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49.第5章(試練)---対決

49.第5章(試練)−−−対決


 ハリス公使が幕府老中と貨幣問題について話し合った結果、メキシコ銀貨=一分銀三枚が正式に決められる。ヒコはさっそく税関で数千ドルを日本貨幣に両替し、ヴォンデール号積荷の支払手形を償却する。


アメリカ領事館通訳としてのヒコの初仕事は外国人居留地問題であった。アメリカ、イギリス、オランダなど諸外国は神奈川に外国人居留地を欲した。


いっぽう外国の商人たちは横浜を支持する。神奈川はすでに建物が立て込んでいて、貿易関連施設を建てる土地がほとんどなかったことにくわえ、海が遠浅で、港湾には不向きであった。それに比べ横浜はほとんどが田畑と埋立地で広い土地があり、水深もはるかに深かった。


 幕府もまた横浜を推す。神奈川は天下の公道東海道の上にあり、常日ごろ大名行列が行き来している。大名のなかには極端な外国人敵視政策をとっているものがいて、そういう大名が不測の事態を引き起こす恐れがある。さらに攘夷を叫ぶ一部過激志士たちの外国人襲撃も心配される。


 日本の国内事情にどちらかといえば疎いアメリカ側には幕府の横浜支持は第二の「出島」政策と写った。オランダとの貿易における長崎港内の出島、つまり人工島である。一部地域に諸施設を閉じ込め貿易を制限するもくろみと見えた。


 アメリカは神奈川外国奉行堀織部正との会談で、1858年に結ばれた通商条約をたてにあくまで神奈川を主張した。


奉行は最後は辟易した様子でドールに言った。


「私どもは条約文に背くようなことはまったく致しておりません。と申しますのは、ペリー氏が調印されたときは、神奈川あるいは横浜を区別して申されたわけではありません。向こうに見える税関のそばの船小屋の横、丁度あの林の辺りを指差して署名されました。その頃の横浜は、神奈川の続きにある半農半漁の小さな村にすぎませんでした。神奈川の一部だったのです」


「事情は大体分かりました。貴方方の説明はもっともなところがあります。他の国の領事の意見も聞いてみたいと思いますので、本日のところはひとまずこれで失礼させてもらいます」

ヒコたちは引き下がった。


 居留地交渉はアメリカの商社・ウォルシュ会社のホールなる人物の大胆な行動によってあっけなく結末を迎える。彼は独断で横浜側に一区画を購入し商売を始める。彼は最初から横浜のほうがはるかに実用的であることを見抜いていた。彼が入手した土地は今日二号岸壁として知られる。


 イギリスのデント商会、ジャーディン・マセソン(J・M)商会など、満を持していた他の貿易会社はホールにならって横浜に次々と居を構え始めた。ここに居留地問題は事実上の決着を見る。


領事館は神奈川の本覚寺にそのまま置かれ、後発で来日した宣教師たちが数人そこに住んだが、領事館も、宣教師たちも後には横浜に移っていった。


 ヒコの語学力は政治面以外でも発揮される。次々と来日する宣教師たちの宿舎の世話である。ヒコはヘボン夫妻には成仏寺を、ブラウンには同寺の本堂に隣接した庫裡を、シモンズには宗興寺をそれぞれ確保してやった。


欧米人の習慣および趣味に通じない日本人大工に、寺を外国人向けに改造させるのは容易な技でない。ヒコのアメリカでの生活体験が役立った。


 出だし順風満帆だったヒコの外交官活動にやがて波乱が起きる。ホノルルで別れたブルック艦長がフェニモア・クーパー号で神奈川港に入港してきて、ドール領事がブルック艦長を晩餐に招待したときのことである。


 ブルックの知り合いということでヒコとリードも同席を許される。話題がヒコが香港で栄力丸の仲間たちと別れ、再渡米したときのことに及んだとき、ヒコはシスコの監視船フローリック号で受けた苦い体験を語った。


ただ働き同然であったヒコに同情した同船の士官たちが、給料値上げを進言したのに対し、船長が〈英語も満足にしゃべれないのだから、食わせてやるだけで十分だ〉と撥ね付けた一件を話した。


 領事のドールが、その時の監視船の船長の名前を問うたので、ヒコは何気なく答えた。 「H何とかという、理屈の分からない男でした」

 途端にドールは逆上し叫んだ。

「黙れ、ジョセフ。あれは私の親友だ。私の食卓で二度と同じことを言ってみろ。あのドアからお前を蹴り出してくれるぞ!」


「あの船長が、あなたの友人だったとは残念な話です。私はただ彼の船に乗っていたとき、彼から個人的に受けた処遇から判断して、彼についての個人的見解を述べたに過ぎません」

ヒコは切り返したあと、二の矢を繰り出した「明らかに、非友好的な人物に対して、自分の意見を述べる権利が私にはないのでしょうか」


 「あるもんか! 貴様なんかに、あってたまるか!」

 領事は口汚くヒコを罵った。


 やがて給仕が豚の頭を食卓に運んできたとき彼はナイフとフォークを使いながらさらに言った。

「私にたてつく者は、誰であろうと容赦はしない。この豚の頭みたいに、櫛挿しにしてやるぞ」


 ドールの挑発に立腹したブルックが、このときヒコに味方した。


「ドール領事。蹴り出せるものでしたら、蹴り出して御覧なさい。その船長があなたの友人なら、ヒコは私の親友です。もし決闘をお望みでしたら、私がお相手いたします。…武器はあなたがお決めになってください」


 ブルックの顔は朱に染まっていた。

 ブルック艦長が席を立とうとしたとき、隣にいるヴァン・リードが彼の肩を押さえた。

ヒコも必死で引き止めた。


「ブルック艦長。どうか、そう剥きにならないでください。私のために怪我人など出して欲しくありません。あなたのお気持だけで十分ありがたいです」


 ドールも反省したのか、決闘をほのめかしたのはほんの冗談で、ちょっと言が過ぎたと謝った。そして気まずい空気を取り払おうとしたのか、彼は付け加えた。


「それに、やろうとしてもこの家には武器がないからな」

「私の船のクーパー号を公式訪問されたとき、あなたは腰に剣を下げられていましたよ。剣があるではないですか。それに、あのコルトのピストルはどうなさいましたか。領事館警固に欲しいと言われたので、あのとき私が差し上げましたが」

          

「残念だが、私は剣を使ったことがないし、拳銃の扱い方もまったく知らないのだ」ブルックの剣幕に気圧されたか、ドール領事は本気とも冗談ともつかぬ言い訳をした「それより、皆さんもっと飲んでください。胚を重ねてください」


領事の言葉で騒ぎはおさまった。


 ドールの面罵はヒコにとってはフローリック号以来の屈辱である。日本人蔑視とも取れる。むかし香港停泊中の米戦艦サスケハナ号上で、アメリカ人水兵から足蹴りをされたり、罵声を浴びせられたりしたが、あのときは仲間といっしょだった。


しかしドール領事の言葉は自分個人に向けられた。アメリカで受けた数え切れないほど多くの友情と励ましが、ヒコには急に色褪せたものに見え始めた。


慈父のように優しかったサンダース氏、実母のように厳しくも愛情深かったサンダース夫人の義母、祖国の将来にそなえて先進文化と英語吸収に努めるよう励ましてくれたトーマスやリードやブルック艦長、そしてシスコのマコンダリー商会の同僚たち。彼らの顔が次々と思い出された。


 ドール領事にしろ第一印象は決して悪くなかった。上海で知り合って以来彼とは仲良く仕事をしてきた。どんな厄介な業務でもてきぱきとこなし、さすが国を代表して派遣されるだけあるとヒコは領事のことを尊敬していた。義兄の宇之松がやってきたときでも、領事館に招待までして、晩餐で供応してくれた。


ヒコが知っている領事は仕事の上だけである。私生活では彼はきっと別人なのだろう。少年時代、母が生前よく本音と建前を区別することの大切さを口を酸っぱくして言っていたが、領事も内と外を使い分けているのだ。日本もアメリカも変わらないのだ。


ヒコは自分がこれまであまりにも恵まれていたことに思い当たった。香港からいっしょに再渡米した栄力丸乗組員の亀蔵、次作。イギリス領事館に雇われた岩吉。そして香港で知り合った他の漂流民岩松など。彼ら漂流民と比べれば、自分の苦労は苦労のうちに入らない。


自分はアメリカ人の明るい面だけしか見ていなかったのかもしれない。困ったときにはいつも誰かが助けてくれた。だから知らず知らずのうちに、アメリカ人はみな寛大であると思い込んでしまっていた。


人間には両面がある。人に頼ってはいけないのだ。

ヒコは肝に銘じたのだった。


つづく



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