52.第5章(試練)---咸臨丸と万次郎
52.第5章(試練)−−−咸臨丸と万次郎
一月の下旬、日米修好通商条約批准の遣米使節団を乗せる軍艦ポーハタン号が横浜港に入港した。護衛艦の咸臨丸はすでに投錨している。J・ブルック艦長は、使節団の水先案内役を申し出た。
彼は日本到着後、台風で観測船フェニモア・クーパー号を座礁させ、船を失っていた。帰国の便を探していたブルックにはポーハタン号はまさに渡りに船だった。幕府は彼の希望を快く受け入れ案内を頼む。
ヒコは神奈川奉行の要請によりブルック艦長と日本側の航海の打合せに奔走する。ブルックの任務はポーハタン号の護衛艦・咸臨丸を指揮することである。もっとも護衛艦とは名目で、実際は日本人の航海技術を磨く練習船であった。
排水量650トンの咸臨丸は全長49・7m、全幅7・3m、三本マストの蒸気(100馬力)帆船で、1857年就役したばかりのわが国最初のスクリュー付軍艦であった。速度は6ノット(時速10km)、砲12門を備えていた。
ブルック艦長は日本を去るに際し、阿波の漂流民政吉、通称ティムを奉行所に引き渡した。政吉はヒコがまだブルック艦長の船に乗っていた時分に、ハワイで出会った阿波出身の漂流民で、故国まで乗せて帰ってくれるようブルック艦長に頼んだ男である。ヒコはその後クーパー号を下りたが、政吉は引き続き、帰国してからもブルックの下で働いていた。
ブルックは政吉の献身的な働きの謝礼にメキシコ銀280ドルを与え、政吉の今後の安全を保障してくれるよう奉行に要望する。奉行は善処を約束する。政吉は奉行所に四日間預けられたあと江戸の阿波侯に引き渡され、漂流に至った経過など吟味を受ける。数ヶ月を経て政吉は苗字(天毛〈ティムから〉)帯刀を許され、扶持までもらって故郷に錦を飾る。
二月三日、ブルック艦長を連れて出頭するよう奉行所からヒコに連絡がある。二人して行ってみると、引率案内に対する幕府からブルック艦長への謝礼であるといって、白木の台に白鞘の短刀一口と繍箔絹三巻を載せて差し出された。ブルック艦長はありがたく受け取った。
二月十三日は日本の歴史にとって記念すべき日となる。日米友好通商条約の批准書を携えた遣米使節団がアメリカに向け出発する日である。旗艦ポーハタン号には正使・新見豊前守正興と副使、村垣淡路守範正、目付小栗豊後守、下役人と通訳15人、以下召使いを含め総勢74名が乗り、護衛艦咸臨丸には海軍奉行の木村摂津守、その従者・福沢諭吉、艦長の勝麟太郎、事務の中浜万次郎など日本人水夫が乗り込んだ。
使節団が江戸品川沖を離れる日、ヒコは領事の命により通訳の助けをする。咸臨丸船上でブルック大尉に別れの挨拶をしたとき、ヒコは海軍奉行の木村摂津守、艦長の勝麟太郎、事務係の中浜万次郎を紹介された。ヒコは万次郎とは目礼を交わしただけであった。
ヒコは万次郎のことは知っていた。自分と同様数奇な運命をたどった先人がいて、幕府の対米外交を助けていることは機会あるたびに聞かされていた。しかしヒコは居留地に住むアメリカの領事館員。万次郎は幕府の帷幄側近の人物。二人が簡単に会えるわけはなかった。
ヒコは年齢では劣っているが、欧米の知識では自分のほうが勝っていると自負していた。こちらから会いに行きたいとは思わなかった。
万次郎は肌浅黒く顎の張った眼光鋭い人物だ。自分からは語りかけず、控えめで寡黙な人柄に見える。政府の役人というより、鍛冶屋か何かの職人の一徹なふうを漂わせた。彼が捕鯨船に乗っていたというから、きっとそのためであろう。
万次郎の英語はすばらしかった。船乗りや水兵たちの使う俗語でなく、きれいな正当の英語を話した。これは彼がアメリカで教育を受けた結果に違いない。もっとも丁髷に佩剣・羽織袴の人間が異国語を話す風景は珍妙ではあった。
ヒコは一行のたどるであろう旅程が想像できる。ホノルル経由サンフランシスコに到着後、船を乗り換えパナマに向かう。列車でパナマを横切り、さらに船でニューヨークへ。ニューヨークからは再び陸蒸気でワシントンへ。そしてホワイトハウスで大統領に謁見する。
シスコやニューヨークの町の繁華さに眼を見張り、陸蒸気、ガス灯、電信機などにはたまげるだろう。マンハッタンのメトロポリタン・ホテルの豪華さには度肝を抜かされ、ホワイトハウスの神々しさには言葉を失うに違いない。
ニュースペーパーの存在はどのように映るだろう。指導者を選んだり、国を一つにまとめたりするのに欠かせない制度であることを理解するだろうか。
それはともかく、遠洋航海が初めてのものに、果たして太平洋が無事に乗り切れるだろうか。難破したときではあるが、栄力丸の仲間とともに内臓が飛び出るほど反吐を吐いた。最近では、帰国途中ブルック艦長のフェニモア・クーパー号でどうしようもないほどの船酔いに襲われた。船旅には慣れていたはずなのに、である。
ポーハタン号より一回りも二回りも小さな咸臨丸の船体が遠ざかって行くのを見ながら、ヒコは一行の前途を思いやった。
遣米使節団はヒコの想像したコースをたどり、ワシントンでブキャナン大統領に謁見して批准書を手渡したあと、大西洋・アフリカ・インド洋経由で帰国する。全行程て九ヶ月を要した。太平洋横断は初めてで遠洋航海に不慣れな日本人水夫には堪えたのだろう、アメリカ到着までに三名が病死した。彼らの遺骸はサンフランシスコで葬られた。
〈咸臨丸の操縦はアメリカの手はまったく借りなかった〉というふうなことを福沢諭吉は自伝に記しているが、これが事実からは程遠かったことが、後世の研究によって明らかにされている。案内を勤めたJ・ブルック大尉によると、日本人水夫は遠洋航海に未熟なうえ、ひどい船酔いにやられまったく使いものにならなかったらしい。
嘘は方便。日本人のナショナリズムを掻き立てるための方便だったと言われているが、その後の歴史を振り返れば嘘はやはり罪のようである。
遣米使節団派遣援助に忙殺されていたヒコは、彼らを送り出してしまうと不安が再び頭をもたげた。身の危険である。急進派から命を狙われている。眼をつむると鮮やかに思い浮かぶ。燭台の灯りに不気味に浮かび上がった、ロシア人見習い士官のはらわたが。
ヒコの様子に気付いたヴァン・リードがヒコを慰める。
「岩吉は本当に気の毒だった。しかし、大きな変革がある時は犠牲者は付きものだよ。それに我々領事館員は全力で君を守るよ。心配するな、ヒコ」
「そうは言っても、岩吉は昔の仲間だ。共に遭難し、滞在先こそ違ったが、異国で苦労をしたんだよ。僕自身が刃でぐさりと刺された気持だ。毎日仕事の行き帰りには、冷や冷やのし通しだ。いつ襲われるか分からないからね」
「大丈夫だよ、ヒコ。居留地は出入りが厳しく取り締まられているから、安全だよ。君は我々にとってかけがえのない人物なんだ。君はアメリカと日本の架け橋になるんだからね。元気を出せ。ヒコ」
「君が慰たり励ましたりしてくれるのは本当にうれしい。…でも、僕のアメリカでの九年は、一体何だったんだ。僕が苦労して英語を学び、外国の技術を身に付けたのは、日本に帰って役立てるためだった。祖国の人間から毛嫌いされたり、命を狙われたりするためなどではない」
欧米の進んだ文明を紹介し、近代日本の建設に命を捧げよう。政府から登用の話があれば応じよう。わが国を開国させることは、サンダース氏やJ・ブルック大尉をはじめ、滞米中に種々の親切と助力を施してくれたアメリカの人々の恩に報いることにもなるのだ。
相模の海を行くミシシッピー号艦上から富士を見上げて誓ったのはつい先般のことである。夢が早くも色あせ始めた。
ヒコの気持を挫く原因としてドール領事の存在があった。ブルック大尉を招待したときに受けた侮辱は忘れていない。いやむしろ日を重ねるにつれ強まった。仕事で彼がヒコに対して紳士的であればあるほど彼が憎らしくなった。あの紳士面を一皮剥げば、冷酷な野獣の顔があるに違いない。彼の下で働くのはもう遠慮したい。
両国の架け橋になるのは別に外交の場でなくてもよい。貿易業も欧米のものを紹介する有力な手段である。サンダースの事業倒産のあと、サンフランシスコのマコンダリー商会で身に付けた実務経験がそのまま役に立てられる。役人としてではなくとも、一商人として、一人の市民として、日本とアメリカの間に架橋を渡すことができる。
もちろん闇雲に事業は始められない。ヒコには確実な見通しがあった。ヒコに横浜での商館開業を打診する人が現れたのだ。昨年の十月、サンフランシスコから到着した乗客の一人がヒコを訪ねてきた。名をG・ケイといった。彼はヒコの知り合い・マコンダリー紹介のT・C・ケリーからの紹介状を携えていた。
彼はヒコに横浜での貿易会社設立の話を持ちかけた。シスコにある彼の会社の製品を専門に扱う店である。したがって必要な資本、設備、物資などすべて彼が支給する。ヒコは開店後に勤めるだけでよい。利益は折半する。シスコには資金の豊富な商売上の知己が多くあり、破産の心配はない。開国直後だから、外国の商品は飛ぶように売れるに違いない。
当時の横浜は、諸外国の商館が軒をつらね、活気にあふれていた。貿易量は長崎をしのぐ勢いであり、その活況はヒコが目撃したゴールド・ラッシュに沸くシスコの町を思い起こさせた。
領事館の給料はさほどよくないし、雇用期限の心配がある。それにドール領事とはどうも反りが合わない。
彼の乗る船が帰りの荷物の積載を終え、ケイが日本を離れるときに彼は、ヒコの考えを聞くため、再びヒコのところにやってきた。ヒコは迷わず契約書にサインをした。会社設立予定は翌年三月となっていた。
つづく