63.第6章(新たな旅立ち)---生麦事件(1)
63.第6章(新たな旅立ち)−−−生麦事件
出発の準備に慌しい五月五日、ヒコは朝刊に日本人漂流民たちがアメリカ船ヴィクター号で連れてこられたとの記事を読み、日本領事のプルークとともに船まで行く。この漂流民一行は尾張の出身で総勢十二人、暴風雨に遭遇し、数週間漂った後やっと米船に救われた。ヒコは領事に頼んで航行許可証を発行してもらい、神奈川行きの帆船イダ号に乗せてやる。
これまでにヒコは何と多数の同胞漂流民たちを祖国に送り帰してやったことだろう。シスコでは越後の国の勇之助、尾張は半田村の十二名。ほかにも二、三度あった。ハワイでは尾張の国の勘太郎と喜平、少し後には阿波の政吉。世話するたび、帰国後の彼らの身を案じてやった。咎人として取り調べられる。
しかし彼らはお上だけを相手にすればよかった。いっぽうヒコは今や祖国全体を相手にしなければならないのだ。何度も頭を下げ、ヒコに礼を述べる尾張の漂流民たちに愛想笑いで応じながら、ヒコは複雑な思いにとらわれるのだった。
五月二十五日、サンフランシスコを発ち、九月五日に香港に着く。途中ホノルルで旧知を何人か訪ね近況報告をするのに一ヵ月近くを費やした。合衆国政府により自分の立場を教えられたヒコは、領事館勤務はしばらくの間と思っていた。残された道は貿易業しかない。その時に備えて、ホノルルにも取引上のつてを作っておきたかった。
香港に到着してヒコは、アメリカの国内戦争がまだ続いているのを知る。北軍のマクレラン将軍が南部連盟の首都リッチモンドを攻撃したが、二万人の兵士を失い敗退させられた。リンカーン大統領がさらに兵を招集すると北部諸州はこれに反対した。
眼窩の奥から放たれるリンカーン大統領の真っ直ぐな視線、ヒコをかばってドール領事を睨みつけたときのブルックの眼差し。ヒコはリンカーン大統領と旧友ブルック艦長の顔を交互に思い浮かべた。
南北戦争の余波は香港にも及んでいた。損失を恐れた他貿易業者が、アメリカ人との取引を敬遠した。またイギリスの女王の宣言により、南部北部双方ともアメリカ船は香港には一度に二十四時間をこえて留まることを禁じた。
このため当地のアメリカの海運関連の施設はほとんどが閉鎖され、アメリカの船舶は一隻も見当たらなかった。
九月十一日に香港を出発し、廈門、福州をへて二十七日に上海に向かう。福州でクラーク夫妻のところに数日間滞在する。ここから寧波までは川を遡上する。その途上、中国船が下るのとすれ違う。聞けば偵察中に誤って護衛兵に射殺されたイギリスのヴァード将軍の遺体が乗せられているとか。
寧波に停泊したとき、何人かの乗客が市内見物をするため下船した、が慌てて引き返してきた。太平天国軍が町を占領し、門を閉じたため入れなかったらしい。まもなく地元民の船が多数男女や子供たちを満載し、家財道具を積み込んで下っていくのを見た。
また閉門前に逃げ出した人々が、ヒコの乗るロナ号に上海まで乗せてくれと頼んだ。ロナ号はそれで大変な臨時収入を得た。
ヒコは清朝中国の次は日本かもしれないと思った。アメリカのような内乱が起こらなければよいのにと願うばかりだった。
上海到着は二十七日。神奈川行きのアメリカ船ガヴァナー・ウォーレス号に乗り、二十九日に呉松に到着。
翌日早朝に船長が慌しくヒコのところにやってきて言った。
「たった今、神奈川から入ってきた船が知らせてくれましたが、日本に騒乱が起こって、イギリス人が三人斬られたということです。詳しいことはまだ分かりません。ジョセフ殿。申し訳ありませんが、船まで行って調べてきていただけませんか」
騒乱と聞いてヒコはまさかと思った。アメリカと中国の内乱がヒコの胸をよぎった。
ヒコはその知らせをもたらしたランスフィールド号を急ぎ訪れ、船長に確かめる。イギリス人三人が斬られたのはその通りであったが、騒乱というのは事実ではなかった。殺傷事件の余波程度のものらしかった。ヒコはひとまず胸を撫で下ろした。
十月十三日、横浜に帰り着いたヒコは旧友のエドワード・クラークの家に逗留する。
居留地はイギリス人殺傷事件の話題で持ちきりだった。事件は神奈川と鶴見との間にある東海道筋の小村で起こった。村の名前は生麦といった。
原因は居留外国人側と日本人側とで見方が異なっていた。
外国人側の話。中国在住の外国人が横浜居留地在住の友人たちと、川崎方面に馬で遠出をしたとき偶然大名行列に出会った。薩摩侯の父・島津三郎の行列だった。外国人たちは道を譲ろうとしたが、俄かに馬が暴れだした。そしてうち一人の馬は地元群集の人垣を打ち破り、行列に突進し始めた。
これに怒った薩摩藩の武士が抜刀して外国人に斬りつけた。外国人は倒され、残りの二人は負傷したが、そのまま神奈川まで馬を走らせ無事帰り着いた。そのうちの一人婦人が急いでアメリカ領事館に知らせた。
報を聞いた居留地の外国人たちはみな激しく憤った。彼らは話し合って、当日島津侯宿泊予定の保土ヶ谷の旅館への襲撃を決めた。しかし一行が出発しようとしたとき神奈川奉行が調停に現れ、思いとどまった。
日本人側の話。この日四、五人の外国人が乗馬で川崎方面に向っていたところ、江戸方面からやってきた島津三郎侯の行列に出会った。外国人たちが行列を突き破ろうとしたため、供の武士が道を空けるよう命令した。ところがどういう訳か、彼らはこれに従はなかった。
それでこの武士の〈無礼者斬り捨てよ〉の言葉に、連れのものたちが抜刀し外国人に斬りつけた。一人は即死で、他は逃げ去った。うち一人が婦人で、彼女は先に馬首を回し、次に同行の男子二人がこれに続き逃げ去った。婦人は無傷のようであったが、男子二人は手傷を負った。
また別の日本人の話。この事件の少し前、日本語に堪能な一人のアメリカ人が同じく川崎方面に向け馬を走らせていたが、行列が来るのを見て、轡を取って馬の傍に立ち、行列をやり過ごした。それでこのアメリカ人との間には事件は起こらなかった。
さらに別の日本人の話。数ヶ月前、江戸に行く途中島津侯は横浜に立ち寄り、12万ドルで外国の汽船を購入した。これを見ても侯は決して外国人に恨みを抱く人物とは思われない。にもかかわらず、このような事件を引き起こしたのには、何か仔細があるにちがいない。
侯が江戸城に上り、自分の子が薩摩の国主になったのだから、自分は大隈守に任ぜられるよう朝廷に奏上して欲しいと将軍に頼んだところ、将軍がこの斡旋を拒否したため、島津三郎侯は憤激に打ち震えたとのことである。その憂さ晴らしのため、外国人に危害を与え、外国交渉に当たる幕府を難局に陥れようとしたのだろうともうわさされている。
ヒコは事件の直前一アメリカ人が下馬して行列を通過させたと聞いたとき、ヒュースケン暗殺時におけるハリス公使の言葉を思い出した。彼はヒュースケンの死は幕府側でなく本人の不注意に帰せられるべきと処断した。
幕府あるいは藩の要職にあるものは、外出に際しては必ず警護を固めるのが通例であるのに、彼は無防備で、しかも真夜中に外出した。公使が日頃より度々その旨警告していたのにである。
ハリス公使はきっと日本在留のアメリカ人に対しても、日本では日本の風俗習慣には決して逆らわないよう訓令を徹底させているに違いなかった。
その点イギリスは、公使のオルコットが、東海道旅行と富士登山を強行し、東禅寺事件を引き起こしたほどの無神経で挑発的な人物。居留イギリス人たちに緊張感が欠けていたとしても不思議はない。今回の生麦村における大名行列との乗馬衝突、しかも婦人が加わっていたとは、起こるべくして起こったともいえる。
ヒコは日本政府との折衝に関しては、合衆国のほうがはるかに真剣であると思った。
とはいえ、ヒコは出鼻をくじかれた。ヒコは領事館勤務を平穏な気持で滑り出させたかった。ヒコはおのれが再び凶刃の刃の上に立たされているのを見出した。
心戦かされるヒコは十月十五日、アメリカ領事館を訪れ、帰着の挨拶をする。領事館通訳官としてのヒコの生活が再び始まった。
参考資料
生麦事件は1862(文久二)年九月十四日に起こった。被害者はイギリス人4名(うち女性1)だった。死亡したのはC・リチャードソンという男子、他の男子2名は負傷、婦人は無事であった。もっともマーガレット・ボロディルというこの婦人はまもなく精神に異状をきたし亡くなる。
なおこの事件で薩摩藩はイギリスに賠償金2・5万ポンド(7万両:30億円)を支払う。また犯人処罰に関しては、藩は犯人(奈良原喜佐衛門)逐電としてこれを拒否する。これはやがて薩英戦争へと発展する。
つづく