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59.第6章(新たな旅立ち)---南北戦争(2)

59.第6章(新たな旅立ち)−−−南北戦争(2)


ケリー夫人宅を辞去するとき、大学教授をしている義兄のアガーセは、ヒコが依頼した紹介状を書いてくれた。封がされていなかったので、あとで取り出し読んでみた。言葉遣いがいかにも親しげで、彼がシュワード国務長官、サムナー上院議員など有力な政府関係者と懇意であることが分かった。ヒコはボストンまで足を伸ばした甲斐があったと思った。


 ホテルに帰り着くと見知らぬ青年がヒコを待っていた。ヒコがニューヨークに滞在しているのを聞いた彼の父がヒコを家に招待するため彼を寄越したのであった。


彼の父親のポープは、ヒコが以前グイン上院議員に連れられカリフォルニアからワシントンに向かったとき、同じ船にたまたま乗り合わせ、そのとき知り合ったグインからヒコのことを聞いたのだった。ヒコは喜んで招待を受けた。


 一面識もないのに、旅の途中で偶然耳にした人物のために、わざわざ息子を派遣して自宅に招く。聞いた相手が名士の上院議員で、ヒコが数奇な運命を生きる異国人であったことを差し引いても、アメリカ人はじつに好奇心が旺盛であるとヒコは思った。


彼はヒコが病み上がりであることを知ると、自宅にヒコを滞在させ介抱してくれた。初見の客を我が家に泊める、アメリカ人には異例な取り計らいであると思ったが、彼が敬虔なピューリタンであることを聞きヒコは納得した。博愛精神に裏打ちされていたのだ。


これもみな、サンダース氏あってこそであった。サンダース氏に出会ったからこそ今こうして各界の名士たちと交流がはかれているのだ。


ヒコはワシントンに赴く前、想い出の地ボルチモアにサンダース家を訪ねた。車中から望む長閑な山水の風景は昔どおりだった。野原に遊ぶ牛馬は長閑に草を食み、遠く連なる山々はなだらかに、美しい緑を呈している。


サンダース家のゲートに立ったときは、熱い塊が喉もとまでこみ上げた。三年前の別離の情景が眼の前に浮かんだ。ヒコが馬車から顔を出し別れを告げたとき、眼を潤ませヒコの手を握ったエリザベス夫人と娘たち。


ボルチモア駅をヒコの乗った列車が出るとき、プラットホームの端まで追ってきて、ヒコの姿が見えなくなるまで懸命に手を振ったサンダース氏。つい昨日のようである。


 ヒコのノックで現れたサンダースはヒコを見ても表情をあまり変えなかった。見知らぬ人物だと思ったらしかった。


「ミスター・サンダース、私ヒコです。昔サンダース気でお世話になったジョセフ・ヒコですよ」


ヒコの言葉に信じられないといった表情で首を振っていたが、やがて確信したのだろう突然歩み寄りヒコを抱きしめた。

「本当だ。本当だ。ヒコだ。ヒコだ。…こんな立派な青年になって、すっかり見違えたよ」

あとは言葉にならない。ただ何度も頷きヒコの肩を叩くだけだ。


遅れて出てきたエリザベス夫人も最初はヒコが分からなかったようだったが、ヒコが夫サンダースと抱き合っているのを見て、気付いたようだった。


「まあ、貴方、ヒコ! ヒコね! ヒコでしょう」夫人も駆け寄りヒコに頬ずりをした「私たちの息子のヒコが帰ってきてくれたのね」


 サンサースの書斎に通されヒコは、ボルチモアを去って以後の此の方を概略述べ、再渡米することになった経緯を詳しく述べた。


事業破産が尾を引いているのか、彼の生活は以前にもまして質素であった。それは、住人がサンダース夫妻たちだけで、家の中が静まり返っているせいかもしれなかった。彼女たちは結婚したり、学校の寮に入ったりして家を出たのであった。成長した彼女たちの姿を見るのを楽しみにしていたので、ヒコは残念な気がした。


「この三年間は、本当に大変でした。何しろいつ何時、後ろからばっさり斬りつけられるか分からないんですからね」


ヒコは食後のデザートのケーキを崩しながら呟くように言った。


「そうだったのか。それは、気の毒なことをしたな」サンダースは申し訳なさそう俯いた「君を改宗させ、君に合衆国の国籍を取らせたのは、間違いだったかもしれないな。君の将来、君の身の安全を考慮したうえで私たちが決めたことだったんだが、皮肉なものだね。許してくれたまえ、ヒコ」


「貴方が謝られる必要はまったくありません。良かれと思ってしてくださったことですから。それに、しばらく日本を離れているあいだに、不穏な空気は下火になると思います」


 ヒコとしても、気にしなくはなかったが、過ぎ去ったことはとやかく言っても致し方ない。現在の自分を認めるなら、過去を受け入れざるを得ないのだった。


「それの罪滅ぼしと言えば変な言い方だが、君の海軍倉庫委員就職活動、私にも手伝わせて欲しい。私の知り合いに、レイサム上院議員がいる。彼に頼んでみてやろう。彼なら海軍省の出身だから、口を聞いてくれるかもしれない」


クリスマス休暇の終わった明くる1862(文久二)年の一月九日、ヒコはサンダースに連れられワシントンに向け出発する。


 ボルチモアからワシントンに至る道路沿いには、ほぼ切れ目なく兵隊用のテントが張られていた。北部政府は軍隊再編成の途中であるため、テントは新兵用のものであった。ワシントン市内に入ると一般外国人が群れをなしていた。彼らは北部と南部の軍事衝突を見物に来たのだった。ワシントンは戒厳令下におかれ、三万の軍隊が治安の維持に当たっていた。


 二人はウィラード・ホテルに宿を取る。しかしホテルは北部全州から集まった制服の将校たちで溢れていた。サンダースは主人と知り合いであったので、主人は二人のために部屋を確保してくれた。食堂ではどちらを見ても、金筋入りの軍帽、肩章、金ボタンの軍人たちが、ナイフとフォークをカチャカチャさせながら会話に没頭していた。


どこどこの戦線では何人が殺されたとか、南部の軍隊がどこを占領しているとか、話題は戦争のことばかりである。


 翌日サンダースに連れられ、彼の知り合いレーサム上院議員を訪れた。初日はサンダースがヒコを紹介するだけの挨拶目的だった。議員は詳細は次の日に紹介状を読んだ後で聞きたいと思うが、午前中は多忙なので、夕食をともにしながら伺うと言った。


 次の日夕方まで暇だったので知り合いのウォーレス記者を訪ね、帰途メリーランド州下院議員のメイに偶然出会う。彼はヒコを上院を案内したあと、大陪審に連れて行き、判事たちに紹介した。そのうちのクレーン判事はとりわけヒコに親切で、日本の状況などを尋ねた。ヒコが混乱した世情を伝えると心配げに盛んに頷いた。


 彼は実際の審判の様子を見せてくれた。長い黒装束姿の判事五名が意義を正して肘掛け椅子にすわり、読み上げられる罪状に耳を澄まし聞き入った。傍聴席は静まり返り、針の落ちた音でも聞こえそうであった。


夕刻が近づきレーサム議員を訪ねる。サンダースは自分の務めは果たしたので、レーサムとは会わずに先にボルチモアに帰った。ヒコ一人でだった。


「君の持っているのは最有力の推薦状だ。請願書に署名している人たちは、皆サンフランシスコで一番の著名人や実力者たちばかりだ。君が信用されるのはまず間違いないだろう。明日九時この書類を持ってここに来なさい。一緒に海軍長官に会って、私からもお願いしてあげよう」


 議員は海軍長官宛の推薦状を読みヒコに太鼓判を押した。

 ヒコは弾む心を押さえ押さえレーサム議員の館を去った。夜の十時を回っていた。


 意気揚々ホテルに引き上げる途中とある街角で、ヒコは銃を持った兵士に呼び止められた。

「止まれ! 何者だ?」

部外者の自分が疑われるはずはない。ヒコが立ち去りかけると兵士は再び叫んだ。

ヒコはすぐに辺りを見回した。ところが誰もいない。ヒコが怪しまれているのだ。

兵士は銃を構え今にも引き金を引きそうな気配である。

希望で膨らんでいたヒコの胸は急速にしぼんだ。

「待ってくれ! 私は味方だ!」

 ヒコは慌てて叫んだ。

間一髪だった。


 合衆国にやってきたのは一つには剣客の襲撃を免れるためである。にもかかわらず、再び危険な目に会うとは。こちらにきてから行く先々で歓待され、少し調子に乗りすぎていた。ヒコは浮かれず、身を引き締めなければならないのだった。


 ホテルに帰って主人に尋ねると、市内には戒厳令が敷かれ、午後九時以降は外出禁止になっているのだと教えてくれた。


 ベッドに入っても、ヒコのしぼんだ胸の膨らみはなかなかもとに戻らい。レーサム議員が太鼓判を押してくれた海軍倉庫委員の話に影が差したように思われた。



つづく



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