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56.第5章(試練)---刃の上(2)

56.第5章(試練)−−−刃の上(2)


 幕府の対外政策は更なる混乱を呈した。外国奉行の一人堀織部正は、対プロシア通商条約をめぐり筆頭老中安藤対馬守から叱責を受け、自害させられる。


 折衝役の堀はプロシアと半年にわたって通商条約を交渉していたが、使節オイレンブルクの強硬姿勢に屈し、条約適用範囲をプロシア国のみならず周辺同盟国30カ国にまで広げる案を受け入れる。しかし筆頭老中の安藤はこの案を却下し、プロシア一国との締結を厳命する。


 二人の鋭い対立はそれまでにも見られた。当時外国の商社が日本の小麦粉を買占め、中国に輸出し始めたため、国内の粉はもとより原料の小麦まで高騰し、国内の素麺業者に甚大な損害を与えていた。


 安藤は日本人商社に圧力をかけ、外国商社との小麦粉取引を中止させようとした。ところが、堀は粉類輸出禁止の条項は条約に明文化されてはいない。条約に反する行為は国家の重大な損失につながると強硬に反対した。


 安藤と堀がたずさわった対プロシア交渉が思わぬ形でヒコに関係してくる。

 アメリカ公使館付き秘書にH・ヒュースケンがいる。彼は父がオランダ人、母がアメリカ人で、自身はオランダ人であった。彼は合衆国官吏として勤めるいっぽう、イギリスの遣日使節J・エルギンやプロシア使節オイレンブルクの通訳としても働いていた。


 ヒコも彼のことをよく知っていた。江戸見物に行ったときもヒコは彼に会った。

 ヒコが江戸の治安について尋ねたときヒュースケンは事も無げに答えた。


「私もいつも身の危険を感じています。この間も馬で散歩しいたところ、袖に衣文をつけた男が不意に腰の刀を抜いて、迫ってきて私を襲う仕草をしました。私は武器を持っていませんでしたので大人しく立ち去りました。辺りに人々がいましたが黙って見ているだけでした。


「オランダ領事と出かけたときは、真昼間でしたが、たくさんの日本人に寄ってたかって石を投げられました。それがね、投げたのは子どもじゃないんですよ。大人なんですよ。しかも、何百人といました。そしてすぐには許してくれませんでした。長い間やられました。ひどかったのは、役人が二人そばにいたのですが、黙って見ているだけでした」


 彼はそのあと、ハリス公使からも出かけるときは、万一に備えて武器を所持するよう言われているが、守っていない。大抵は虚仮脅しであろうし、こちらが武装すればかえって相手を刺激するだけだからであると暢気そうに言った。


 事実、彼は明朗快活な性分で、日本人の間に友人をたくさん持っていた。


 ところが彼の大らかさが裏目に出る。1861(万延元)年十二月五日、プロシアから頼まれ、日本との条約締結交渉に当たっていた彼は、プロシア公使館から馬で帰宅するところを闇討ちされる。


 彼は狩猟用の鞭のほかは防御するものは何一つ携帯していなかった。しかし仮にハリス公使の忠告をきき彼が、当時の外国人がよく所持していたように連発ピストルで武装していたとしても、暗闇では役立たなかっただろう。


 彼は相当な深手を負ったが、馬に拍車をかけ刺客の中を突破し、少し前方に逃げていた馬丁のところで下馬しようとして崩れ落ちた。腹部を深く抉られ、内臓がはみ出ていた。

    

 護衛の役人三人は襲撃を知るや、これを迎え撃たず、背を向けてその場を走り去った。そしてヒュースケンが血の海の中でのた打ち回り、息絶えて大分たってからやっと助太刀の役人を連れて現れた。


 ヒュースケンは事件に遭遇する前、ハリス宛の老中からの緊急要望について詳細を知っていたはずだから、彼が武装しなかったのはやはりあまりに不注意だった。


 要望書のかなで幕府は、水戸の浪士百名が横浜の居留地を焼き討ちし、同時に江戸の各国公使館を襲撃、館員を殺害するとの情報を握っているので、各国領事は、日本政府が保護がしやすい横浜に移り、かつ江戸の各国公使は治安が回復するまで、公使館を出て江戸城内に避難して欲しいと言った。


 ハリスはイギリス公使オルコックに伝えるためヒュースケンを派遣したのである。


 プロシア使節のオイレンブルクが、ヒュースケンの死体がおかれたヒュースケンの小さな私邸を訪ねると、すでにハリスがきており、死体に取りすがってすすり泣いていた。


「私は彼と二人きりで初めて江戸にきた。いらい五年間、私たちは気まずい思いをすることは一瞬タリともなく、睦みあいともに生活してきた。…彼を失った心の空虚さは一生埋まることはできないだろう。彼のご母堂がオランダで、一人息子の遠い異国での活躍を喜んでおられるという。ああ、私は彼のご母堂になんとお詫びしてよいやら…」


 ハリスは、しばらくしてオイレンブルクの姿を認めると涙でくしゃくしゃにした顔を上げ、途切れ途切れに無念さを吐露した。


 殺害の動機は不明であるし、幕府は下手人をあげようとする気配が一向に見られない。 合衆国以外の外国公使はきゅうきょ会議を開き、江戸からの撤退要求と浪士による脅迫・暗殺に対する抗議書を外国係閣老に送付した。


 幕府はぎゃくに開き直ったような対応をする。ヒュースケンの葬儀の日の朝、五カ国の代表が集まったところに幕府からの急使がやってきて、あえて墓地に向かおうとすれば途中で襲撃される恐れがあるとの警告を伝える。


 この場におよび各国公使は幕府の要望を受け江戸撤退を決める。イギリス公使オルコックは退去前、別途幕府に抗議の書簡を送る。オルコックは非常時におけるイギリス艦隊の保護を頼りに、神奈川および横浜に退去する。


 ハリスだけは自分の部下が受けた災害にもかかわらず、他国公使と異なった行動をとる。以後も江戸に留まる。ハリスはオルコックから幕府宛の抗議書の謄本を送付され、署名を要請されるが、合衆国がその会議に招待されなかったことと、その問題に対する見解の相違を理由に署名を辞退する。


 ハリスは〈外国使臣と同等の位置を日本政府にて有する役人は、士分従者数多を供なはざれば外出することなく…然るに今此等の日本人が其の身体を保護するより以外の方法を以って吾人を保護せよと要求するは正義に反する〉として幕府側に同情を示し、〈其遭難は一に氏が日本政府の再四の忠告を蔑視し、夜間に外出したるの軽挙に帰せざるべからず〉とむしろ責任はヒュースケンの側にあると断定する。


 また彼は、外交と貿易が混同されやすくなるという観点からも外国公使の横浜への移転に反対している。


 さらに彼は〈倫敦に於る陪審官は悦んで仏蘭西国皇帝に対する逆徒の無罪を宣言せしが、仏国公使館は審明の失錯を理由として、ドーバーを撤去せるを聞ざるなり〉と過去におけるイギリスの外交姿勢を当てこすり、またこれはフランスの国にも当てはまるとして、ナポリにおけるフランス公使の殴打事件に触れた。


 ナポリの繁華街で真昼間にフランス公使が殴られたとき、数百人の目撃者がいたにもかかわらず犯人が捕まらなかった。しかしフランス公使館はナポリ政府が犯人を捕縛しなかったからといって退去することはなかった。


 ヒコはヒュースケンを失ったときのハリスの悲しみようはドール領事から聞いた。そしてハリスのオルコックに対する返書は写しを読ませてもらった。


 ヒコは先般の江戸見物のときハリスがヒコに見せた子どもっぽさを思い出した。領事館を辞したヒコが館員の顔をして訪ねてきたことに不機嫌さをあらわにした。


 ヒコはこの写しを読んだとき同じ人間が書いたものとは信じられなかった。国を代表して異国にあるものの並々ならぬ決意と、いかなる艱難に直面しても失わない冷静さをヒコは公使T・ハリスのなかに感じた。今彼の身はヒコとは比べものにならないくらい鋭利な刃の上にあるに違いなかった。


 二十八歳の若さで非業の死を遂げたH・ヒュースケンの遺体は、南麻布の光林寺に埋葬された。外国人は退去させられ日本政府が弔ったため、外国人墓地には埋めようがなかった。光林寺が選ばれた理由は、イギリス公使館通訳伝吉の墓があったからである。彼も同じく刺客により惨殺されていた。


                                 つづく





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