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57.第5章(試練)---刃の上(3)

57.第5章(試練)−−−刃の上(3)


 三月、ヒコたちの貿易業は開店一年を迎えたが業績は少しも振るわない。取り扱い物資は売り込み(輸出)は生糸が主で、茶がこれに注ぎ、引き取り(輸入)は綿糸・織物と砂糖であった。ヒコの店は国内担当の日本人一名と、外国担当のアメリカ人一名の三名で経営された。ヒコが全体を統括した。


 不振の原因は諸物価の急騰からくる経済の停滞であったが、ヒコ自身にも何分かは責任があった。両国言語が堪能で、輸出・輸入の中心的役割を果たすべき存在であるにもかかわらず事業に専念しなかった。いや、できなかったのだ。


ヒコは合衆国領事館の職を辞したあとも、井伊大老暗殺事件などで領事館のために奔走しなければならなかったし、そうでなければヒュースケン殺害事件など攘夷派過激分子による外国人襲撃に不安な日々を送っていた。一日として心の休まる日がなかった。


 ヒコたちは話し合った結果、それぞれ独立して店を持つことにした。まもなく幸運に恵まれ、ヒコの商館は隆盛し始めた。一人では手が回りかねていたところに、打ってつけの助け船が現れた。トーマス・トロイである。


 栄力丸仲間とサンフランシスコに滞在していたとき知り合い、香港まで帰って、再び渡米するあいだ互いの国の言語習得に励んだ。ヒコはトロイから英語を習い、トロイはヒコから日本語を習った。そして、いつか日本に行ってみたいといっていた、あのトーマス・トロイである。


 顧客と商談をしていたとき、突然に事務所のドアの開く音がして、誰かが入り口に立った。長身、太い眉、張った顎、濃い顎鬚。トロイである。


 ヒコは走って行って彼を迎えた。

 商談を急ぎ終わらせたヒコはトロイのほうに向き直り言った。


「神様は本当におられるのだね。このところ僕は眼が回るほど仕事が忙しくてね。昨夜も寝ながら、君のことを考えていたんだ。君がいてくれたら助かるだろうなと。僕の願いを神様が聞いてくださったんだ。よく来てくれたね」


「ヒコ。シスコでも君の活躍はよく伝わっているよ。カリフォルニアの商売人は、日本が開国をするのを長い間待ち望んでいたからね。日本の遣米使節団がサンフランシスコにやってきたとき、いよいよそのときがきたと地元の産業界は沸き立ったよ。そして君がまもなく領事館を辞めて、貿易業を始めたこと小耳に挟み、僕はチャンス到来と思い切ったんだ。きっと君の力になれると思ってね」


「もちろんだよ。英語と日本語のしゃべれる商人が二人もいるのだからね。鬼に金棒だよ」

 ヒコは再びトロイの手を握った。

 

 強力な味方を得てさらなる発展を約束されたかに見えたヒコの事業であったが、やがて暗い影が差す。1861(文久元)年五月、江戸のイギリス公使館が水戸浪士によって襲撃される。東禅寺事件である。


 イギリスは一度は江戸退却を決める。しかし合衆国は江戸に引き続き残ると知り、留まる。日本との外交で、合衆国に遅れをとることは許されなかった。


ヒュースケン殺害事件のあと、イギリス公使オルコックが、外国が足並みをそろえて横浜に移ろうと合衆国公使ハリスに提案したとき、自分たちは横浜には撤退しない、そうすれば長崎の出島にされる恐れがあるとの返書をハリスからもらっていた。


 オルコックは出張先の香港からの帰途、わざわざ長崎で下船し陸路江戸を目指す。条約の定める国内旅行権を主張するためである。新任イギリス公使館書記官・オリファント、長崎領事モリソン、オランダ総領事デ・ヴィットを伴う。


 浪士襲撃の大義は、夷狄が東海道を行くことは神州を汚すこということであった。幕府警固隊二百名が駐屯していたため、オリファントとモリソンを傷つけただけでオルコックは無事だった。


警備兵の奮闘で浪士三人を倒し、一人を捕らえ、三人に重傷を与えた。警固側は三人を失い、十数人を負傷させた。


なおこの事件は翌1862(文久二)年三月、両国の間で決着する。オルコックは警備兵の奮闘と幕府の犯人捕縛に一定の評価を下し、負傷したオリファントとモリソンに、それぞれ賠償金1万ドル(約4千万円)を支払い、幕府が責任をもって他の適当な場所に新たな公使館を建てることとなった。


ヒコは領事館からの知らせから、オルコック一行が江戸に向かう途中、富士山にも登ったということを知ったとき、ヒコは複雑な心持にならされた。日米の架け橋となって、いつの日か富士山のように聳えてみたいといつもヒコが胸に描いている。


一生を賭けて目指している霊峰である。その山を物見遊山で登山する。ヒコは土足で自分の庭に踏み込まれたような、嫌な気分になった。尊皇攘夷の思想がどことなく分かるような気がした。


ヒコはこの事件が起こる以前より神奈川、横浜の役人たちからたびたび警告を受けていた。


「浪人の一部に貴殿の命を狙っているものがおるやに聞きます。ですから、東海道筋はもちろん、居留地以外にもお出にならぬよう。乗馬を好まれるそうですが、たとえ馬でも遠乗りなど絶対になさらぬよう」


 ヒコも暗殺リストに加えられていた。


 始めはあまり意に介さなかったが、オルコックたちが襲われたと聞いたとき、ヒコは次は自分の番かもしれないと思った。それほど親しくはないが、公使オルコックはヒコが上海にいたときから付き合いがあった。ハリスに領事館員として雇ってもらうよりも前からである。


 ヒコはしばらく日本を離れることにした。アメリカ滞在中に世話になった友人知人に再会し元気な姿をみせたかった。そしてできれば、ヴァン・リードが教えてくれた海軍倉庫監理官のポストを得たい。ヒコは少し前から考えていたことである。商売はトロイに任せることにした。


 海軍倉庫監理官とは、石炭、水、食料など、アメリカ軍艦用の必需物資を購入、保管するのを任務とした。補給物資を日本の商人から購入し、入港すればただちに積み込めるよう倉庫に貯蔵しておかなければならない。


しかし、係官が日本語の通じないアメリカ人であったため、作業にしばしば不手際や滞りが生じた。適正な価格で買い入れ、迅速に納入させることが難しかった。ヒコならそれが可能である。それに、海軍の制服を着ておれば、日本側役人とも対等な立場に立てた。


                                つづく




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