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7.第一章(漂流)---天恵

6.第一章(漂流)―――天恵


 ある日のこと、彦太郎は遠くに人の叫び声を聞いたような気がした。最初は気のせいだと思った。しかし二度目ははっきりと聞こえた。


「おおい、何か見えるぞぉ。島か岩みてえじゃ!」


 彦太郎が身を起こして周囲を見ると、他の仲間も顔を上げ耳を澄ましている様子。声は甲板からのようであった。


 まもなく、誰かが訳の分からぬことを叫びながら転がり込んできた。見張りに立っていた仙太郎であった。


 一同が落ち着かせ問いただすと、仙太郎は島か岩みたいなものが遠くに見えると言った。彼らは先を争って甲板へと走った。彦太郎も猫のクロをその場に放り出し後に続いた。


 それは島でも岩でもなく船であった。三本の高い帆柱と大小無数の白い帆を張った巨大な帆船であった。船体は黒く塗ってあった。船は少し離れたところを波を蹴立ててまっすぐこちらに向かっていた。栄力丸に歓喜のどよめきが起こった。


 隠れていた太陽が再び雲間からあらわれたとき、海の青さと帆の白さが彦太郎の眼にしみた。赤ら顔をした異人らしい風体の人間が数名こちらに向かって手を振っていた。


 彦太郎たちが黒船の正体について議論し始めたとき、誰かが一段と高い声で言った。


「ありゃあ、オランダ船じゃ。ワシは一度見たことがあるぞ。そびえる程度(ぐれえ)な高さの帆柱が三本、小さな帆が一杯(いっぺえ)張ってあって。間違(まちげえ)ねぇぞ」


 長崎でオランダの船を見たことのある長助の言葉だった。


長助以外のものには船上の異人は異様な生き物にしか映らなかった。


《ほんに船体(せんてえ)は真っ黒で、たまげるほどの大きさじゃ。それにあの()()たち、何ちゅう気味のわるさじゃ。人間とは思われねぇのう》


 幼いころから異国と黒船に憧れていたにもかかわらず、彦太郎はいざとなると怖じけを振るった。


幾十日におよぶ焦燥と孤独と絶望の漂流生活を振り返ってみれば、怖いとか不気味とかは問題でなかった。この機会を失したら永久に助からないかもしれなかった。


この大海原の只中で他船と出会うだけでも幸運なのだった。またこのまま流されるにしても栄力丸の船体の損傷がいちじるしく、持ち堪えられるのはせいぜい七日か八日ほどであった。


 彦太郎は今度こそは黙っていてはいけないと思った。


「命あっての物種というぞ。このままじゃと、どうせワシら助からねぇ。それに、あいつらまだ人食い鬼と決まったわけじゃねえぞ」


 子どもだと思って相手にしなかった彦太郎が、突然に喋ったので一同は驚いた。彼の言葉は筋が通っていた。口には出さなかったものの仲間たちも同じ思いだった。


彦太郎の言葉に彼らは心を決めた。船頭の万蔵は遭難の責任を取って栄力丸と運命をともにすると言い張ったが、部下たちの懸命の説得で心を変えた。


彼等は急いで手拭いやぼろ切れを棒や竿の先に結びつけ懸命に振った。最後の力を振り絞って叫んだ。黒船の異人船乗りたちが船べりに顔をそろえて手招きするのを見たとき、栄力丸の水主たちは助かったと思った。


「おい。お(めえ)ら、荷をまとめろ!」


 万蔵が何人かに指示をあたえ船倉に走らせた。


 発見してくれたはずの黒船が突然、栄力丸を追い越して遠ざかりかけたときは彦太郎たちは慌てた。


 一旦通り越した黒船は五、六町(約600m)行ったところで船首をこちらに向け再び近寄ってきた。黒船は順風航法をとっていたため、そのままでは停止することができず、逆風航法のまぎりに切り替えたのであった。


遠ざかりかけたとき、拡がり始めた不安は安堵に変わり、ため息は再び歓声に変わった。感極まってその場に座り込むものもいた。


 万蔵の命令で(はしけ)が下ろされ、最初に最年長の万蔵と最年少の彦太郎が乗り移った。二番目に年長の舵取りの長助がつづき、以下歳の順に従った。


 副船頭の賄方で、甥でもあった源次郎は万蔵のために寝具と衣類を積み込んでやった。他のものはほとんど着のみ着のままであった。


年配のものは金や身の回り品を取りに船室に引き返そうとしたが、亀蔵、岩吉、仙太郎など若い者たちから置き去りにすると脅され諦めた。ぐずぐずしていて黒船に行ってしまわれるのを恐れた。彦太郎は最初に乗せられたため、衣類と紙入れを持ち出すことができた。


彦太郎は猫のクロのことをすっかり忘れていた。艀が離れようとしたときクロが甲板に出てきてやっと気がついた。彦太郎は手を差し伸べてお出でお出でをしたが、何を思ったかクロは再び船倉に走り込んだ。


彦太郎はあわてて栄力丸に飛び移ろうとした。しかし背後から羽交い締めにされた。


「お頭の身代わりになってくれるンじゃ」


 彦太郎が漂流中に心を通わせたのはクロだけであった。母を亡くしたときと同じぐらい心が塞がれた。しかし船頭の万蔵の命と引き換えなら致し方なかった。


 艀が離れるとき彼らは苦楽をともにした栄力丸に向かって手を合わせた。彦太郎は合掌もせず、栄力丸が離れていくのを見つめていた。


 こうして漂流を開始して五二日目の十二月二十一日、栄力丸の水主たち十七名は全員無事救助された。


            



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