60.第6章(新たな旅立ち)---南北戦争(3)
60.第6章(新たな旅立ち)−−−南北戦争(3)
翌日ヒコはレーサム議員に連れられ、海軍省にウェラー長官を訪ねる。
長官は鼻眼鏡ごしに書き物をしていたが、レーサムが声をかけると快く彼を迎えた。レーサムは挨拶もそこそこに来意を告げ、ヒコの推薦書を手渡した。
レーサムは長官が読み終えた時分を見計らって訴えた。
「アメリカ海軍倉庫監理の職をこの青年に許可下されば、米国物資の日本への紹介がずっと速やかに行えますし、結果として、日本の開国を早めることは間違いないと考えます。ジョセフ氏から伺いますと、只今本国では諸外国が先を争って日本政府に交渉を持ちかけようとしているとか。将来、わが合衆国が日本で有利な立場を築くためにも、是非このジョセフ氏に海軍倉庫委員の職をご許可くださるようお願いいたします」
しかし答えは思わしくなかった。
「貴方もご承知かと思いますが、今国内の争いが抜き差しならぬ状況にあります。ですから東洋の海軍兵站部の人員一人と言えども、増員する余裕はありません。それどころか、あちらに派遣している一隻しかない軍艦でも、帰還命令を出すことを検討している程です。推薦状を書いてくれた人々には誠に申しわけないのですが、期待には添いかねます」
落胆しているヒコを見て気の毒に思ったのか、ウェラー長官がさらに続けた。
「国務長官のシュワード氏に頼まれてはいかがですか。国務省は公使館と領事館を管轄しておりますから、この推薦書をお見せになれば、ご希望のような職が見つかるかもしれません」
シュワード長官を訪ねると、彼は軍人その他の旅券の署名に忙しく、机上には旅券が山のように積み上げられている。長官はヒコとレーサムを認めると先に声をかけてきた。
レーサムがヒコを紹介しようとすると、シュワードがそれを遮って言った。
「ジョセフ氏なら存じ上げています、レーサム議員。貴方の先任のグイン氏に連れられ、ここに来られたことがあります。そうでしょう、ミスター・ジョセフ」彼は感慨深げにヒコを見やった「ずいぶん、立派になられましたね」
ヒコは三年前サンダースの勧めもあって、カリフォルニア州上院議員のグインに連れられ国務省を訪れたことがある。グインが国務省にヒコの職を世話すると申し出た。あのときシュワードは、長官の職にはなかったが、職員の一人として近くからヒコのことを見ていたのだろう。
旧知のように親しげな国務長官の対応にヒコは明るいものを感じた。
レーサム議員は国務省来意を手短に告げ、推薦書を長官に見せた。ところが返事はやはり暗いものであった。
「海軍の倉庫監理の職をご希望のようですが、何故通訳官にならないのですか。最近神奈川の領事館に、通訳官のポストを一つ用意しました」
長官は推薦書から顔を上げ言った。
長官の言葉にレーサムはヒコを顧みたが、ヒコが気のすすまない表情を示したので、彼は長官の提案を丁重に辞退した。
長官はさらに、遠いところからやってきたのだから、もうしばらくアメリカに滞在し、通訳官の地位を得ることをすすめた。
「私が遠路こちらに参りましたのは、合衆国海軍倉庫委員の職に選んでいただくためです。しかし、長官もおすすめくださったように、せっかく参ったのですから、通訳官の仕事を探してみたいと思います」
ヒコは長官のアドバイスに丁重に礼を述べた。しかし、自分がかつてドール領事の下で合衆国領事館の通訳官の任に当たっていたことは話さなかった。話しても、ヒコの希望が通るわけではなかった。
レーサム議員も最初にヒコを長官に紹介するとき、そのことには触れていなかった。レーサムはヒコの経歴を明かしかけたが、ヒコはそれを目顔で断った。
ヒコはシュワード長官と別れたあとレーサム議員にいった。
「私は一年半前に捨てた職を、再び得るために、遠路はるばるワシントンまで来たのではありません。勿論、以前の現地採用の臨時嘱託とは違って、正式な一等通訳官ではありますが。しかし、それは名目だけです。日本に帰れば仕事の中身は、なんら変わりありません」
長官に打ち明けたかった分語気を強めた。
「わが国におけるアジア外交の将来にとって、日本の開国は一刻の猶予も許されない。君一人ぐらい何とかしてくれると思ったが、私の考えが甘かったようだ。逆に言えば、ウェラード海軍長官が言った通り、南部との戦争が抜き差しならぬ段階に来ているということだろう」
レーサム議員は役に立てなかったことをヒコに詫びた。
「私自身、少々考えが浅はかだったような気がします。サンダース氏と出会ってからのことを振り返ってみますと、各界の有名な人々の好意に頼ってばかりいました。自分の足で立ってはいませんでした。それに、」ヒコは苦笑いを浮かべた「分裂という国家の急をわきまえず、虫のいいお願いをするんですからね。まったくお人よしですよ。たぶん、私が帰ったあと、長官は笑っておられることでしょう」
「でも、私たちの戦いについては、君はこちらにきてから知ったのだから、仕方がなかったよ」
レーサムの慰めには直接答えず、ヒコは前日街頭で北軍兵士に銃を向けられ冷やりとしたときの話をした。
「きっとあれは神様が兵士をして私に忠告をさせなさったのでしょう」
ヒコはしかし未だ迷っていた。そして思案のすえ、シュワード長官のすすめに従うことにした。かつての臨時嘱託と仕事の中身は同じであるにしろ、正式な一等通訳官のほうが待遇がよく、誇りがもてる。何より、内乱という国家危急にかかわらずヒコのために時間をさき、正式に任官しようといってくれた長官の厚意を無にしたくなかった。
「私やはり任官を受けることにします。明日長官にお会いしてそう伝えます」
「私も賛成だ。今合衆国が貴方に提供できる最大限の厚意だと思うね」
レーサムはよく言ったといった表情でヒコを見やった。
次の日いちばんに国務省に行きシュワード長官に好意に甘えると伝えた。
「きっと受けてくれると思ってました。君なら優秀な通訳官になれますよ。ありがとう。さっそく手続きを取りましょう」
長官はヒコの手を握った。
その日、夕食後ヒコがホテルのロビーで新聞を読んでいると、突然名前を呼ばれた。
見ると見知らぬ人物が立っている。歳は四十五、六。やや太り気味の風采堂々とした紳士である。
彼は名刺を差し出し自己紹介をした。名をカプテンブースといった。
「私の妹がカリフォルニアに住んでおるのですが、貴方のことをよく存じ上げております。もっとも彼女は貴方と直接お会いしたことはなく、サンフランシスコで商売をやっている彼女の夫から聞いたらしいのです。彼女が先日手紙を寄越し、貴方がもうすぐ東部に来られるはずだから、是非お会いして、自宅に招待し厚遇して欲しいと言ってまいったのです」
ヒコがよく居場所が分かりましたねと問うと、ヒコの旅行目的も手紙に書いてあったので、ワシントンじゅうのホテルを注意していたと答えた。
彼の妹の夫はきっとシスコのマコンダリー社に出入りの商人か、あるいは彼らの知り合いであろうが、話でしか知らないヒコがワシントンに行くことを耳にして、わざわざ東部に住む兄に手紙で知らせる。ヒコは今更ながらアメリカ人の好奇心の旺盛さに感心し、自分の恵まれた境遇に感謝した。
ヒコは翌日ボルチモアに帰らなければならなかったので、他日暇ができればご好意に甘えさせていただくといって辞退する。
ボルチモアノサンダース宅に帰っても、カプテンブースからの招待状がたびたび届く。
ヒコは招待を受けることにし、アレキサンドリアにある彼の自宅を訪ねる。アレキサンドリアは首都ワシントンの南に接する小さな町である。
滞在して三日目の日曜日、彼の家族とともに教会に行った帰り道、ヒコは群集がたむろしているのに出会った。
「セントポールの教会の牧師がね、同盟軍の大統領だけに祈祷をしてだよ、北軍の大統領の祈祷はやらなかったんだって。だから北軍の大統領リンカーにも祈祷をしろって、その場にいた北軍の兵士たちが詰め寄ったんだが、牧師が耳を貸さなかったんだってよ。それで怒った兵士たちは、演壇に上って牧師を聖書を手にしたまま、担いで行ってしまったんだそうだ」
ヒコが何事かと訝っていると、野次馬の一人が尋ねもしないのに教えてくれた。
南北戦争(The Civil War)は主として奴隷制度を巡って戦われた戦争であるが、南部と北部に境界を接する州は、いずれに味方するかで州内がまとまらなかった。北派・南派、奴隷制度存続賛成・反対で分かれた。兵士も私服ながら北軍南軍入り乱れていた。
アレキサンドリアはそういう中間州のひとつバージニア州の最北端の町で、しかも北部の首都ワシントンと目と鼻の先に位置していた。
つづく