46.第4章(帰国)---相模灘の富士
46.第4章(帰国)−−−相模灘の富士
外交官ジョセフ・ヒコの登場をうながす出来事がまもなく起こった。ミシシッピー号が燃料の石炭を積載している最中のことである。
日本人の人夫が休憩中に酒を飲んでいるのを見たアメリカ人水兵が、酒を分けてくれとアメリカの銀貨を差し出したところ、人夫は日本では通用しないといって、硬貨を放り投げ和船に降りていった。
一方通貨のことについてはまったく知らない水兵は、侮辱されたとものと思い逆上した。そして人夫のあとを追いかけ蹴り飛ばした。
人夫はすぐに奉行所に訴え出て、役人と通辞を連れて抗議にもどってきた。ミシシッピー号側は担当士官パターソンが応対した。ところがこの通辞の英語がまことに頼りない。日本側は相手の非を懸命に訴えるのに、一向に通じない。人夫はますます眉を吊り上げ、役人は腰の刀に手を掛けんばかりの剣幕になった。
パターソン士官は仕方なくヒコに助力をもとめた。役人たちの言い分をヒコが説明するとパターソンは納得し、水兵に謝まらせた。
合衆国戦艦に酒類の持ち込みは条約で禁止されている。もっともこれは販売目的の場合で、石炭運搬業者が個人で持ち歩くことまでは含まれてはいない。
「パターソン士官。酒を持ち込んでいるのを見つけたなら、厳重に注意するのが見張り番の役目。それを、こともあろうに譲ってくれと頼み、断られるとなると暴力を振るう。じつに怪しからぬ行為です。これは私の同胞に対する侮辱だと思います」
国籍を変えても心は日本人である。ヒコは士官をたしなめた。
「貴方の言われるとおりです。ミスター・ジョセフ。上官として私にも十分責任があります。部下たちには今後このようなことは決してさせません。日本の役人の方々にくれぐれも謝っておいていただきたい」
パターソン士官の言葉を伝えると役人たちは満足し引き下がった。
滑稽だったのは、ヒコが日本語を喋ったときだった。役人たちは眼を丸めた。ヒコの正体について一方ならず関心を抱いたようであった。一時は肝心の事件の究明はそっちのけで、ヒコがどんな人物で、どこから来て、日本語をいかにして学んだかなど根掘り葉掘り訊いた。
「私はれっきとしたアメリカ人です」
ヒコはそのたび笑って答えた。
神奈川に到着するまでは決して身元を明かさないようにとのニコルソン艦長の注意をヒコは固く守った。
揉め事の一件落着後、一行が立ち去るときにも役人は盛んに首を傾げていた。
6月22日に戦艦ミシシッピーは錨を上げ下田に向かった。外洋に出るや雨が降り始め風が強くなった。翌日も風雨はおさまらない。ヒコは心配になった。
この悪天候のなか、富士山は見えるだろうか。ヒコがまだ十三歳の少年時代、江戸からの帰途、船頭の万蔵とともにはるかに望んだ富士のあの秀麗な姿がはたして見られるだろうか。雨雲が垂れ込めているのではないか。
ヒコたちが下田に着くと、ヴォランダー号で先発で来ていたアメリカ公使秘書官ヒュースケンがハリス公使を出迎えた。曇り空ではありながら海は穏やかである。シーサーペント号を下船したとき香港で別れたヴァン・リードも同船に乗っている。ヒコとリードは再会を喜び合った。
ヒコの身分はいまだ不安定である。日本側に正式に認めさせるまでは上陸させられない。しかし、下田では特別に許可された。士官たちは買い物をするとき通訳を必要とした。
下田の港は義父の吉左衛門や義兄の宇之松が江戸通いの船でしばしば立ち寄った港である。懐かしさの余りヒコは義父と義兄のことを土地の人たちに尋ねてみた。しかし誰も首を振った。大地震と津波で町全体が壊滅したため、昔の町を知っている住民はほとんど残っていないとのことだった。
この地震は1854(安政元)年、12月3日(安政東海地震)と4日(安政南海地震)に発生した大地震のことで、両方ともマグニチュードが8・4あったとされる。翌年1855(安政2)年11月11日に起こった大地震(震源関東南部・M6・9)とあわせて安政の三大地震と呼ばれる。
6月30日ヒコたちは下田をたち神奈川に向かった。
昼ごろ相模灘に入る。この日は梅雨時には珍しく空は晴れ渡り、海は太陽の光線を真っ直ぐに受けキラキラと輝いている。まるで祖国がヒコを歓迎してくれているようである。きっと美しい富士山が見られるに違いない。
胸のときめきを押さえ見守るうちについに富士が姿を現した。
甲板に立っていた水兵たちが感嘆の声を漏らした。
「おおっ!」誰かが叫んだ「艦長。あれがフジヤマですか」
「うん、そうだ。私が見るのは四度目だ。でもこんなに見事なフジヤマは初めてだ」
艦長が周囲に集まる士官や水兵たちを見回した。
すでに多くのものが甲板に出てきていた。
ヒコは視線を再び富士の山にもどした。幾たびも夢に描いた故郷の山である。手前の山並みは低く、富士の峰だけが真っ青な空を背景にして、高く大きくそびえていた。雪渓の残雪が初夏の強い日差しを受け眩しい。じつに壮麗で神々しい。いつまでも見飽きない。このように美しい山を持っている日本をヒコは誇らしく思った。
「ヒコ。君は将来、日本の国のフジヤマになるのだ」
誰かがヒコの肩を叩いた。
公使のT・ハリスが立っていた。
視線を三度山にもどしたヒコはひそかに拳を握った。
十三歳のとき漂流を開始した播磨の国・古宮出身の少年彦太郎は、ここに二十一歳のアメリカ合衆国青年外交官ジョセフ・ヒコとして故国の土を踏もうとしていた。
希望に燃えるヒコを乗せたミシシッピー号はまもなく浦賀沖を通過し、午後3時30分神奈川に到着した。開港の決まった神奈川の町は、海岸沿いの横浜側において至る所で普請が始まっている。
港内にはイギリスの戦艦サンプソン号がすでに停泊しており、やがて彼らから儀礼挨拶の訪問を受けた。
日米通商条約でミシシッピー号の神奈川入港は、この6月30日と決められていた。領事館開設日をアメリカの独立記念日7月4日に合わせるためで、準備期間も計算に入れられていた。
碇を下ろすや、羽織袴に大小を帯に挟んだ幕府の役人が二人乗り込んできて、来航の意向を問う。1858年の条約の通り、在日本公使のT・ハリス氏を乗せ、只今長崎から到着した。7月4日に領事館開設するためで、駐日領事のE・ドール氏も同道していると答えると、二人は承知して立ち去った。
7月1日には幕府外国奉行兼神奈川奉行の酒井隠岐守忠行が戦艦ミシシッピーにハリス公使とドール領事を表敬訪問した。
ハリスは開口いちばんにヒコのことに触れた。
「この青年は名をジョセフ・ヒコといいます。もとは日本人でしたが、今はアメリカに帰化してアメリカ合衆国の国籍を所有しています。したがって、今後アメリカ市民として取り扱っていただきたい」
ヒコが日本語に通訳すると、奉行はしばらくの間驚きの表情でヒコを見つめていたが、やがてうなずき手帳に控えた。
以後ヒコは公式の場ではそのように扱われる。
つづく




