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70.第6章(新たな旅立ち)---新聞発行(2)

70.第6章(新たな旅立ち)−−−新聞発行(2)

                               

1864(元治元)年六月二十八日、ヒコは横浜居留地一四一番の自分の館で、わが国最初の邦字新聞『海外新聞』を発行する。日本版ニュースペーパーの発行はヒコの長年の夢だった。


邦人との間を取り持つ通訳は大した報いは伴はない。当事者同士の利益に終わるだけである。そして言葉も残らない。また、必要とされるのは金持ちなど上流階級に限られる。その点文字にすれば、残る。そして繰り返し読める。さらに他人に読んでもらえる。何よりも、多数の無名の一般人を対象にすることができる。


ヒコが計画を打ち明けたときリードが心配した。

「ヒコ、君はまだお尋ね者だ。殺し屋に狙われているんだ。分かっているのか。先日も、館員のエドと神奈川方面に馬で遠出をしたらしいが、危ないぞ。楽観的なのは君の長所だと思うが、もうちょっと慎重になれよ」リードはさらに問い詰める「ニュースペーパーってどんなふうにするんだ。中身だよ。何を載せるんだ」


「国内のことを知らせるのは誰でもできる。僕にしかできないことだ。欧米の出来事で、参考になるような記事を、翻訳して載せるんだよ。さいわい、君も知っていると思うが、僕は英文の読み物をしばらくだが出した経験があるから、要領は大体分かっている。それに、欧米の事情に関心を持つ人々は日増しに増えてきている。彼らがきっと読んでくれるはずだ」ヒコは眦を決しリードの眼を見た「とにかく、僕は祖国のために尽くしたい。それが僕の唯一の願いだ。命を落としてもいい」


 遠州灘で難破して、魚の餌になりかけた命。一度死んだ身と思えば、恐れるに足らなかった。アメリカからも忌避され、日本人からも異邦人扱いをされる現在、ヒコは開き直っていた。


ヒコが言及した英文の読み物というのは、実験的に試みた海外向け英文月刊誌、『ビジネス・サーキュラー』(二度目の領事館勤務時代)と、『プライス・カーレント』(通訳官を辞した後)である。名前の通り商業誌であったが、専門以外の記事も載せ、地元横浜の居留地や中国在住の一般外国人たちにも親しまれた。


『ビジネス・サーキュラー』では、江戸近くで催された弓術大会を見物に行った将軍の行列が例になく質素であったこと、幕府や大名の購入した五隻の軍艦の価格がいかばかりであったかということ、将軍が俄かに上洛したこと、大名が続々帰国し勅使が不意に京都から江戸に下ったこと、参勤交代の規則がゆるめられ江戸詰を強制されていた大名の奥方や家族が次々と帰藩していること等、幕府権威の失墜ぶりを具体的に報道した。


領事館を去った後発刊した『プライス・カーレント』は、輸出入の物資の値段、出入港の船名、上海までの貨物運賃、両替表、ニュース短信などを掲載した。


「僕たちも購読している英字発行の『ジャパン・コマーシャル・ニュース』が、かつて何度かヒコの出した読み物から転載したぐらいだから、君の記事の面白さ、編集能力は僕も認めるよ。しかし、今度は日本人が相手だからね」


当時は横浜に定期的(月二回)に入港する船(高速郵便船)が米英の新聞雑誌をもたらした。それらのなかから、日本に関係する記事や日本人の興味を起こさすような事柄を抜粋し日本文に直す予定である。したがって、自分で記事を書く手間が省けて好都合であった。もっとも、ニュースペーパーの邦訳には躓いた。考えた挙句、題字は「(海外から)新しく聞く」より新聞を当てた。そして『海外新聞』とする。


ニュースペーパーに「新聞」の日本語を当てたのはヒコが最初である。


体裁は、二つ折り半紙四、五丁に、半丁の表紙を合わせ、観世縒りとした。表紙の図は、富士山を背景にした神奈川港の景色を藤づるで囲んだ。発行回数は大体月2回(船の入港が2回)、各刊の丁数は平均五、六であった。


表紙の図柄はすでに決めていた。自分は祖国のために尽くし、人々から仰がれる存在になるとの決意からである。難破・漂流直前に、相模灘の栄力丸船上から、船頭の万蔵とともに見やった日本の霊峰・・・今もヒコの胸に秀麗にそびえている。


内容は、見出しを付けず、「合衆国の部」、「イギリス国の部」、「フランス国の部」というように国別に柱をつけ、すぐに記事を書いた。網羅した国はほかに、オランダ、ポルトガル、イスパニア、オーストリア、ドイツ、イタリア、オロシャ(ロシア)、南アメリカ、メキシコなどである。なかでもアメリカとイギリスが圧倒的に多く、フランスがこれに続く。


ヒコの翻訳作業は、しかしながら予想以上に難事業であった。幕末の日本とリンカーン時代の欧米とでは、文化、政治、経済、社会すべての点で隔たりが大きい。とりわけ、欧米の事物に対応する日本語がない場合、類似したものを見つけるか、それもなければまったく新しい訳語を作らなければならない。〈新聞〉のときと同じ苦労にヒコは日々悩まされた。


苦心したのは国家における仕組みの違いである。大臣は老中、上下両院は上の評定所と下の評定所と工夫した。そして、前者は老中より、後者は訴えのある大名よりそれぞれ構成されるとの説明を加えた。


最大の難問は文体であった。単に日本語に翻訳するだけなら、そう難しくはない。しかしヒコの日本語は口語体である。話し言葉をそのまま新聞に使うことはできない。出版物は漢文調が常識である。さらに、文字をあまり知らない一般の人達にも読んでもらうには、できるだけ易しい言い回しにしなければならない。


ヒコは漂流する以前は、寺小屋に通っていたので、少々は漢文に馴染んではいた。しかしそれは簡単な漢文を素読する程度。それも、長いアメリカ生活でほとんど忘れている。漢語の知識はゼロに等しいし、〈或いは…し、或いは…す〉、〈…にあらずや〉、〈…せざるものなし〉などの漢文独特の表現などできるはずはない。


さらに言文一致運動が開始される十数年も前の時代。しかも文芸方面には門外漢のアメリカ帰りのヒコに、そういう高度な学究的試みは期待できるわけがない。


ヒコは口述筆記を採用することにした。ヒコが英語を日本語の会話体に翻訳したものを、漢文調、分かりやすい漢文調に直してもらうのである。当てにする人物がいた。『漂流記』を著すとき助けてくれた岸田吟香と本間清雄である。


「私はドクトル・ヘボンに眼を治療してもらっているのですが、その関係でドクトルの『和英語林集成』の編集を手伝っています。しかし、ドクトルは日本語が話せませんし、私も英語は十分には習得しておりません。困り果てていたところです。英語を教えて下さるなら、喜んでお手伝いさせていただきます」


『漂流記』出版するとき、ヘボンを介して、ヒコが口述筆記をさがしていることを知った岸田は早々に駆けつけてきた。


岸田吟香は明治になって『東京日日新聞』(現・毎日新聞東京本社)の基礎を固める。『毎日新聞七十年』は「東京日日新聞八十年」の項で、吟香のことを記し、「編集長となった氏は、雑報に口語体を創案して、『ハイ左様でございます』といった、だれでも解る文体を考案した。


岸田氏は新聞雑報の創始者の名誉を荷うものである」とたたえ、「氏の雑報は、江湖の声明を増し、東日の紙数もまた格段に増し、入社当時二千部のものが、同七年五月銀座二丁目に移ったときは、八千部に上ったほどである」と書いている。読者を一挙に四倍も激増させた吟香の〈童子にも読なん〉筆に力は大きい。


なお吟香は画家・岸田劉生の父である。


ヒコの〈童子にも読なん〉新聞精神を受け継いで生まれた新聞は『毎日新聞』だけではなかった。


                                  つづく



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