69.第6章(新たな旅立ち)---新聞発行(1)
69.第6章(新たな旅立ち)−−−新聞発行(1)
ヒコは新たな決意を胸に1864(元治元)年の新年を迎えた。前年ヒコは自分が暗殺リストに載せられたことを知らされて以来、領事館に通う以外は居留地内からは出ることはなかった。
領事館を辞めてからは、ハード商会に出勤するだけなので、ずっと居留地内で毎日を過ごした。
居留地は、底辺と両辺の長さ1キロ、上辺のながさ0・5キロの台形をしており、底辺に当たる側が海に面し、港となっている。港には輸出入貨物を扱う東波止場と国内貨物を扱う西波止場があった。
居留地と神奈川の間には日本人町が設けられ、日本人の商業関係者や外国人、そして不審者などを取り締まっている。日本人町の広さは居留地と同じぐらいである。
現在は暗殺者たちから居留地の外国人を守るため、神奈川方面より河川が掘削されている。これが完成すると、横浜港が出島のようになる。したがって、幕府は外国人保護のためとは言いながら、それを口実にして横浜版〈出島〉にする腹なのだろうとのもっぱらの噂である。
日本人町と反対側には小高い丘が広がり、外国人専用の墓地が一角にある。先年、斬殺されたロシア人見習士官の死体はここに葬られている。
ヒコはこの狭い限られた世界に閉じ込められながら日本の政情を知ることができた。それは横浜商業新聞を購読していたからである。名の通り、輸出先の物資の価格とか、日本の為替率など、貿易関係の記事がほとんどであったが、貿易は政情に左右されやすい。国内の重大な出来事についてもかなりのページを割いた。
ヒコは新聞を読むたびその力を感じた。アメリカではニュースペーパーと呼ばれて、人々に日々親しまれている。日本の何倍もある、あの広大な地域に住む人々は、この日ごとの瓦版があるおかげで、国の出来事を短期間のうちに知ることができる。
彼らは国の代表者を自分たちの間から選ぶのだが、それはこのニュースペーパーがあってこそである。新しい日本は進んだ西洋の思想や技術を取り入れなければならない。それにはニュースペーパーが欠かせないのだ。
今こそその時期であるとヒコは思った。
ヒコが日本版ニュースペーパーの構想を練るうちにも、政情はその動きをますます不穏な方向へと速めていた。
二月五日には外国奉行・池田筑後守を正使とする訪欧使節団がフランス船モンジ号に乗り横浜を出る。停泊中のフランス旗艦セミラミス号が十七発の祝砲を発し、神奈川砲台はフランス国旗を掲げて答砲する。
翌六日、スイス大使エイメ・ホムバートが和親条約締結を目指して江戸に向け発つ。オランダの官吏が補助として付き添っている。
同日、将軍は京都に参内するため役員および兵三千を率いて大坂に向かうとの布告がある。位を一橋に譲るに付き、位階昇進のためとか。
四、五日前、生糸密売を幇助した税官吏は、本人が嫌がる切腹を家族親戚朋友などの催促嘆願により無理やりさせられた。代々の家格家禄を保持するためらしい。
切腹は自らすすんでするものと聞いていたヒコは驚いた。しかし考えてみれば、彼は税官吏で外国人と接する最前線にいた人物。彼の頭はかなり西欧化されていたのかもしれない。世間体よりも本人を第一と考えを持っていたのだろう。
翻ってヒコの身の上に当てはめてみれば、同様なことが言える。アメリカ国籍でクリスチャンである自分もまた、日本人の狭い考え方を相手にしなければならないのである。他人事ではなかった。
十四日、薩摩藩官吏がきて、英国官吏と生麦事件に関する最後の談判をする。翌日彼らは汽船フキーン号を5・5万ドルで購入する。
三月二日、神奈川奉行所の役人がヒコを訪ねてきて、政府が公使を通して先年3万ドルを支払って軍艦三隻の製造を依頼したのだが、それに関する情報やニュースが外国新聞に出ていなかったかどうか、あるいは外国の知り合いから聞いたことはないかを尋ねた。
「私が読む新聞は商業関係の記事が主ですし、現在は領事館を辞めていて、合衆国の武官とも縁がなくなりましたから、私にその方面のことは存じ上げません。それより、どうして直接公使にお会いなって確かめられないのですか」
「もっともな質問でござる。じつは、外国奉行より合衆国公使に幾たびも問い合わせたのだが、そのたび返ってくる返答は〈只今製造中、遠からず落成すべし〉の繰り返しばかりでござったとのこと。建造を注文いたしたのは一昨年の十一月、大分日数が経過いたしております。…まだ一隻も製造に取り掛かってはいないのではとの噂もあるほど。ジョセフ殿、合衆国に知人を多くお持ちのお主なら、ご存知かと思いまして…」
ここでもまたヒコは幕府は自分を都合よく使い分けていると思った。
必要なときだけジョセフ殿と持ち上げ、そうでないときは夷狄に魂を売った日本人とさげすんだ。
三日、将軍は先月三日に京都に到着とのこと。途中、浦賀と下田でそれぞれ三日ずつ滞在し漁漁を楽しんだ。いっぽう将軍不在中はすべての遊興は禁じられている。
十五日、英国公使本国より無事帰国を祝すため幕府外交副奉行が江戸よりくる。
二十一日、老中二名が江戸からきて、戸部の奉行所で兵隊の検閲をなし、そのあとイギリス公使館を訪れる。二人のため戸部から横浜までの道路を掃き清め、水を撒き、塚砂を盛ることを命じた。
国家危急のときに途中で享楽に耽るとは、暢気なもの。江戸政府の命運もあとわずかのようである。また、留守中に一切の娯楽を禁じる。将軍がいかに人々の心から離れているかを物語っている。ヒコは歎息をついた。
五月二十五日、英国の軍隊運送艦コンカラー号が530の水兵を乗せて入港する。その船体の大きさと乗組員数の多さに人々は驚きの目を見張る。
二十九日、京都からの知らせ。攘夷党なる新党が結成される。島津三郎は参内のさい不敬の挙動あったとして、京都より追われる。越前国守派攘夷党と意見を異にし帰国する。これに対し一橋は大いに同党の人望を得て、大坂における同党の大総督となった。
つづく