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55.第5章(試練)---刃の上(1)

55.第5章(試練)−−−刃の上


 十一月九日、遣米使節団を乗せた合衆国軍艦ナイアガラ号が入港する。同年一月二十二日日本を発った使節団は、五月にワシントンでブキャナン大統領と謁見し、日米友好通商条約批准書を手渡したあと、東回り(ルアンダ〈アフリカ〉、喜望峰、バタビア〈現:ジャカルタ〉)で帰国したのである。


 ヒコは入港の知らせを聞くや直ちに赴き一行を出迎える。そして無事の帰還を祝福した。

 正使新見豊前守は開口一番、ナイアガラ号の艦長、士官などにくれぐれも礼を述べてくれと言った。


航海中一行は彼らから献身的な世話を受けたということだ。また、正使の名前で合衆国政府の関係者たちに感謝状を送ってくれとも頼んだ。現地では彼らは行く先々で歓待されていた。


 依頼を承知したあとヒコは彼にアメリカの国や人々を見てどう感じたかを尋ねた。

話すことが山ほどあるのだろう、しばらく宙の一点を見つめて思案しているふうであったが、やがて正使は持っていた扇子で膝を打った。


「とにかく、賑やかな国であった。あちらの言葉ではカンガレスといって国の重要な案件を評定する所らしいが、その評定のうるさいことといったらなかった。江戸城内の荘重なる空気とは大違い。喧騒のきわみであったのう。まるで日本橋の魚河岸と変わらなかった。」


「そういう評定者等は国中の人間から選ばれたというから、その評定者を選んだ町の連中もまたそれに輪をかけて騒々しい。大統領閣下等と都を行進をしたときは、沿道は黒山の人だかりであった。わが国では平民は道端に畏まり平伏するのだが、あちらは違う。大騒ぎ、浅草の祭りも凌ぐほどじゃ。余等が乗っておる馬車に殺到し、覗き込む、と思えば、後ろから徒歩で付き従う家来どもに近寄り、髷や裃に触るのだからのう。日本では無礼至極、直ちに手打ちにいたすところだが」


 ヒコは正使の話に、漂流直後のことを思い出し笑みを浮かべた。

 サンフランシスコに上陸した栄力丸乗組員たちは地元政財界人主催の舞踏会に招待された。彼等は正装を要求され、羽織袴姿で出かけた。シスコの町を会場へと向かう沿道には珍しがり屋が人垣を築いた。


 舞踏会場ではステージに座らされ、見世物にされた。舞踏の最中は髷や裃をいじくられた。もっとも髪型については、ヒコともう一人はすでに髷を落とし洋風に結っていた。


「あちらの瓦版はご覧になりましたか。貴方が先ほどおっしゃった評定者を選ぶときには、なくてはならないものなのですが」


「ああ見た、見たぞ。余等の行進につて書いておるのを見た。活写機と申す魔法のごとき機械があって、余等の行進の絵を載せておったのう。活写機といえば、日本人をよほど礼を重んじる人間と心得たものとみえ、余等の前で家来どもが土下座をする絵を載せたものもあった。ハハハ」


 ヒコは正使がニュースペーパーの働きについては深くは理解していないと思った。また、家来に土下座させ、悦に入っていたに違いない正使たちの姿を想像すると、ヒコは日米両国における人々と指導者との違いを今更のように感じた。


 用事を終えたヒコが別れを告げようとすると、正使の新見豊前守はヒコを慌てて呼び止めた。

「漂流民を一人連れ帰っておるが、どうですか、会ってみられるか」

 彼はヒコが返事をする前にすでに家来に連れてくるよう目顔で指示した。


 漂流民はまもなく連れてこられたが、その顔を見てヒコは驚いた。栄力丸仲間の一人亀蔵。次作とともにサンフランシスコで船に乗っていた亀蔵であった。


 ヒコがブルック艦長の観測船フェニモア・クーパー号で、サンフランシスコを発つとき見送ってくれたのは確か一昨年。隔てる年月はわずか二年なのに、何たる彼の変わりよう。ひげは伸び放題、両の瞳に光なく、口は半開きで、記憶喪失者のように見える。


「おおお(めえ)…ひヒコか。…ワワワシ、かかか亀じゃ」


 亀蔵は記憶は失ってはいなかった。しかし、日本語をほとんど忘れている。シスコで別れたときは英語とのちゃんぽんながら、話が通じた。


 眼の前の亀蔵はあのときの比でない。ひどい。身振り手振りで、懸命に何かを訴えようとして、しかし、言葉が出てこないのだろう。その都度顔を歪ませたり引きつらせたりしている。

 ヒコはあまりに痛々しくてただ頷き見ているだけである。


 正使の話では亀蔵は帰国のため、サンフランシスコから香港に行き、日本行きの船舶を探していたところ、帰国途上の使節団が入港するとの情報を聞き、処罰覚悟で乗船を頼み込み、許された。


「これは私の昔の仲間で亀蔵と申すものです。今後のことは、どうぞよろしく取り計らってやってください。生まれは確か芸州の小島のはずです」


「心得ております。漂流民のなかにはすっかり欧風に染まったものもおるやに聞きます。それに比べましたら、この男は誠に殊勝なる心がけの人物と存ずる。なにしろ長いあいだ異国に住んでいたにもかかわらず、日本の心を守り通したのですからな」


 ヒコが亀蔵の善処を正使にたのんだとき、彼は片頬に笑みを浮かべ答えた。

 アメリカ国籍を取り、キリスト教に改宗したヒコに対する明らかな当てこすりである。

 

 十二月五日、イギリス領事館が居留民向けに告示を発した。告示は概略次のような内容である。

外国人居留者は条約で特権的に認められたこと以外は、日本国の法律を遵法し行動しなければならない。また居留イギリス人の日常における銃携帯は、開国地の外国人に対する反感の高まりを考慮して、厳禁する。もし、いかなる武器といえども、日中持ち歩いたものに対しては領事の名の下に、罰金禁錮の刑に処する。


 この告示は、居留イギリス人モースが銃で狩猟をしたことが発端である。彼は奉行所に呼び出され取調べを受けた。ヒコは審問における援助をヴァイス領事から依頼される。日本人証人取調べに対して奉行所側からの脅迫がないか注意しておいて欲しいというのである。二日間立ち会ったが、問題はなかった。


 告示はまた乗馬についても触れた。外国人のみならず、彼らの雇い人である中国人たちが、居留地外で馬を乗り回し、一般市民に危害を加える事件が多発していた。


 日常時どき馬に乗るヒコは、自分も引き起こしそうな事件だと冷やりとした。先日も、フランス人宣教師ジラール氏と、江戸から横浜まで東海道をはるばる馬でもどってきた。ヒコはアメリカ国籍であることが自分をいかに助けているかを実感した。


 しかし、亀蔵の善処を要望したときの正使新見豊前守の返答、そしてイギリス領事館の発した告示。ヒコは今鋭い刃の真上に立たされているようなものなのだった。


                                つづく






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