44.第4章(帰国)---運命の試金石
44.第4章(帰国)−−−運命の試金石
ヒコが捕鯨船ミリシア号の船長と掛け合い、乗船許可を得てまもなく、サンフランシスコ発香港行きの急行便シーサーペント号がホノルル港に入ってきた。船にはシスコで別れたばかりのヴァン・リードが乗っている。
ヒコが滞在していることを聞き、急ぎヒコのもとにやってきたリードは、ヒコとの再会を喜ぶのもそこそこに切り出した。
「私は今から日本に行く。香港で日本行きの船を見つけるつもりだ。だから君に是非いっしょに来て欲しい。ミリシア号とちがって、遠回りだが、急行船だから速いよ」
ヒコとしても願ってもないことである。念のためヒコは世話になっているハンクスに相談した。すると、彼もまたとないチャンスだから是非そうしろと賛成する。
「急行船のキャプテンはホワイト・モアといって、私の知り合いだ。君の懐具合のこともあるから、船賃は私が船長と掛け合ってやろう。心配しなくていい」
「でも、私は120ドルしか手持ちがありませんが…」
「大丈夫だ。任せておきたまえ」
出帆直前になってハンクスは約束したとおり、上等切符をもってヒコのところに現れた。ヒコが費用を払おうとすると彼はヒコを制して、船長との談判はついているから、安心しろと言う。
拘るのは失礼かとも思いヒコは彼の善意を素直に受けることにした。彼は切符といっしょに、あとで開封するようにといって手紙を一通ヒコに手渡した。
出帆後開けてみてヒコは驚く。ハンクス署名の出金伝票が入っていた。
急行船シー・サーペント号は3月29日にホノルルを出向し、23日後の4月22日午前零時30分に香港に到着する。
ヒコにとっては7年ぶりの香港。亀蔵や次作とともに、栄力丸の仲間たちと無理やり袂を分かったところである。〈ワシらも、いっしょに連れて行ってくれぇ!〉、〈戻ってこおぉい。洋風に染まるのは、死罪じゃぞぉ!〉。遠ざかるヒコたちに向かって叫んだ彼らの言葉がつい昨日のように思い出される。
ヒコは待ちきれなくて夜明けの甲板に立った。引き明けの薄紫色の明かりのなか、香港は町も港もすっかり変わっていた。早朝にかかわらず通りは人々や荷車で賑わい、港は各国の大小船舶で溢れている。
停泊中は下船しないよう通告されていたが、ホノルルを発つ前検事総長ベイツからの紹介状をもらっていたので、ヒコは船長の許可を得て上陸し、香港駐在合衆国海軍倉庫委員のスパイデンを訪ねる。
ヒコが漂流してからの自分の経歴を概略述べて、今これから帰国するところだと言うとスパイデンはいきなり膝を打った。
「では香港滞在中は私のところに来られたらいい。合衆国海軍のタットナル提督が中国駐在公使を乗せて現在こちらに向かっております。今印度あたりだと聞いています。公使を送り届けたあと提督は北太平洋方面まで行くはずです。よかったら私が口を利いてあげます。日本まで必ず送り届けてくれますよ」
ヒコは心が揺れた。しかし、行動をともにしているヴァン・リードのことに触れ彼の申し出を丁重に辞退した。
4月10日の日曜日ヒコは教会に行った。そして、祖国近くまでヒコを無事生還させてくれた神に感謝の祈りをささげた。
一週間ほどしてヒコはホワイトモア船長に連れられ広東のイギリス領事館に行った。日本行きの船を探すためである。ところがそこでヒコは思わぬ人物に出会う。7年前サスケハナ号で別れた栄力丸乗組員の一人岩吉である。
岩吉はヒコたちがアメリカに去ったあと、残された仲間たちとサスケハナ号を下船し、乍浦に滞在していたが、食事のことで仲間たちと意見が合わず、以来一人別行動をとっていた。岩吉は運よくイギリス公使オルコックに見いだされ、彼の私邸に世話になっていた。
イギリスは日本領事館開設を間近にひかえ、日英両方の言葉の喋れる人物を探していた。岩吉は片言ではあるが英語が話せた。
彼は〈ダン〉‘DAN’と呼ばれていた。現地人仲間が〈岩吉〉を〈ガンケチ〉と呼んでいたのを、領事館員が〈ダンケチ〉と聞き間違え、そのまま〈ダン〉になったのだった。
ヒコとダンは無事を喜び合い、互いのその後を語り合った。
ダン岩吉はサスケハナ号を降りてからの概略を語ったあと、思い出したように顔を輝かせた。
「もうすぐ、開国。ミスター・オルコック。日本、行く。ワシ、いっしょ。帰る」
彼は日本語は相当怪しくなっているようであった。
ヒコの日本語とてそう変わらない。彼も言葉が思い出せなくてたびたび立ち往生した。
ヒコが自分もこれから帰国するところだと答えると、彼は日本に帰ったらまた会えるのだなと喜んだ。
二週間ほどして、岩吉が突然シーサーペント号にヒコを訪ねてきた。岩吉はヒコの顔を見るや、領事のオルコックが香港に来ており、ヒコに大変会いたがっていると言った。
ヒコがオルコックの乗っている船に行くと、まず通訳のコルウィンに紹介された。通訳といっても彼はオランダ人、オランダ語しか話せない。日本にはオランダ語に詳しい者が何名かいるとの情報をイギリス政府は得ていたからだった。そのあと秘書官がヒコをオルコックに紹介した。
オルコックは恭しくヒコを腰掛けさせると、異国におけるヒコの苦労をねぎらったり、日本のおかれた立場など国際情勢に触れたりしていたが、急に調子をあらため切り出した。
「どうでしょう。私たちの領事館で通訳として働いてくださいませんか。報酬は十分なものを用意させていただきます。貴方も故国に錦が飾れると思います」
ヒコにとってはありがたい話である。国は違うが領事館に雇ってもらえる。れっきとした外交官として欧米と日本との橋渡し役になれるのだ。しかしヒコは二つの理由で辞退した。
一つはヒコが通訳官になると岩吉を押しのけてしまう。赤の他人ならともかく、一時は生死をともにした漂流民仲間である。薄情なことはできなかった。他の一つは、アメリカに対する恩義である。
自分はこの七年間アメリカの政府とアメリカの人々から多大な厚情を受けてきた、そして今回こうして帰国できるのもまったく彼らの親切のおかげである。にもかかわらず、ここで突然手のひらを返したように、イギリス領事館に雇われるというのは徳義心あるもののすることではない。
ヒコは心情を吐露し、最後に付け加えた。
「私はこのまま帰国します。そして、駐日米公使に掛け合って雇ってもらい、米国領事館で日本とアメリカのために尽力するつもりです。それが私の義務と考えます。もし不幸にも米国領事館が私を必要としなければ、そのときは喜んで貴国のお役に立たせていただきます」
オルコックはやはり駄目かといったふうに残念そうに頷いた。
そうこうしている間にも合衆国海軍倉庫委員のスパイデンから、下船して自分の居宅に投宿するよう盛んに誘いがあったので、ヒコはホワイトモア船長やヴァン・リードに事情を説明して同意を取り付け、スパイデンの世話になることに決める。スパイデンの父親は1853年ペリー艦隊が日本にやってきたとき艦の主計長を務めていた。
5月10日、合衆国タナトル提督麾下の軍艦ポーハタン号が、駐清国公使ウォードを乗せて香港に到着した。イギリスその他の諸国と交わす礼砲の轟音で分かった。スパイデンは直ちにポーハタン号に赴いたが、二時間ほどして帰ってくると、艦には公使のウォードの外他の領事館員も乗っていると言った。
午後ヒコはスパイデンに連れられ、タナトル提督を訪ねた。そして測量船艦長・ジョン・ブルック大尉の紹介状を手渡した。
提督は丁寧に手紙を読んでからおもむろに口を開いた。
「申し訳ございませんが、ウォード公使や館員たちで部屋は塞がっています。通風気味の私も部屋を明け渡しているような状態です。それに、公使たちを上海で降ろしたあとも日本の方面に参る予定はございません」
提督はさも申しなさそうに言った。
ヒコが肩を落としたとき、それを励ますようにタナトル提督がさらに言葉を継いだ。
「そんなにお急ぎでなければ、日本への便があるにはあります。駐日全権公使のハリス氏が今上海停泊中の戦艦ミシシッピーに乗っておられ、日本に向け出立の準備を整えておられるはずです。この船で行けばまだ間に合います。乗船のことは士官が管轄しています。私からよりも、貴方が直接士官と掛け合われたほうがいいでしょう。あと一人分乗れるよう交渉してみてください」
ヒコたちは提督の言葉が終わるか終わらないうちに一礼し背を向けた。
つづく
長いあいだお付き合いいただき感謝いたします。いよいよヒコは祖国の土を踏みます。
カタカナによる会話部分は分かりにくいと思いましたので、変えました。区別が必要な場合は地の文に書き添えることにしました。