5.第一章(漂流)---漂流1
5.第一章(漂流)――― 漂流1
彦太郎は何かが手に触れるのを感じて気がついた。彦太郎を目覚めさせたのはネズミ駆除用に栄力丸で飼っている猫であった。
猫は彦太郎が眼をあけたのを見て喜んだのか、喉を鳴らして顔を寄せてきた。そして二度三度と彦太郎の顔をなめた。ざらざらした猫の舌が冷え切った彦太郎の頬に温かく、心地好かった。
外は嘘のように静かだった。船腹に打ち寄せる小刻みな波の音が聞こえた。船体はゆっくりと上下はしていたが、激しい揺れはなかった。暗い船室を裂いて眩しい光が鋭い直線となって差し込んでいる。夜は明け、太陽が高く上っているようだ。
彦太郎は足もとに誰かの呻き声を聞いた。そして痛む上半身をやっとの思いで引き起こし、声のした方角を見た。船頭の万蔵だった。ざんばらに乱れた髪が顔を覆ってはいたが、頭髪で分かった。
栄力丸乗組員たちのなかで半白の頭は万蔵しかいなかった。彼の顔にこびりついた髪の間からは大きな傷口が一つ見え、固まりかけた血糊が赤く覗かれた。着物はちぎれ、上半身は裸同然であった。
万蔵が急に顔を上げ言った。
「難破させたりして、ほんまに済まんことしてしもうた。…じゃがのう、きっと一人残らず無事連れて帰ってやるぞ」
言ってから周囲を見回した。
「お頭、ご無事のようで…」
誰かの弱々しい声が聞こえた。
「おおう、仙太郎か。おめぇも大丈夫だったか。…ほかの連中はどうじゃ」
万蔵の言葉に他の水主たちも相次いで返事をかえした。十七名全員無事であった。
「そうか、彦太郎も元気か。そりゃあよかった。ほんまによかったわい」
彦太郎の声を聞いたとき万蔵はひときわ嬉しげだった。吉佐衛門から無理やり彦太郎をあずかったことを悔いているにちがいなかった。
志摩の大王崎沖で遭難したとき、西に向かう相船が二百艘あまりいたが、大時化に耐えられたのは栄力丸だけらしかった。彼らは嵐がいかに物凄かったかを知るとともに、自分たちが助かった幸運に感謝した。
気を取り直した水主たちは、陸地か島影を探して水平線の彼方を見遣った。しかし十七名全員が眼を皿にして見ても、島影はおろか、海鳥一羽も見つけることはできなかった。航路からは大分流されているようであった。
「南風を待って、それに乗れりゃあ戻れるぞ」
万蔵が落胆の様子著しい仲間たちに喝を入れた。
嵐が過ぎるとともに万蔵の気力が戻ったようであった。
「大西風が終わりゃあ、きっと南のほうから風が吹いてきよる。それまでに切り倒した帆桁を修理しておかねぇとナンねぇぞ」
彼らは万蔵の指示で、残った帆桁に材木を縛りつけ応急の帆柱を立てた。
万蔵の予告は当たった。帆を張ってまもなく南風が起こった。ゆっくりとではあるが栄力丸は北の方角に向かって進み始めた。彦太郎は万蔵の予言が的中したことに驚くとともに、万蔵の四十年にわたる水主としての経験の一端を見た思いがした。
彦太郎たち栄力丸乗組員たちの長い漂流がここに始まった。