45.第4章(帰国)---九年ぶりの祖国
45.第4章(帰国)−−−九年ぶりの祖国
ヒコたちが事情を説明すると専任士官はヒコの願いを快く受けいれてくれた。艦艇付属の蒸気船を一艘雇い入れ、それの指揮のために士官の一人を乗り込ませ、ヒコに空席を作ってくれた。士官の親切にヒコは涙が出るほどだった
ヒコを乗せたポーハタン号は、5月17日香港をたち寧波を経由27日上海に着く。停泊していた軍艦ミシシッピーが挨拶に士官を送って寄越した。
ヒコは29日ポーハタン号の士官がミシシッピー号に返礼訪問するのに付いて行き、ハリス公使の謁見を願い出る。艦長のニコルソンは喜んでヒコを日本まで同道することを約束する。
そのあとヒコは新駐日公使のハリスに紹介された。
公使はヒコを座らせくつろがせると、早速渡米した理由をヒコに尋ねた。ヒコはサンダースやブルックなどを引き合いに出し、日本とアメリカの架け橋になりたいのだと答えた。
「貴方はアメリカに帰化されていますか」するとハリス公使は畳み掛けるように言った「もし、帰化されているのなら、帰化証明書をお見せ願いませんか。日本で何か起こりましたとき、貴方の身を保護するのに、必要なのです」
ヒコは後日持ってくるといってその場を辞した。
そのあと紹介された新任のドール領事も、ヒコを通訳として領事館員に迎えることを歓迎した。
「用意ができ次第、乗艦してください。お待ちいたしております」
「貴方といっしょに早く会食をさせていただきたいものです」
ニコルソン艦長と士官の見送りを受けてヒコは戦艦ミシシッピーを後にした。
ついに夢がかなう。九年ものあいだ一時も忘れたことのなかった祖国は眼の前だ。ヒコは喜びのあまりポーハタン号に帰ったことも分からなかった。ニコルソン艦長たちが肩を叩き祝福してくれたのでやっとわれに返った。
次の日ヒコは合衆国帰化証をたずさえてミシシッピー号に行った。
「分かりました。では正式に貴方を合衆国領事館付き通訳として採用させていただきます。神奈川に着きましたら、その旨日本の役人に告げましょう。また江戸にも行くことになると思いますからこの帰化証を幕府の役人に示し、貴方がもはや日本人でないことを約束させましょう」
ハリス公使は言い終わるとヒコの手を握り締めた。
午後ヒコは暇ができたので物資用達で下船しているドール領事に会いに行った。彼はヒコの正式採用を喜び、ついでだからといってヒコの俸給の件についても触れた。ヒコの満足のいく額であった。
別れを告げ店を出ようとすると、一人の店員がヒコのところにやってきて、彼の知っている他の商社で日本人漂流民が店員として働いているということを告げた。ヒコは会いに行った。ヒコは昔の仲間かと思い訪ねてみた。
彼は名を音吉といって尾張の出であった。船で遭難しているところをアメリカ商船に助けられ、送り返されたが日本側に武力で追い払われた。ヒコたちの遭難に先立つこと10年ばかり前らしい。
仕方なく上海に引き返した音吉は宣教師の世話でこの地で教育を施され、現在に至っているとのことである。彼は〈オット〉さんと呼ばれていた。
ヒコがまだ栄力丸に乗るずっと前のことだが、義父吉左衛門が久しぶりに家に帰ってきたときに、彼が江戸からの帰路、浦賀の港で目撃した幕府による外国船砲撃の話をしてくれたことがあった。それによく似た話だとヒコは思った。
ヒコの推測は正しかった。1837(天保8)年、アメリカ船モリソン号が浦賀と鹿児島に寄航しようとしたが、撃退された事件である。音吉はその船に乗っていたのである。モリソン号が非武装船だったので幕府はイギリス船と勘違いした。
驚いたことに音吉は栄力丸仲間らしい漂流民のその後を知っていた。もっとも彼によると、ペリー提督の艦隊に乗っていたのは、一人である。他の仲間十二人もいっしょにいたらしいが、提督が到着する前に船を降りた。
下船の理由はアメリカの軍艦による帰国は幕府に排撃されるのは眼に見えているから、友好国清国の船を探すことだった。その時の艦長オーリックは厄介払いができて異論はなかったが、後任のペリーの手前があるので人質一人残すという条件で彼らは放免された。
残された一人は一度ペリーといっしょに日本に帰ったが、浦賀の港で突然引き渡されるのが怖くなり、再びマカオにもどってきた。望郷の念絶ちがたい彼は、翌年ペリーの二度目の遠征のとき再び日本を目指した。
しかし結局怖気づき引き返してきた。そして下船を命じられた。
気の毒に思った音吉が彼をしばらくの間面倒を見てやった。少ししてペリー艦隊に彼といっしょに乗船していた、アメリカ人牧師が彼の世話をするといって引き取って行った。以後のことは聞いていない。
仲間の十二人も途中で一人喧嘩別れして離れ、十一人になっていた。彼らについては当地の官庁と交渉し、源宝号という長崎行きの中国船を世話してやった。彼らが音吉を頼ってきたのは、人質の一人が出て行くのと入れ替わりだったので、双方が出会うことはなかった。もう五、六年も昔のことである。
この人質はサムパッチ、こと仙太郎である。彼を引き取ったのが牧師のJ・ゴーブルであった。彼は仙太郎をアメリカに連れて帰り、ニューヨークの神学校に入学させる。ゴーブルには将来宣教師の資格を取って日本で布教するという夢があった。
ヒコはニューヨークを発つ前マンハッタンの教会で、サムパッチのことを耳にしたが、時間がなく会わなかったのだ。
十二名の下船組みのうち、途中で仲たがいして群れを離れたのは岩吉、イギリス領事館通訳である。さらに残り十一人のなかで、播州宮西村の安太郎は乍浦からの帰国の途次、薩州樺島沖で、また讃州安治浜村の京助は長崎到着後、揚り屋にて、それぞれ病死している。
音吉の話を聞いてヒコは、自分が何と恵まれているかをあらためて感じるとともに、自分がまもなくぶつかるであろう苦難を思った。
1859(安政6)年6月17日の夜、ヒコたちを乗せた戦艦ミシシッピー号は長崎港口に投錨し、夜明けを待って入港した。直ちに日本人役人が三名和船でやってきて、当直士官に国籍、寄港目的などを聞きだし、再び帰っていった。
入れ替わりにイギリス船とロシア船から士官が挨拶に訪れる。イギリス船サンプソン号は英国総領事R・オルコックおよび神奈川領事館員たちが乗っていた。岩吉もその中にいるはずだ。
一時の慌しさが去ったあと、ヒコは船縁に立ち九年ぶりの祖国に見入った。瀬戸の海、瀬戸の島々を見慣れているヒコには長崎の港は別段珍しくも見えないが、一度は諦めた身の上を思えば、万感胸に迫るものがある。
ヒコが波乱に満ちたこの方をしのんでいると、突然日本人の物売りが三、四人乗船してきて商売を始めた。売品は骨董、陶器、漆器、盆栽、果実そのた食べ物いろいろである。彼らの喋る日本語はヒコの胸に俄かに里心を起こさせた。
ヒコは思わず彼らに声を掛けようとした。するとその様子を見ていた艦長のニコルソンがヒコを引き止めた。
「日本語を喋ってはいけません! ハリス公使は先を急いでおられます。江戸幕府との約束があるからです。もし貴方が日本語で話しかけて、ここの奉行の耳に入れば、厄介なことになるかもしれません。公使は貴方の保護のため時間を費やさなければならないでしょう。上陸することも控えてください」
ヒコは舌先まで出掛かっている日本語を飲み込まなければならなかった。
つづき