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71.第6章(新たな旅立ち)---新聞発行(3)

71.第6章(新たな旅立ち)−−−新聞発行(3)


『読売新聞』もまたヒコの〈童子にも読なん〉新聞精神を受け継いで生まれた。『読売新聞』(1874[明治七]年創刊)の創刊者三人のうち本野盛亨は1867(慶応三)年、肥前藩主鍋島閑臾の使いとして長崎時代のヒコを訪ねてからの縁である。


鍋島家とグラバーの高島炭鉱共同事業も、ヒコが明治五年に大蔵省に出資他ときも舞台裏に本野がいた。横浜税関長をしていた本野が、高島炭鉱の清算事務をしていたヒコを訪ね、大蔵省の井上馨大蔵大輔が是非来て欲しいといっていると引っ張り出したのであった。


もう一人の創刊者子安峻もヒコの助力を受けた。芸娼妓「牛馬ときほどき令」を出させたマリア・ルース号事件が起きた明治五年、子安は外務省文書権正としてペルー政府と交渉に当たったが、ロシア皇帝の仲裁にゆだねられた裁判において、ヒコは渋沢栄一大蔵大丞の頼みにより、日本の弁護士が英語で訴訟に当たる全期間を通じて出席、日本側に勝利をもたらした。


『読売新聞』は創刊第一号で「この新ぶん紙は女童(おんなこども)のおしえにとて、為になる事柄を誰にでもわかるように書いてだす趣旨(つもり)でござります」と宣言する。


 さらに『朝日新聞』は、創業者・木村騰が東京に行ったとき読んだ『読売新聞』を手本に明治十二年大阪で発刊した。朝日新聞社刊の『村山竜平伝』は「朝日新聞社の創立」の項で、「殊に『読売新聞』をお手本に作ろうというので、同社の活版職工や記者を下阪させたということである」と書いている。


大阪府知事宛の「朝日新聞発行許可願書」にも、「勧善懲悪の趣旨を以、専ら俗人婦女子を教化に導くものにして、紙面に指絵を加へ、傍訓を付し、児童と雖も一見して、其意を了解し易からしむ」と述べている。


一方本間清雄は偶然の縁でヒコの眼の前に現れる 。


「手前は掛川藩医の家の生まれで本間清雄と申すものでござる。外国遊学の志を胸に横浜まで参りましたところ、偶然洗濯屋からあなたの口述筆記募集のうわさを耳にし、居てもたってもいられなくなり馳せ参じました。英語をご教授願えるなら、無償で奉仕させていただきます」


本間はのち、徳川昭武に従ってパリ万博に赴く。また外交官としてヨーロッパに十六年滞在し、帰国後は外務省人事課長、弁理公使をつとめる。


 また本間は『読売新聞』創刊者の一人・子安峻とも付き合いがあった。明治二年、オーストリア政府が電信機を明治天皇に贈ったとき、オーストリア帰りの外務少録として烏帽子装束姿で皇居吹上御殿に参上、外務省大録訳官の子安といっしょに御学問所と山里御茶屋間に敷設した電信機をご覧に入れ、説明した。


 わが国を代表する『毎日新聞』、『読売新聞』、『朝日新聞』の三紙はみなヒコのこの〈童子にも読なん〉新聞精神を受け継ぐことで今日の地位を築いたといえる。


〈且夫に童子之輩にも読なんことを欲すれハ文章の雅俗は問はずして唯元書之大意を撮とりて話の如くなせしもの故、読者幸に元書に就而論することなかれ〉

ヒコは『海外新聞』〈創刊の辞〉で決意を述べている。


 ヒコはまた新聞広告も掲載している。これは本邦最初の試みである。広告主は外国人。毎号同型同文である。広告のことを〈引札〉といっている。


 ヒコの考えを聞き岸田と本間は膝を叩いた。

「ジョセフ殿。引札が新聞の種になるとは驚きました」

「いかにもその通りでござる。瓦版と引札を併せるとはすこぶる賢いやり方ですな」

「あちらでは、盛んですよ。何しろたくさんの一般人がニュースペーパーを読むんですから、引札は大変大切な宣伝の方法なんです。日によっては、店の宣伝のほうが多いことがあります」

 ヒコの説明に二人は眼を丸くした。


○薬種類を求むと要する諸君子ハ運上所の脇なる第二十七番を問給へ。若し持合いなき品誂を得ハ早速本国より取よせ可呈候。  アレン謹啓


○病の治療を受むと望む人々ハ、爾後九ツ半時より七時迄に第百八番をとひ給へ。

バダール啓


○長崎に於てハ、ワーラス組、横浜にてハ、ワーラスホール組。我等ハ、アメリカ国の商人にて日本開港以来店を開きて日本の品も買入れ又舶来の品も売る。若し帆船蒸気船其他蒸気の器械及び軍用の諸器と日用の器物など誂たき諸君子ハ来り給へ。無相違本国又ハ外国よりも取寄せ可差上候。我等の右二軒ハ日本政府及び大明へも聞へ、江戸大坂の町人へも聞へ居れり。住宅は海岸第二番なり。        ホール謹啓


○入歯を成さんと欲する御方ハ御尋被下。所持の細工歯御覧之上にて御用被仰付度候。之ハ尋常之骨或ハ象牙蝋石にて造りしに非ず。せとものに類せし金にて造りし故、持堪宜敷艶など天然の歯に異ならず。     三十一番 レスノー謹啓


さらにまた、「世界開闢のあらまし」や「アメリカ史略」など読み物・連載物の企画もした。「世界開闢のあらまし」は聖書『創世記』を翻訳した。


1873(明治六)年にキリシタン禁制の高札が撤廃されるよりずっと以前の、尊皇攘夷の思想が吹き荒れる只中。聖書を和訳公刊した最初の文献であった。ヒコは『創世記』によったことを、第十九号ではっきり「ゼネス」Genesisと原語を使って書いている。『創世記』を「世界開闢」と訳したのである。


 当時日本にきていたヘボンが、ヒコより半年ほど遅れて、旅行先の上海で翻訳出版したが、ヒコの訳は精度においてこれとは比べものにならない。ヘボンは宣教師、ヒコは一介のクリスチャン。キリスト教に無関心な読者にも興味をもって読んでもらうため、省略を行い言い回しに工夫を凝らした。たとえば、第二回には突然「ノアの箱舟」に飛んでいる。


読み物としての聖書訳という意味では、のちにクリスチャンになる岸田と本間が当時まだ信者でなかったことが幸いしたとも言える。


「ヘボン先生は宣教師でもいらっしゃるから、漢文訳のものをお持ちで、それを少し読ませていただきましたが、〈ゴット〉を〈上帝〉と訳してあったりして、私には奇異な感じがいたしました」


 ヘボンの『和英語林集成』を手助けしていた岸田が口を開くと、本間が岸田の言葉を引いて言った。


「〈上帝〉とは誠に奇妙じゃ。まるで、支那国の話でござるのう。その点、ジョセフ殿の〈神〉と訳されたのは実に名訳でござる」本間は最後は心配げに「それより、ジョセフ殿。いまだ日本は禁教令が出されております。異教の聖典を扱って大丈夫でござりますか」


「万が一のときに備えて、抜け道は考えています。肝心なところは削ったり、言い換えたりして、易しい読み物みたいにするつもりです」


ヒコは本間の質問に答えたあと、さらに自分の心のうちを打ち明けた。


帰国してから自分は、江戸幕府からは通辞として重宝がられるかと思えば、野蛮の風俗に染まり切った異邦人として扱われ、他方アメリカからは国家の都合によって、日本人あるいはアメリカ人と恣意的に使い分けられる。日米双方から利用し尽くされ、結局は何れへの帰属も拒否された自分はすっかり開き直っている。


                                 つづく


いつまでも長々と申し訳ございません。あと10回ほどで終わります。もうしばらくご辛抱願います。



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