54.第5章(試練)---なごみ
54.第5章(試練)−−−なごみ
四月にも外国人暗殺事件が起きる。被害者は横浜港停泊中のオランダ商船の船長二名である。日暮れ近くに二人で居留地を歩いていたところ、やにわに背後から斬りつけられた。即死であった。一人は片腕を切断され、死体とは一町(109m)ほど隔たったところに落ちていたという。犯人は逃走中である。
横浜が賑わうにしたがって居留地の外国人は攘夷派からの襲撃にさらされやすくなっている。中国に商館をかまえていた外国の商社が次々と進出してきた。幕府も三年間税金を免除して貿易を奨励しため、日本各地からも移住者がやってきている。しかしやってくる日本人はほとんどが投機業者か無頼漢である。
まもなく各国神奈川領事団より、横浜居留地の土地所有に関する法律が発布される。予想をはるかに上回る外国人移住者の増え方に、施行が急がれていたものだ。土地の取得方法、取得者の資格、借地料、借地権譲渡、街路の照明と警備、酒精・酒類の販売、料亭の開設、罰則など十二項目にわたっている。
四月四日、合衆国の独立記念日には緊張したヒコの心をなごませる出来事が起こる。記念日の前日、一人の居留地在住アメリカ人が領事館をたずね、他国並みに記念日には国旗を掲げさせて欲しいと申し入れた。ドール領事は、一般居留人は領事の許可なくしては掲げることは出来ない、もし無許可で掲げれば、自ら出向いて撤去すると語気鋭く言い放った。
自宅にもどったそのアメリカ人は、同郷の隣人たちに領事の意地っ張りな対応のことを話すと、それなら、こちらも意地を通して領事に対抗しよう。各戸に国旗を掲げ、果たして領事が撤去にくるかどうか試して見ようということになった。
彼らはその夜、きゅうきょ日本人の仕立て屋に米国国旗を縫わせ、夜明けとともにいっせいに掲げる。しかし、ドール領事は姿を見せなかったどころか、代わりの領事館員さえ派遣しなかった。
十月二十五日、米国軍艦ハートフォールド号がやってきて、同艦で江戸旅行をしたときも面白い出来事があった。
ドール領事がハートフォールド号の艦長と士官たちを招き舞踏会を催した。在留外国人とともにヒコも招かれた。婦人は少なかったが、なかにイギリスの婦人が二名、アメリカ人伝道師の夫人が三、四名いた。これは神奈川における最初の舞踏会となる。
ハートフォールド号は翌日江戸に向け発つ。江戸見物を希望する在留アメリカ人は無料招待される。多くの居留地商売人は店を閉め、参加する。ヒコも米国人の友達ホール氏とともに加わる。
江戸でヒコたちはハリス公使を訪ねるが、歓迎されない。ヒコがすでに領事館を辞めているからである。書記官から馬を借り、市中を見物する。公使館は護衛を付けてくれる。
数日後イギリス公使を訪問しての帰りに、旧友のジラール神父を訪ねる。琉球での生活が長く琉球語の達者な彼は、開港とともに横浜にきてカトリックの教会を建てた。今は江戸のフランス公使館近くに住んでいる。
彼はヒコたちを歓迎して、ゆっくりしていくよう言う。船の出帆が迫っていたが、ヒコたちは言葉に甘え一晩泊まり、江戸見物を続けることにした。
まだ日が高いので、ヒコたちは出かけ深川で昼食を料亭で取る。煮魚、刺身、鶏卵、米飯、野菜、果物の献立だ。勘定は二分三朱(4〜5万円:1ドル以下)だったのには驚いた。ヒコたち二人のほかに護衛官二人、馬丁四人、さらに馬四頭まで飼葉を食べさせてのこの値段であるから、勘定抜きの安さといってよい。
ヒコたちはチップとして二朱金(4000円)一枚を主人に与えた。主人は喜んで再三お辞儀をした。見送る女中たちの声が明るく元気よく、まことに満足な食事であった。
その日の夜、ヒコたちの荷物がハートフォールド号から届く。
翌日見物からの帰り、ヒコたちは合衆国公使館に向かうイギリス公使一行に出会い、ハートフォールド号から下りて、ジラール邸に滞在していることを告げたところ、それがすぐハリス公使の知るところとなり、ハリスは直ちに幕府役人に連絡して、何故無許可で下りたか調べて欲しいと要望する。
直ちに幕府役人がジラール邸にやってきて、応対に出たジラールにアメリカ公使館の意向を伝えた。
合衆国が派遣した船に乗っていたのであるから、合衆国の許可なしに行動するのは法規違反ということらしい。
ジラール宣教師は、ヒコたち米国人の方々が江戸見物を満足にしないうちに船が出てしまい、ほかに宿泊するホテルもなく困っておられたので、貴方の国の人たちのために、泊めてあげたのです、そういうふうにハリス公使にお伝え願いたいと日本人役人に答えた。
神父は辞去する役人に向かってさらに言った。
「ハリス公使に会われたら、くれぐれもお伝え願いたい。私の国の人間がいつか江戸で、ヒコ殿たちと同じような目にあったときには、どうかアメリカ公使館のほうで世話をしてやって欲しいと」
ヒコとホール氏はその後しばらくジラール邸にいたが、ハリス公使からは何の連絡もなかった。嫉妬深いハリスのことだから、ジラール神父とヒコたちに意地悪をしたかったに違いない、ヒコとホールは評し合った。
逗留が長引けば宣教師に迷惑をかける。ヒコたちが翌朝、帰りたいので騎馬と護衛の提供して欲しいと神父に頼んだところ、彼も横浜に用事があるといって、同行してくれた。
ドール領事の嫌がらせ。ハリス公使の意地悪。国の代表者。公使と領事。彼らにも案外子供っぽいところがあるものだ、馬の背に揺られながらヒコは可笑しく思った。
つづく