72.第6章(新たな旅立ち)---新聞発行(4)
72.第6章(新たな旅立ち)−−−新聞発行(4)
『海外新聞』が軌道に乗り始めたころヒコに発行を躊躇わせるようなニュースが飛び込んでくる。アメリカ第十六代大統領アブラハム・リンカーンが凶弾に倒れるとの知らせである。
事件の第一報を聞いたヒコは、テレガラフ(電信機)を聞き取る際の不手際の可能性ありとして、直後の第五号では慎重な記事に留めた。しかし詳報に接するや、すぐに第六号を発行する。
〈同十四日、日本三月十九日の夜北部大頭領レンコロン、ワシントン芝居を見物に行しに、十一時ともおぼしきこ、忽一人の狼藉ものありて偽りいうふにハ、大将軍グラントーよりの書面を持来りしとて、俄に桟敷にかけ上がり、大頭領のうしろより袖銃を以て一発に打倒し剣を抜て舞台の上へ飛び下り、剣を揮廻しつつ裏口よりにげ去りける。余り火急のことにて、殊に思ひよらざることなれハ、人々驚き狼狽なし、遂に捕へ得ざりしとぞ。同日同時シーワールも害せられたり。大頭領を殺せし者は芝居の役者ブルツと云者ならんとぞ。右の事に付てワシントン町中の者、皆々驚きなげかざる者なし。依て諸商売残らず休みたり〉
さらにヒコはリンカーンの遺族と、同じく被害にあったハワード国務長官に宛てて弔意と見舞いの手紙を送った。
ヒコが二度目にアメリカを訪問して、シュワード国務長官に会ったとき、いい機会だからと長官がヒコを大統領に紹介してくれた。ヒコは今でもそのときの情景を手に取るように思い浮かべることができる。
シュワード長官がヒコを紹介すると大統領はヒコに握手を求めた。
「遠方から、よく来てくださいました」ヒコが握り返すと大統領は眼窩に奥まった眼をまっすぐヒコに向けた「日本の国情はいかがですか。大変だとはうかがっておりますが」
ヒコは攘夷派の抵抗のことなど、日本の混乱した世情について概略を述べた。
「そうですか。しかし私どもの内紛に比べれば結構なものですよ。何しろ同じ国のもの同士が殺しあうんですからね。今日もこれからそのことで閣議を開かなければなりません」
こう言って大統領は去ったのだった。
しかし見上げるほどの彼の長身、濃い顎鬚、鋭い眼差し、頑丈な手、そして深みのある優しい声、これらはヒコの眼に、手のひらに、そして耳に今でもはっきりと残っている。
第七号では、イギリスの女王が直ちにリンカーン大統領の妻に悔やみの親書を送ったとの記事を載せ、さらに補注を添えた。
〈リンコルンは生質廉直にして仁義深かりし人故、アメリカ国中リンコルンをしたハさる者なかりし。近来戦争の為、諸人苦むといへども、リンコルンの徳を仰ぎ苦とせず、今害せられ甚気の毒。副頭領ジョンスン今大頭領となりしに、リンコルンの志を継く事を願ふ可かハ、リンコルンの意を遂げ、且ツ諸人も安堵の思をなすべし〉
『海外新聞』の購読者はきわめて少なかった。西欧文明への窓口である横浜で発行されたのに、地元の横浜はおろか国都・江戸においても購読者は一人もいない。文明が開化しようとしていた時代。官吏、学徒、知識人などを中心に関心を示すものは少なからずいる。しかし、幕府から購読禁止の通達が出されれば、料金を払ってまで危ない橋を渡るものは皆無に近かった。仕方なくヒコは無償で配布する。
〈そもそも世界の始りは茲に壱人の神より令を受て書述し者あり。其名をモーズスといふ。其史にしるし伝しにハ、始て神ハ天と地とを創造なしたりしか、未た地に定りし形もなく、又其内に一の物とてもなく、…〉
第十八号の「開闢のあらまし」の原稿作成中、ヒコは翻訳していた聖書から不意に眼を上げつぶやいた。
「もともと『海外新聞』は損得抜きで始めたことです。でも、これほどとは思いませんでした。けっきょく、危険を冒してまでは読みたくない、ということなんですね。岸田さん。本間さん。日本人が西洋を知りたいという熱心さはこの程度のものですか」
二人してヒコの訳を互いに吟味考案しつつ漢文調に仕上げていた岸田と本間は、はたと話を止めヒコを見た。
二人の間に広げられた手習い用半紙には、岸田が筆記した『創世記』の書き出し部分が数行墨色鮮やかに出来上がっている。
日頃温厚なヒコが突然強い口調で問い掛けてきたので、彼らは自分たちが非難されたような気がした。
彼らはしばらく顔を見合わせていたが、やがて本間がおもむろに口を開いた。
「暗殺覚悟ででもなければ、海外の事情に関心がもてぬご時世でありますれば、無理もありませぬ。しかし少なくとも購読者が周囲に広めてくれることは十分考えられまする。さらに、それを聞いた人々が、また他の知己友人に伝えるに違いありませぬ。こうして、次第に広まりますれば、結構な数の人々に読まれることになると存知まするが」
「そうですとも。無料で配る分が百部ほどありますし、それを筆写して愛読する役人たちも多数いると聞きます。ジョセフ殿、あなたの試みは着実に根を張っています。挫けてはいけません」
「優しい言葉ありがとう。あなたがたが口述筆記をお引き受けくださって本当に助かりました」ヒコは機嫌のいいときいつもそうするように、髭を扱きながら二人を見やった「あちらでも、〈ザズ・ァ・ファースト・タイム・ファ・エヴリスィング〉とよく言います。何事にも最初があるという意味で…つまり、何でも最初からうまくは行かないという、励ましの言葉です」
『海外新聞』の定期購読者は肥後の荘村省三と柳川の中村祐興の二人である。彼らは二年間の発行期間中ずっと購読した。
ほかに一年間の定期購読者が二人いる。肥後藩政府と肥後藩士・岩男助之丞俊貞である。
『肥後藩国事史料』巻六の慶応元年の項に「六月二十七日、本藩政府は在府鎌田軍之助に亜米利加彦蔵発刊の新聞紙購求のことを命す」として以下、越前藩の御用達は横浜にいるから、江戸の越前藩御留守居を通じて『海外新聞』の購読を申し込め、と書かれている。
越前藩主・松平春獄の奥方は肥後細川家から嫁いだ。両藩が親しい関係で肥後藩の横井小楠は越前藩に迎えられる。
越前藩は日米修好条約が調印されてから神奈川辺御警衛方を命ぜられ、商館・石川屋を開設していた。石川屋の福井藩御用達は岡倉覚右衛門、岡倉天心・由三郎兄弟の父である。天心・由三郎の父が『海外新聞』にかかわりを持っていた。
明治大学図書館所蔵「彦あて書簡」二十五通の中に、肥後藩の岩男助之丞俊定が、二部分の代金三両を送るからといって購読を申し込んでいる。二部分とは自分の分と藩政府の購読料であることが分かる。
手紙の中で、新聞発行の知らせを瓜生三寅(越前福井藩士で松平春獄から愛された)から聞いたといっている。
そのころ岩男は同じ肥後藩の先輩・荘村省三といっしょに長崎に駐在していた。岩男がヒコに『海外新聞』の購読料を送ったのは六月二十五日である。一ヵ月後の七月二十二日付けで、長州藩の伊藤博文と井上馨は、木戸孝允あて書簡で、荘村省三と瓜生三寅は「至って奸物」で、「結合」して諸方の探索を幕府へ知らせていると書いている。
瓜生や荘村にそそがれる周囲の眼は厳しかった。荘村は諸藩の士とも往来した。『勝海舟日記』元治元年三月一日に「庄村来る。横井先生の伝言あり」と記している。海舟と小楠の連絡役もつとめていた。このような動きが伊藤・井上の木戸宛書簡に、荘村と瓜生は「至って奸物」、「諸方の探索」を幕府へ知らせている、となったのであろう。
荘村は坂本竜馬ともたびたび会っている。
『松菊木戸公伝』によれば、木戸は坂本竜馬らと薩長土連合を策した慶応三年、荘村の労をねぎらうため刀を贈っている。そして荘村が返礼にピストルを贈ったことを紹介している。荘村と木戸は江戸留学時代からの交わりであった。維新後、太政官少史となった荘村は後藤新平を書生においたことでも知られる。
細々としたヒコの『海外新聞』は発刊より二年たったころ突然廃刊の憂き目を見る。
1866(慶応二)年、十一月二十六日朝八時ごろ、横浜日本人街にある豚肉料理店で出火した火は折からの風にあおられ、海岸に向かって扇状に広がった。火はそのあと外国人居留地にも燃え移り、同日の午後十時ごろになってやっと鎮火する。その結果日本人街の三分の二、外国人居留地四分の一が消失した。
ヒコたちの商館、自宅は幸い火災は免れたものの、地元の経済は止まってしまった。新聞発行はおろか本業の商社経営さえ危うくなった。
個人経営的なヒコの『海外新聞』にはおのずと限界があった。発行者、新聞記者、印刷者がない交ぜになったジャーナリズムは組織として未成熟である。仕事を分担することにより質量ともに充実し、より多くの顧客に歓迎される。災害に出会わなかったとしても、ヒコの新聞事業はやがては破綻していただろう。
もっとも攘夷運動の吹き荒れる時勢であればヒコ新聞の購読者にも限界があった。近代的な形態を整えた新聞が創設されるのが『海外新聞』廃刊後わずか数年たってからだったことを考えると、ジャーナリストとしてのヒコの登場は少し早すぎたのかもしれない。
「ああ、本当に残念だ。まもなく世のなかが改まり、だれでも新聞が読める、そういう時代が来ると思っていたのに。ここで止めなければならないとは…悔しい!」
ヒコは辺り構わず無念の気持を漏らした。
「しかし、ジョセフ殿。貴方がいつぞや仰いました。ザズ・ア・ファースト何とかというアメリカの言葉。我が日本についても当てはまりますよ。ねぇ本間君」
「いかにもそうでござる、ジョセフ殿。私も岸田氏にまったく同感でござる。貴方の志は私たちが必ず受け継ぎまする。私たちに出来なければ、誰かが必ずやってくれます。貴方は二年間タネを蒔いてこられたのでござる。ジョセフ殿」
二人がヒコを懸命に慰めた。
ヒコは傍らから『海外新聞』二十六号を一部手に取ると、表紙に描かれた富士山の絵に見入った。
つづく




