる。


 九月一日のイギリス艦ユーリアス号を皮切りに、二日中には他の外国艦もすべて豊後海峡に集合し、翌三日は日がなフランスの石炭船から石炭の供給を受ける。明けて四日、連合艦隊は三隊に分かれ下関海峡に向かって抜錨する。


 五日午後四時の前田村および佐保の二砲台への砲撃で攻撃を開始した。翌六日火曜日午前十時ごろ、英仏軍の小隊が端艇で上陸し前田村砲台に、イギリスの船首旗とフランスの三色旗を翻らせた。八日陸上に休戦旗が立ったので、艦隊ももた掲げる。


 戦利で没収した大砲は長府岬(四)、前田村(二十八)、凹処(一)、佐保(十五)、木船岬(十五)、柵内(七)の計七十門であった。死傷者はイギリス艦に二十三人、フランス艦に十人の三十三人だった。


 ヒコは自分が公使代理で付き添った長州遠征を思い出した。米兵が四人戦死し、戦傷者のうち一人が片腕切断の手術を受けた。長州側は軍艦一隻がこちらの戦艦ミシシッピー号の砲弾を受け沈没した。死傷者はきっと米側を凌いだだろう。


 今回は戦艦と陸上砲台との射撃戦であったが、戦闘時間がずっと長い。また英仏の小隊が上陸してからも小規模の戦闘はいくつかあったようだ。長州側の死傷者はきっと外国側の比ではないに違いない。


 負ける戦争を何故するのだろう、ヒコは分からなかった。神州日本を外国人から守るためらしい。それの良し悪しは別にして、すでに欧米の事物が日本に入り込み始めている。その勢いは圧倒的である。抵抗しても無駄なのである。

《人の命が、まるで虫けら同然…》

ヒコはやりきれない思いであった。


十一月二十五日。肥後・長州間の往復書簡の内容をヒコは知り合いの医師より入手する。信頼筋から出たものらしい。


肥後藩主細川公が、長州公とその長男の切腹を条件に、天子・幕府と長州の仲裁を買って出たが、長州は幕命の通り、つまり外国艦を砲撃せよと命じられただけで、どこどこの国の艦船は攻撃するなとは命じられなかった。だから、少しもやましいことはしていないとこれを辞退する。


二十八日、ヒコの親友である塚原氏御目付けを命ぜられ、但馬守の称号を得て談判のため長州に派遣されると聞く。かくも結ぼれた紐を解くのは決して容易ではないだろうとヒコは同情する。


明けて1865(元治二)年一月二日、前年度中における貨幣交換額に関心を示す新聞が多く、ヒコ自身も知りたいと思っていたところ、ヒコは某領事より、氏の名前で前年中における外国官吏の貨幣交換額統計表を税関に請求するよう求められ、次の記録を受け取る。


英 公使館分3・6万ドル 領事館分1・2万ドル 陸軍分19・35万ドル 海軍分107・7万ドル

 仏  〃  3・6     〃  1・2     〃 18・87     〃  34・13

 米  〃  3・6     〃  1・2     〃  5・75     〃  0・119

 蘭  〃  1・8     〃  1・2               〃  22・35

 瑞西 〃  1・8     〃  0・8        総計 259・328万ドル


この説明では公使、領事など各人の金額については不明であるが、ヒコはいつかハリス公使の年俸が5000ドル(1・4億円)であると聞いたことがあった。この割でいくと領事は2000ドルぐらいか。


公使館分、領事館分は英米仏とも同じなのは、三国が対日要求において足並みを揃えたいっぽうで、日本側が相手の言いなりになったことが推測された。


故郷をはるかに隔たった異国で、命を賭けての勤務であることを考えて、彼のこの俸給額が適当かどうかヒコには見当はつかなかった。


つづき


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ