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67.第6章(新たな旅立ち)---ヒコの首

67.第6章(新たな旅立ち)−−−ヒコの首


 ヒコたちの長州征伐に触発されたように不穏な出来事が多発する。

 八月四日の朝、領事館門頭備え付けの合衆国の徽章・白頭鷲が盗まれているのが発見される。領事は必ず犯人を捕まえ処刑にすると激怒した。懸賞金をかけて探したがついに見つからなかった。


 六日、クーパー提督率いる東印度艦隊が、船首、船尾を互いに接するようにして横浜港を出帆する。生麦事件の賠償金を請求するため薩摩に向かったのである。


 八日、小笠原図書頭が老中役を罷免されたとの通知が諸外国代表になされる。

 そして、十日。ついにヒコに刃が突きつけられる。


 横浜奉行から三人の役人が慌しく自宅にヒコを訪ねてきて言った。

「近頃この辺りを多数の長州人が徘徊しております。ジョセフ殿、残念ながら、貴方も狙われておられます。彼らの誅戮相手名簿の六名に、ジョセフ殿の名前も加えられておるように見受けられます。したがって、居留地の外へお出でになったり、とりわけ神奈川側方面には一歩たりともお入りにならぬようご忠告申し上げる」


「それは本当ですか。何かの間違いということはありませんか」

 ヒコの質問に対して奉行は二日前に起こった事件について語った。

神奈川の東海道筋に近い道端に、血糊のべっとり付いた人間の生首が置かれていた。傍らに貼られた斬奸状には次のように記されていた。


〈此者は七月十三日米国軍艦に乗り込み馬関に赴き、水路嚮導として同月十六日本国人に敵対したる者なり。尚ほ同様誅戮すへきもの外に五人あり〉

 間違いない。これはヒコのことである。ついにきた。


 ヒコは自分の犠牲になった人物の生首を思い描いた。そして、ぞっとした。

 ずっと以前、ロシア見習士官が斬られた日のことが蘇った。彼は切り裂かれた脇腹から内臓をはみ出させ横たえられていた。薄暗い燭台の灯りの中で不気味に浮き上がって見えた。首を胴体から切断する…はるかに残酷である。ヒコはいたたまれなくなった。


戦艦ワイオミングが長州征伐に赴くとき、ブライアン公使を乗せなかったとの情報はたちまち市中に伝わったであろう。また、帰着したとき戦果を聞くため群衆が大挙して押し寄せた。ヒコの行動が手に取るように知られていたとしても、当然であったろう。


 刺客たちは人違いに気付くだろう。いやすでに気付き再びヒコに照準を当てたかもしれない。


怯えの日々がついに始まった。ヒコは、いつ、どこにいても、不意に暗殺者が刀を振りかざし、襲ってくるような気がした。床についてもなかなか寝付かれなかった。やっと、寝ついた思うと、必ず悪夢にうなされた。夢の中で、かっと眼を見開いた、人間の生首が血を滴らせながらヒコを追っかけてくるのであった。


しばらくして、奉行所役人すべて殺害し、私邸を焼き払うとの貼り紙が町中に張り出され、役人たちは慌てて警固の人員を増やした。


翌日、十四日の未明、多数の長州人が居留地に火をつけるため押し寄せる。そのための武器弾薬はひそかに横浜港に輸送し町に隠しているとのうわさがある。しかし、未遂に終わる。


 攘夷の嵐は外国人とその援助を受けている日本人では飽き足らず、外国人相手に商売をする大商人にも凶刃を向け始める。彼らの生命を奪うばかりでなく、尊皇運動の資金の名目で金品を強奪するものもいた。


 十六日、京都で、先端にまだ血の滴っている生首が五、六個を突き刺した棒杭が立てられる。傍らには斬奸状の高札が立てられていた。


〈此悪人共自己の私慾を逞せんため夷狄と貿易を為し、為に物価を昇騰せしめ、下は人民を塗炭に苦め、神は天子の龍意に背く。依て天誅を加ふるものなり〉

 京都の商人たちはみな、恐れおののき、あるいは仲間追悼のため店を閉めた。


 十八日、出回った英字新聞に、生麦事件処理に関する、イギリス代理公使J・ニールの薩摩藩宛の抗議書と、これに反論する薩摩側の返書の全文がそれぞれ掲載された。


イギリスは、最後に、リチャードソン殺害の下手人、および同氏同伴の一婦人、二紳士を負傷させた者を速やかに逮捕し、英国海軍士官一人以上の目前において死刑に処すること。惨死人の遺族および負傷の者等のために賠償金2・5万ポンド(6・3万両)を支払うことを要求した。


 条約において貴国人が自由に振舞えるのは居留地内のみと取り決められている。さらに日本では行列の前は誰もこれを横切ってはならないことが古来習慣となっている。逆に貴国で同様なことが起これば、どうなるか。よく考えていただきたい。


 二十一日の新聞は、横浜に到着したばかりの郵船コルモーランド号の報を載せている。鹿児島湾に投錨中のイギリス艦隊が、嵐に乗じて攻撃され、艦長ジョスリング、艦隊長ウィルモットを失ったほか、死傷者多数に上った。当郵船は帰途中の艦隊に遭遇しこの情報を得た。艦隊はやがて横浜に帰着するであろう。


 二十六日号には、薩英戦争の詳報、交渉の経過および決裂の模様が掲載される。薩摩は結局、大名の通行を妨害し得る自由を外国人に与えた、大君に全責任ありとしてイギリス側の要求を突っぱねた。 


 もし自分が領事館員として殺されたら、合衆国政府はどう扱うだろうか。アメリカ国籍所有者として、生麦事件のリチャードソンのように、補償を要求してくれるだろうか。否である。しかし彼ら外交官は転んでも只では起きない連中ばかりである。だから、ヒコを無駄死にはさせないだろう。取引材料か何かに使うに違いない。


 ヒコは生麦事件が起きた直後、日本人が交わしていた噂話を思い出した。事件の直前日本語に堪能なアメリカ人が乗馬して島津藩の行列に遭遇したが、直ぐに下馬をして馬の鼻面を押さえ、一行を通したというものである。


 ヒコはそのうわさを聞いてからそのアメリカ人に興味をもった。大名行列への対処の仕方の手際よさ。よほど日本のことに詳しい人間に違いない。日本に長い間住んでいるものか、来日前に日本について熱心に学んだ者であろう。


 ヒコに心当たりがあった。領事館同僚のヴァン・リードである。彼はサンフランシスコ時代にサンダース氏を通じて懇意になった、そして国務省入りの不調により失意の底にあったヒコに、出張先の中国から援助資金と日本語の書籍をサンダース氏宛に届けてくれた。


あの実業家のヴァン・リードである。彼はことあるごとに将来日本で働きたいと言っていた。そして日本の習慣や人々の考えたなどについてヒコに尋ねた。


リードはつい先年、帰国途中のハワイに滞在中のヒコをひょっこり訪ねてきて、これから日本に向かうところだと告げた。ヒコがブルック艦長のフェニモアクーパー号で測量している間に、彼は先んじて日本にやってきていた。ヒコたちが領事館を開設してまもなく、彼は領事館に雇われた。以来ずっと領事館員として働いている。


 ヒコが領事館を退いて初めて商売をしたとき、ヒコは領事館員のリードとともに香港に本店を持つアメリカ・ハード商会の代理人を勤めた。海軍倉庫監理委員の職をすすめたのも彼である。希望がかなわず帰国したときは、失望するヒコを慰めてくれた。また、いっしょに仕事ができると喜んでくれもした。


あの日本語の堪能なアメリカ人はヴァン・リード以外に考えられなかった。ところが、事件からかなり日数がたつのに、別に変わった様子はない。親友なら教えてくれてもいいはずだ。

 ヒコは次の日リードに確かめてみた。しかし、首をかしげて手を左右に振るだけである。

 

 不穏な事件がさらに続く。

 生糸の豪商が生糸の騰貴を引き起こしたとして浪人に斬殺される。この対策に幕府は七人の大名を老中に加える。


 九月二十日の京都からの知らせは不祥の極みであった。

 明け方、三條大橋西詰めに斬り落とされたばかりと思われる人間の生首が、棒に突き刺して立ててあった。辺りが明るくなるにしたがって、京都の豪商の一人大和屋卯平の首と判明した。


〈源次郎、彦太郎、市次郎、庄兵衛、此四人は不在にして免れたりとも雖も、此後早晩天誅を受くべし。将軍は数年前天子の許可なくして外国人と条約を結びたるに、此者共其条約を奇貨とし、大に外人と貿易して大利を占め、己れが行為に拠て如何に他人の困苦するやを顧みず、…〉

 脇に立てられた高札に、暫奸の趣意が認めてあった。


 ヒコは暫奸状のなかに自分の幼名と同じ彦太郎を見つけたとき、どきりとした。日本人には珍しくない名前であるが、よりによって自分と同様浪士に眼を付けられるとは、縁起ではない。


 ヒコは長州遠征より戻ったとき領事館を辞任することを領事に届け出ていた。とはいえ、せっかくワシントンが用意してくれていたポストである。また幕府と交渉して給料の両替率も改善されていた。未練がなくはなかった。しかし、命あっての物だね。辞任届けを出してよかったと思った。


 九月三十日、ワシントンより通訳官辞職受理の通知が届いた。




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