50.第5章(試練)---凶刃(1)
50.第5章(試練)−−−凶刃(1)
ドール領事に侮辱をうけて二十日ほどたった八月二十一日、神奈川奉行・酒井隠岐守と水野筑後守がドール領事を晩餐に招いた。もちろんヒコもいっしょである。ヒコが見たこともないような山海の珍味を取り揃えたご馳走であった。酒もふんだんに振舞われた。
宴会中ドール領事は始終上機嫌で、奉行たちがヒコの通訳の見事さに感心すると、彼は〈自分もそう思う〉とさも満足げにうなずき、ヒコの肩を叩くのだった。先日ヒコに見せた凶暴さがまるで嘘のようであった。
ヒコは合衆国以外の国のためにも尽力する。ヒコがドール領事に罵倒されてまもなくの頃だった。ロシアのシベリア総督ムラヴィヨフが、樺太全島の領有を日本に承認させるため江戸品川沖にやってきた。
1855(安政元)年、日本とロシアは日露和親条約において北方領土の帰属を決定したとき、樺太に関しては国境は設けず両国民混住の地と定められた。ところがロシア側は囚人を送り込んだり軍隊を駐留させたりしたが、日本側は幕末維新の騒乱などで手が回らず、樺太に対する支援が十分行われなかった。そのため、両国住民同士の争いが絶えなかった。
ムラヴィヨフ提督に随行してきた艦の士官一名と兵曹三名、がその日の夕刻、買い物をするため横浜の居留地を訪れた。そして彼らが用を足し帰り掛けたとき、一人の日本人がいきなり刀を振りかざし一行に襲い掛かった。一人は即死で他は重傷をおった。攘夷運動家による最初の外国人殺傷事件である。
神奈川奉行から連絡をもらったヒコたちは直ちに現場へ急いだ。死傷者はすでにブルック艦長の仮宿舎に運び去られていた。しかし血糊がべっとりと路上につき凄惨な状況を思わせる。殺されたのは見習い士官で、彼は背後からの一太刀で仕留められていた。暗殺者は相当な使い手だろうとのことだった。
後ろからでも死体からはらわたがはみ出ているのが見える。血は止まっており、内臓が燭台の灯に不気味に光っていた。ヒコはアメリカにいるときしばしば日本人武士の切腹について質問されたことを思い出した。
負傷者三名は頭や腕を斬られていた。うち一命は傷が深く出血がひどかった。開港されたばかりの横浜には外国人の専門医はいない。ウォルシュ商会のホールに多少の心得があり、彼が応急の手当てをした。
事件を聞きつけたムラヴィヨフは品川沖に停泊する旗艦からコルヴェット艦で駆けつけた。奉行所は下手人逮捕に努めるが犯人は逃走してしまう。居留地の外国人たちは恐れおののき、身辺警護について語り合った。
八月五日、提督指揮のもと士官の葬儀が行われた。ロシア海兵隊による軍式葬儀である。各国領事とその館員、外国居留民などが参列した。この見習士官の遺体の葬られた場所が後に外国人墓地になる。
提督は日本側も列席するよう要求するが、奉行所は日本の習俗慣行に沿わないから、代理人で勘弁願いたいと断る。しかし提督は弁解を一切受け付けない。必ず奉行自身が参列するよう厳しく迫る。仕方なく奉行一人が十二人の下級役人を従え列席した。行列では彼らはロシア兵たちから少し距離をたもち粛々と行進した。
ムラヴィヨフが会葬への謝意を表すためアメリカ領事館を訪れたとき、ドール領事は犯人は捕まったのかどうかを尋ねた。提督は残念そうに首を振った。
「言葉が通じないのです。こちらには日本語をしゃべるものはいませんし、あちらもロシア語をしゃべるものがいません。奉行たちと度々会談を持つのですが、まったく話がすすまないのです」
「それは彼らの外交のやり方にも原因があると思います。彼らは統一した方針のもとに物事を進めるということをしません。それに多くの場合、口で言っていることと腹で考えていることが違います。いくら言葉が分からないといっても、誠意があれば少しぐらいは通じますよ。我々も彼らののらりくらり戦法にはうんざりしています」
ドール領事が同情した。
各種条約締結においてロシアの先発組である米英仏諸国の関係者のあいだでは、幕府の外交政策における優柔不断と面従腹背ぶりは広く知られていた。
ドール領事は、もしよければヒコを通訳として使ってもらってよいと申し出た。ムラヴィヨフは願ってもないと言って受け入れた。
ヒコは血なまぐさい事件に担ぎ出されるのは本意でない。しかしこれも日本の開国にとっては必要なことかもしれない。ヒコは協力を約束した。
二日後神奈川奉行所で日本とロシアの話し合いが行われた。
「日本政府は、本気で犯人を捕らえようとしておられるのか」
寒暄の挨拶が終わるのもそこそこに、ラヴィヨフが口を開いた。
ドールの忠告で日本側に不信感を抱いていたロシア側は、ヒコに幕府当局の本心を探って欲しいと依頼していた。英語フランス語に通じ、日本語も多少話すロシア側の通訳がムラヴィヨフの言葉をヒコに伝え、ヒコがそれを日本側に伝える。
「それは間違いござらぬ。本邦人が貴国の人間を殺傷したとの報に接し、直ちに捕吏に命じ下手人の捕獲に走らせたのだが、手遅れでござった。しかし、血糊のついた刀の刃の破片と、絹羽織の切れ端がその場に残されており、それらを回収いたしております。また、吉田橋のたもとで拾ったと申して、貨幣の入った錫の箱を届け出たものがおります。下手人が逃げるときに懐より取り落としたものだとその者が申しました」
日本側は水野筑後守が答えた。
言い終わると彼は遺留品を持ってこさせ机上に並べた。
ヒコは通訳をしたあとでテーブルを指差しながら言った。
「この証拠物件をご覧下さい。日本政府が真剣であることは間違いありません」
ムラヴィヨフは長さ一尺ばかりの折れた刀の刃先と、返り血を浴びたと思われる血痕のついた鳶色の羽織の切れ端を交互に見入った。錫の箱は奉行所の役人が蓋をあけ中身を取り出した。ロシアの銀貨が数枚入っていた。
「日本政府は一日も早く解決しようと懸命になっています」
ヒコはムラヴィヨフに伝えた。
さらに数日後、ヒコはロシア艦艇に招請された。
ヒコが行くと日本側の奉行が六人の役人を従えて来ており、着席している。
まもなく日本を離れなければならないロシア側が、殺傷事件のその後の報告を受けるため奉行を呼んだとのことだった。しかし、奉行は全力を尽くしているがいまだ逮捕には至っていないと力なく答えた。
会談のあと、奉行とヒコたちは昼食の饗応を受ける。純ロシア式の料理でヒコには初めてであった。料理のなかにニンニクと黒パンが入っており、提督は健康に大変よいと勧めてくれたが、ヒコは気味が悪くて遠慮した。他の料理はこの上なく美味であった。
奉行たちが艦を去ったあと、提督はヒコに日本側は果たして事件解決に本気かどうか再度尋ねた。ヒコが間違いないと確約すると、提督は、奉行たちの必死の表情を見ると真剣になっている様子が伝わったが、念のためヒコに確かめたのだと言った。
「ヒコ氏。過日の通訳まことにご苦労でした。心より感謝いたします。貴方がおられなかったら、奉行所との談判もまったく捗らなかったでしょう。お礼のしるしに何か贈りたい。お望みのもの何なりとおっしゃってください」
「別に大したことはいたしておりません。謝礼などとんでもないことです」
ヒコは丁重に辞退した。
翌日ヒコが領事と奉行に従って宅地検分に出かけている最中に、提督が横浜を去る挨拶をするためにアメリカ領事館を訪れた。彼は留守番をしていたヴァン・リードに立派な金時計をあずけ、心ばかりの品だが、報酬として受け取るようヒコに伝え手渡してくれと頼んだ。
奉行たちとともにヒコが領事館にもどったとき、ヴァン・リードが一部始終をヒコと領事に語った。
領事がヒコに奉行の耳にも入れておけと言ったので、ヒコは概略を奉行に述べた。
「いかにもその通りでござる。今回の件に関しては、本当に卿のお手を煩わせ申した。余等もいずれ酬いの品を差し上げねばなるまい」
奉行の酒井隠岐守はうなずいた。
ヒコは江戸に引き返したムラヴィヨフが幕府老中に会い、殺傷事件に関する要求を突きつけたことを領事から聞いた。
下手人逮捕に緩慢な神奈川奉行を罷免する。殺傷事件の賠償として樺太の半分を割譲する。下手人逮捕に全力を尽くし、また実りなきときでもその旨ロシア官庁に報告すること。
一週間ほどして神奈川奉行の水野・酒井の両奉行はその職を追われ、新見豊前守に取って代わられる。彼はこのあと1860年、日米通商条約批准交換の遣米使節代表を勤める
ところで、この事件の結末であるが、六年の月日は経過したものの、1865(慶應元)年、犯人の小林幸八は逮捕され、横浜で処刑される。
つづく