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51.第5章(試練)---凶刃(2)

51.第5章(試練)−−−凶刃(2)



 ヒコの知り合いに地元の雑貨商がいる。彼とはドール領事が縮緬と絹を購入した関係で懇意になった。彼はヒコの経歴に大変関心を示し、さぞ異国の生活は不自由だっただろうと同情した。ロシア人殺傷事件の余燼が収まったころだった。


ヒコは十年近く住んでいると異国の生活にもすっかり慣れて、むしろ帰国してからのほうが戸惑うことが多いと答えたあと、今困っていることと言えば水風呂にしか入れないことだと付け加えた。


業者が怪訝な顔をしているのでヒコはさらに説明を加えた。


「領事館の風呂を使っていますが湯が沸かせないのです。日本式の風呂は西欧人はどうも苦手なようで、私が湯を沸かすというと大変嫌がります。水を浴びるだけで十分だろうと言われます。風呂だけは、温かいものでないといけません」


「どんなことかと存じましたら、そんなことですか」彼は拍子抜けしたと言わんばかりに眼元を緩めた「それでしたら、手前どもの風呂をお使いください。狭い家ながら、ちゃんとした風呂場がございます。いつでもおいでになって結構でございます。おっしゃっていただければ用意してお待ちいたしております」


雑貨商は気安くヒコにすすめる。


ヒコは早速彼の好意に甘えて、次の日雑貨商の家を訪れた。すると先客が一人あった。見ると奉行所の役人で、ヒコも顔なじみである。


彼はヒコの顔を見るや急くようにして口を開いた。

「奉行所の命令により貴殿の警護に参りました。貴公は今はアメリカ人でいらっしゃるが、もとはまことの日本人。その日本人を守るというのは、杞憂の感は否めませぬが、規則ですから致し方ござらぬ」

 最後は作り笑いをした。


 言われたとたんヒコはまさかと思った。しかし、その通りだ。攘夷を叫ぶ人々から見れば自分も神州を侵す外国人。夷荻の手先である。ロシア人士官殺戮事件を他人事のように考えていた自分はじつにお目出度い。いつ自分に起こってもおかしくないのだ。


 何十年振りかの五右衛門風呂。ヒコは熱い湯に全身を浸しながらも、体の芯はいつまでたっても暖まらない。


眼を閉じて立ち昇る湯気をひげの間に這わせていると、ヒコは領事館を開いてまもなくのころの出来事がふっと思い出された。神奈川奉行とヒコたちが互いの饗応に招待しあったときのことだった。


初めはアメリカ側が神奈川奉行を招いた。主だった奉行七人が列席した。七人のなかに今護衛についてくれている役人もいた。彼らは初めての整理用料理に鼻をつまみ戸惑うだろうと思いのほか、迷わず口に運び舌鼓を打った。


さすがにナイフとフォークには手を焼いていたが、ヒコたちが手本を示すと曲がりなりにも器用に使いこなした。七人が七人とも全部である。あのときヒコは、日本人は新しいものを取り入れるのに何と巧みであるかに感心した。


何日かして今度は奉行所が返礼の晩餐会に領事とヒコを招いた。領事は駕籠に乗りヒコは馬に跨った。領事は大柄なため特別仕立ての駕籠を用意され、六人がかりで担いだ。領事が乗り込むとき亀のように首をすくめたのは滑稽だった。


召使の源蔵と二名の下男が徒歩で付き従った。源蔵は護衛をかねるため刀を持つよう言われたが、怖がって手も触れられない。領事が叱ったので、彼はしぶしぶ一番短い刀を選んで腰に挿した。もっとも彼の佩剣の模様を見れば、歩行と腰つきがばらばらで、まことに頼りなげである。源蔵が駕籠の前を行き、下僕二人が左右をかため、ヒコが馬で後ろに付いた。


巨大な駕籠。俄か造りの侍。馬に跨る洋装の男。野毛山にある奉行の私邸まで、ヒコたちの行く沿道には人々が群がり集まった。


到着して入ると式台のところで侍が取り次ぎ、領事とヒコを別室に通す。そこには主だった役人が羽織袴に威儀をただし、居並び出迎え、慇懃に挨拶をする。彼らによれば、奉行の私邸に招かれる外国人はヒコたちが最初らしい。


そのあと応接室に案内され主人である奉行の形ばかりの、しかし長々とした挨拶を受けた。茶と菓子が出されてしばらくして、準備が整ったとのことで、宴会の部屋に通された。そして驚いた。


料理が西洋料理なのだ。幕府の代理が外国の代表を招待するのだから、純日本式だと思っていた。もっとも並べられているのはテーブルでなく膳と盆ではある。しかしナイフ、フォーク、スプーンが添えられ、献立の中身はすべて欧風にしつらえてある。生ものの刺身は別にして、スープ、煮魚、焼き魚、焼き鶏、焼き卵などである。給仕はすべて男子で、羽織袴に正装している。今護衛に来てくれている男は給仕の一人だった。


ヒコたち一行は歓を尽くして辞去した。


ドール領事の体格に合わせて駕籠を用意した彼らの手際のよさ。知らないはずの西洋料理を万端整えた彼らの周到さ。帰りの馬上でヒコは日本人の勤勉さに感心した。そして日本が生まれ変わるのにはそれほど時間はかからないのかもしれないと喜んだのだった。


ところが、ロシア人士官と水兵の殺傷事件。そしてこの自分にも警備が付けられた。あの警護の男によれば、奉行所の決まりらしいが、決まりということはそういう不穏な動きをするものがうろついているということだ。さらに手は下さないが、彼らをかばう人々は数多くいるに違いない。


〈西洋との架け橋? 命を賭ける自信が果たして自分にあるのだろうか〉

 湯につかりながらヒコは考えるのだった。


翌1860(万延元)年1月。ぐらつくヒコの心に拍車をかけるような衝撃的な事件がやがて起こる。栄力丸漂流民仲間の一人、イギリス領事館で働くダン・岩吉が、公使館代わりの東禅寺の前で攘夷派の浪人に殺害された。


殺され方が無残極まりなかった。子供と遊んでいる彼の背後から鋭いあいくちを打ち込み、止めを刺すため凶器を抉り回していた。岩吉は大声で助けを求め、血潮を噴き出させながら公使館入り口まで這っていった。館員はなすすべなく、岩吉は数分後に息絶えた。


 事件の一週間ほど前に神奈川奉行は公使のオルコックを江戸の公使館に訪ね、岩吉が狙われているようだから、彼を当分の間横浜の領事館に預けておくよう忠告したが、公使は岩吉はイギリス国旗の下で働くもの。保護はこちらで責任を持ってやると断ったとのことだ。


岩吉が外国公館職員として尊大な言動が目立ち、常より日本人の反感をかっていたとはいえ、ヒコ自身も外国のために働く人間である。ヒコは今更ながら、自分のおかれた立場の微妙さ怖さを思い知らされた。攘夷派から見れば自分も夷狄の国の走狗である。


ヒコは鋭利な刃物を喉元に突き付けられた思いであった。


つづく



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