68.第6章(新たな旅立ち)---『漂流記』上梓
68.第6章(新たな旅立ち)−−−『漂流記』上梓
領事館を去ってもヒコの心は落ち着かなかった。ハード社の代理人として貿易業を再開すれば、多少は紛れると考えたが、恐怖心は少しも去らない。以前の助力者トーマス・トロイがいてくれれば、ヒコを励まし、また仕事を手伝ってもくれるのだろうが、彼は横浜にはもういない。
また、同じ代理人として引き続きヴァン・リードが経営に参加してくれているが、彼の本業は領事館員である。普段は責任者はヒコ一人のことが多い。
ヒコは領事館を辞める前から自伝を著すことを思い立ち、少しずつ書き始めていた。アメリカを捨て、日本人として生きるに際して、区切りをつけたかった。漂流以来のこの十三年を筆記で振り返ることにより、心の整理をしたかったのである。
さらに言えば、ますます遠ざかる日本語…。日本にいても話し相手はほとんど外国人。祖国の言語を留めておきたいとの思いもあった。勤務以外はほとんど自宅にこもりきりだったので、作業はかなり進んでいた。
ヒコは居留地内でほそぼそと商売をしながらも、英字商業新聞を通して政治情勢は逐次知ることはできる。ヒコは新聞には小まめに眼を通した。
公武合体派(一橋慶喜・薩摩藩・会津藩)が長州藩を主とする尊王攘夷派を京都から追放した〈八月十八日の政変〉。程ガ谷村(横浜の東)におけるフランス人士官暗殺事件。酒井雅楽頭が、攘夷不可能との幕府決定を上奏するため、咸臨丸で横浜を出帆し、同時に尾張公が幕府・長州藩間の調整のため、リーンムーン号で長州に向かう。
数日前より江戸において、商人が浪人に暴行を受ける事件が多発しているが、幕府はこれらの犯人を捕縛しようとする気配が見られない。これは某大名が賊たちを教唆しているからといわれ、先日のフランス人士官殺害も彼らの仕業とのうわさがある。
十月十九日の真夜中、野毛山奉行所の門に、斬奸状が貼られていた。外国人との取引で暴利をむさぼり、国民の利害を忘れたとして、二十一の商店の名があげられていた。そのため何軒かが店を閉めた。
二十三日、京都の生糸商から横浜に届いた手紙には、八月十八日の政変の模様が詳しく書かれていた。
翌二十四日の手紙には、幕府は陰謀に加担した公卿を捕らえ、糾問ののちそれぞれに処分を下した。永久お構い、永久追放、終身禁錮、自宅禁錮、島流し、免官、職務停止などである。未だ糾問中というのもある。女性や身分の低いものも二、三人いる。位官所持者のなかには官位を剥奪されたものもある。
二十五日の新聞には、先月大和の国で起きた五条代官所襲撃事件の詳細が奉行所より発表される。数時間ののち反乱軍を討ち取り、首十六級を上げ、五十人を捕虜にした。また短銃十六挺、弓十九張、小銃三十六挺、刀剣六十八口などを鹵獲した。これに対して、味方の損害は軽傷者二名である。
翌日の報道は、水野伊豆守、板倉周防守など幕府老中の要請により、合衆国帆船で江戸に赴き会談をしていたアメリカとオランダの公使が、横浜に帰ってきて会談の模様を伝えた。外国人が江戸近くに居留すると物価が高騰するので、長崎と函館に退去して欲しいとの希望が幕府から伝えられた。英・仏を招かなかったのは、米・蘭が最初に条約を締結した国だからということである。
三十日付け。横浜に二刀を帯したものが多数横行し始め、貿易商人が閉店し始める。江戸では某豪商宅に浪人が押しかけ、主人が留守だったため、家に上りこみ、たまたまいた番頭に対して攘夷の演説を展開したあと、悠々と立ち去った。
幕府は十数カ国の大名に長州征伐の準備をして大坂に会することを命じる。将軍自らも京都に行くため、リーンムーン号に乗って大坂に向かった。
十一月二日、長崎より入港した英国巡洋艦レーシホールス号からの報。鹿児島に立ち寄ったとき得た情報では、戦時の英国との衝突で日本人の死傷者が千二百人に達したらしく、彼らの間には厭戦気分が見られた。
同月十二日の新聞。幕府は老中小笠原が発した横浜閉鎖の決定を取り消すため、各外国公使に配布していた通達書を回収した。
また、九日月曜日に、薩摩公の命を帯びた薩摩衆数人が神奈川奉行役人に伴われてイギリス公使館にコーネル・ニールを訪問する。生麦事件における両者の溝は埋まらず、結局物別れに終わる。要求は一歩も譲らぬと公使は告げた。十三日、金曜日に二回目の会談を予定して薩摩衆は立ち去ったが、その前に薩摩は要求の10万ドル(2・5万ポンド)の支払を承諾したらしい。
二十五日号には、周防灘で長州より砲撃を受けた汽船ペンブローク号の所有者に、幕府は要求どおり賠償額10万ドルの支払いを承諾した。
また、横浜において、老中板倉が長州の国守・松平大膳太夫捕縛の命を出す。罪状は下関事件と八月十八日政変における御所攻撃である。
十二月十日、島津三郎自ら英国公使館を訪ね、要求を受け入れることを告げ、補償金は十一日に支払うことを約束する。リチャードソン暗殺犯人は必ず探し出して、イギリス官吏の面前で死刑に処することにも同意する。翌十一日の正午ごろ、償金が車に積まれて持ち込まれた。
十二月二十五日、江戸城が焼ける。そのため幕府は将軍の居城の完成までは、外国人に木材を売ったり、建築を請け負ったりすることを材木商に禁じた。
かくして、不穏な様相をいっそう強めつつ1863(文久三)年は、慌しく暮れる。
ヒコにとっては、唯一『漂流記』を上梓し終えたことが救いであった。
ヒコは栄力丸の漂流の様子は日記形式で、他の部分はそれに加えて、アメリカの政治組織、法律、風俗、習慣などの項目にわけ詳細に記した。
排斥の刃が突きつけられようと、自分は絶対に日本に帰るのだ。ヒコは半生を文字化することで、祖国復帰への意思を固めようとした。
ヒコは己の決意を確かめるため、『漂流記』の序文に「播州彦蔵」と日本名で署名し、次のような結びの言葉を添えた。
〈…比儘日本に止りたくおもへども、亜国に恩人信友多く、其上異国の言語筆算は日用に差支なし。日本の事は習ひなければ、事毎に差支多く、又差当り活計目当てなく乍去父母の国なれば異国の人別にて終わらんも本意ならず。希はくは日本の読み書きをも学び、時を得て日本人別に戻り、亜国と日本の両間に在て両国の為に微功をいたし、国恩を報ぜんことを願ふばかりなり〉
ヒコとリードが代理人を務めるハード商会は、横浜海岸通6番と水町通27番を併せた1500坪あまりの広大な敷地を占めていた。そして敷地内には、住居、事務所、石造り倉庫、木造倉庫、茶の再生工場などが立ち並び、1860年の開店時ほどではないが、商売は活況を呈していた。
ある日商会の事務所で、ヒコが『漂流記』を書いているのだと、リードに告げると、リードはしばらく間をおいてから、思い切るようにして口を開いた。
「あの生麦峠のアメリカ人、じつは私だったんだ。隠していて悪かった。とにかく事件に巻き込まれるのが嫌だったんでね。領事や公使にも内緒なんだ。君が半生をまとめると聞いて、懸命に生きようとしている君の姿を見ると、話さなくてはと思った」
ヒコは彼が自分にだけ明かしてくれたことが嬉しかった。
リードはあとで事件のことを聞いたとき、リチャードソンならやりかねないと彼は思ったらしい。リチャードソンは中国から来たばかりだったが、中国でも評判は極めて悪かった。自分の意にそわない現地人に対しては遠慮なく鞭を振り下ろしたということだ。
つづく