47.第4章(帰国)---アメリカ領事館開設
47.第4章(帰国)−−−アメリカ領事館開設
同日イギリス総領事オルコックとヴァイス領事が、ハリス公使を訪ねてきた。三人はドール領事もまじえ会談をもった。領事館候補地についての意見交換である。
日本側は領事館の建物を横浜に準備すると申し出たが、米英側は条約にある通り神奈川を希望する。横浜は埋立地であり長崎の出島の二の舞にされる恐れがあった。米英は東海道に沿った交通の便のよい神奈川の町に執着した。
奉行所を通してでなく、江戸の日本政府と直接交渉するためである。日本側が横浜を主張した理由は安全保障の見地からである。交通の便がよいところでは領事館関係者が攘夷派志士たちの攻撃にさらされやすかった。
結局日本側が折れた。アメリカは翌日、ドール領事自ら出かけ物色した結果、本覚寺に白羽の矢を立てる。港が近く、神奈川と横浜の町が一望できる小高い丘の上にあり、絶好の場所である。日本側が役人二人を案内役に派遣したので候補地選びに手間はかからなかった。昼までに片付いた。
昼からヒコは買い物をする士官たちに付き添って上陸した。税関で貨幣を交換し町に出る。
建設が始まったばかりの横浜の町は田畑の真っ只中にあった。各種商店はいまだ建築中で建物の壁が半渇きである。道路は幅広く、碁盤目状に走らせてあり、人道車道の区別も施されてある。
商魂逞しい店はすでに商売を始めており、大抵の必需物資はここで手に入る。古物、陶器、漆器、雑貨などを扱う商店も見える。遠くに眼を移すと漁村の炊煙が立ち上り、耳を澄ますと犬や鶏の鳴き声がかすかに聞こえる。
周囲を麦や野菜の田畑に囲まれて、ひときわ大きな建物群がある。中央にあるのは領事の官舎で、それを各国の商館が取り巻いている。そしてこの一角から本通りを隔てて、奉行所と運上所がある。また税関の裏は奉行所役人の家が並んでいる。
サンフランシスコや香港、上海などに比べれば、横浜は箱庭である。しかし何事にも始めがある。力の入れようでは追いつくこともそう難しくはないであろう。ヒコは自分が横浜の港の発展に寄与できるのだと思うと自然と力が湧き上がるのだった。
ヒコの連れの士官が骨董店で買い物をしようとしたが、長崎、下田に比べてかなり高そうである。
「長崎などと比べましても決して高くはございません。今貴方がお払いになった新貨幣の二朱銀(1/8 両)は、メキシコ銀半ドルに相当します。いっぽう旧貨幣は銀三分(3/16両)でメキシコ銀一ドルと交換されております。ところが現在日本では、金 の相場が大変上っておりまして、それで高く思われるのでございましょう」
通貨の交換比率にかんしてはまったく知識のないヒコは、主人の言葉通り通訳した。すると士官は心当たりがあるらしくうなずいた。
「条約には、金銀は日本の分銅で量って量目を決め計算するとあるから、幕府は新しい貨幣を鋳造したのかもしれない」
結局ヒコたちは買い物はしないで船に帰った。
公使に告げると、公使は江戸に行ったとき外国奉行老中にこの件について説明をしてもらうことにするから、それまでは買い物は一切差し控えるよう言った。
1857(安政4)年の下田協約(日米和親条約の不備点を補う)は、〈アメリカ人持来るところの貨幣を計算する時は、日本金或は銀一分を、日本分銅の正しきを以て、金は金、銀は銀と秤(重さを比較)し、アメリカ貨幣の量目を定め、然して後、吹替(改鋳)入費のため六分(6%)だけの余分を日本人に渡すべし〉と、日米金貨の同種同量による交換を決めていた。
骨董店側の言い分が正しいかどうかは、このセリフだけからは判断しにくいが、条文どおりのことを経験未熟な為替業者に周知徹底させるのには時間がかかったであろうし、仮にそうでないとしても、商売人は客の足元を見るのを仕事とすることを考えれば、ヒコたちが買うのを止めたのは正解だったかもしれない。
1859年7月4日は日米友好通商条約の発効日である。横浜はこの日より日米間の新貿易港である。停泊中の米国船は満艦飾を施し、国旗を朝日に輝かせている。
午前十時、公使のハリス、艦長の二コルソン、領事のドール、書記生のヴァン・リード、そして通訳官のヒコの五人の合衆国領事館員一行は神奈川に上陸し、本覚寺に行く。彼らは墓地近くに生える松の大木の枝を払い、幹の先に旗ざお用の竿を縛りつけた。そして正午を合図にアメリカ国旗を旗ざおに結びつけ、シャンペンで乾杯し国家を歌った。
そのあと本堂に場所を変え晩餐の宴をはった。魚の吸い物、鳥の煮物、野菜、菓子、ぶどう酒など美酒佳肴がそろっていたが、肝心の牛肉、羊肉はなかった。手に入れようにも牛、羊は日本中どこを探してもいないのである。
三日後の7月7日、T・ハリスは江戸に入り、麻布の善福寺を仮の公使館に定めた。イギリス総領事オルコックはハリスより四日前の3日、同じく江戸の高輪東福寺に入っていた。
仮公使館の家具什器の購入、召使の採用などすべて神奈川の役所を通さなければならず煩わしきこと甚だしい。領事、リード、ヒコ三人がてんてこ舞いした。料理人は上海から連れてきていたので問題はなかった。
もっとも二人は途中で逃げ出したため、捕らえて本国に送還した。
新採用の日本人は給仕(月給:2両)、守衛(2両2分)、給仕見習い(1両2分)、料理方(2両2分)の四人である。この時分、1両は約5万円、したがって、1分(1/4両)は12,500円であった。
ヒコは公職以外でも働く。ドール領事が代理人をつとめるハード会社のヴォンデーラ号が上海に向け発つ日が近づき、その船積みの手伝いをする。この船は領事とヴァン・リードを乗せてヒコたちよりも先に日本に来ていた。
横浜港での積み込み作業は一週間ほどで終わる。積荷は菜種油、蝋、海草、するめ、鮑、乾海鼠などであった。しかし取引に大変手間取る。開港直後のことで、日本人業者は外国人間と外国の通貨をあまり信用していなかったし、また決済用貨幣がまだ決まっていなかったからだ。
仕方なくヒコは領事館印を捺印した手形を発行し、交換相場の決定日を支払い日としたのでようやくかたをつけることができた。
幕末日本には、英語の話せる日本人はほとんどいなかった。
ペリーの『日本遠征記』によれば、1853(嘉永6)年、ペリーが浦賀にきたとき、日本側の首席通訳官である堀達之助の知っていた英語は“I can speak Dutch.”(私はオランダ語が話せる)と“I want to go home.”(私は家に帰りたい)だけであったらしい。
当時外国人との意思疎通はオランダ語でおこなわれたから、彼らが英語を知らなかったのは当然だったともいえる。もっとも彼らが使っていたオランダ語は本場のそれとは大きな隔たりがあった。
T・ハリスの『日本滞在記』は〈日本人のオランダ語は、二百五十年前に貿易業者や水夫の使った古いオランダ語の範囲に限られ、その大昔のオランダ語を、すべて日本語の字句の配列どおりならべないと承知しない〉と語っているし、またイギリス公使オルコックも著書『大君の都』のなかで、日本側通訳が、オランダ育ちの外国側通訳のオランダ語を〈文法的にデタラメだ〉と非難したことに触れ、〈恐れ入った〉と述懐している。
1854(嘉永7)年の神奈川条約、つまり日米和親条約は、このように別言語ともいえるほど隔たりのあるオランダ語を介在して行われた。さらに日本では条約文は漢文によるものが正文と決められていた。したがって、英語、日本語、漢文、そして新旧のオランダ語。五カ国の言語への翻訳作業は繁雑極まりなかったであろう。
土佐出身のジョン(中浜)万次郎は唯一例外であった。ヒコと同様漂流後アメリカ船に救われた彼は、アメリカに渡ったあと当地で教育を受け、ヒコよりも10年早く帰国していた。彼はこのころ幕府に召し抱えられており、当条約締結に際しても幕府海防掛勘定吟味役の江川太郎左衛門は彼を通訳官に任命する考えをもっていた。
しかし、攘夷派の盟主である水戸烈公の徳川斉昭の強硬な反対で頓挫させられていた。漂流民の体験をもつ万次郎は夷狄に通じる人物、異国の危険な思想にかぶれた咎人として扱われた。
万次郎は咸臨丸の航海をおえ帰国した年、停泊中の外国船の招きに応じたことを罪にとわれ、幕府海軍操練所の職を解かれる。
つづく