43.第4章(帰国)---ダイヤモンドヘッド
43.第4章(帰国)−−−ダイヤモンドヘッド
十二月の初旬、ヒコはホノルルで知り合った下院議員のハスキルの招待で開会中のハワイ下院議会を傍聴した。
ヒコは以前ピアス大統領に謁見したときサンダース氏から、アメリカ合衆国の指導者は、人々の代表者である議員が集まって会議を開き、そのなかから選ばれるということを聞いたことがあったが、あのとき以来〈会議〉とはいかなるものか、〈議員〉はどんな仕事をするのか一度見てみたいと思っていた。
ハスキル議員の話では、ハワイの議会はイギリスの真似をしたものということだから、アメリカとはそっくり同じではないであろう。しかし日本が取り入れるとすれば、むしろイギリス型かもしれない。
1795年ハワイ島を制圧しハワイ王国の建国を宣言したカメハメハ1世は、欧米から銃や大砲などの近代兵器を購入するとともに、イギリス人を軍事顧問に迎え、当時サンドイッチ諸島と呼ばれた周辺の島々に侵略を開始する。
そしてマウイ島、モロカイ島、オアフ島の順で次々に攻略し、1810年カウアイ島を手中におさめたのを最後にハワイ王国統一を完了する。そして1840年カメハメハ3世のときハワイ王国は憲法を制定し立憲君主制を採用する。
「我々ハ世界最大ノ君主国イギリスヲ手本ニシタンダ。議会ハ国王ノ任命サレル貴族院ト、国民ノ直接投票デ選バレル下院ノ二院制カラ構成サレテイル。マタ司法部ガ作ラレ、最高裁判所長官ハ国王ガ任命サレル。各島ハ国王任命ノ知事ガ管轄し、行政ハ国王召集ノ大臣会議ニヨリ行ワレルンダ」
議事堂の中を案内しながらハスキルは誇らしげに語った。
「国王ガ一番偉イヨウデスネ。アメリカデハ、国ノ指導者ハ皆ノ中カラ…」
ヒコが喋りかけると彼はヒコの言葉をさえぎるようにしてさらに続けた。言わなくても言いたいことは分かっているといった口振りだ。
「今ノ国王ハ大変立派ナ方ダカラ問題ナイヨ。ソレニ政治ハ万国共通ノ法律ニヨッテ行ワレテイルカラ皆平等ダ。アメリカ、イギリス、フランスナド強国ノ者デモ法令ニ違反スレバ我々現地人ガ裁判デキルンダ。シカモ判決ニハ誰モ異論ヲ差シ挟ンダリハシナイヨ」
ヒコが傍聴した下院の議会では八人の議員が出席していた。半数は現地人で、残りはヨーロッパなどからの帰化人である。議事進行には現地の言葉が使われ、法律や勅令は英語で書かれていた。国王の選ぶ上院は現地人の貴族と国務大臣で構成されているとのことだった。
国王が日本の大君と違って、横暴でさえなかったら、イギリスの議会制度もアメリカ型に少しも引けを取らないように思われた。捕鯨基地として、そして交通の要所として重要な位置を占めていたためとは言いながら、この太平洋の小さな島国が日本に先立って欧米化されていることにヒコはやはり驚かざるを得なかった。
12月9日、測量船フェニモア・クーパー号は再び海洋測量(浅瀬・岩礁探索)の航海に出る。ヒコはまもなくひどい船酔いにかかる。さらに一ヶ月あまりの航海中に二度暴風に見舞われヒコは生きた心地がしなかった。
新入りの政吉は根っからの船乗りのためか、どんなに船が揺れても至って平気で、ヒコの具合を盛んに心配した。
年が明けた1859(安政6)年2月5日、クーパー号が休養のためホノルル港に立ち寄ったときやっと人心地つくことができた。
下船したヒコは気分転換に馬でワイキキまで遠出した。乗馬はボルチモアのサンダース夫人の牧場で乗り回して以来である。
心地よい海風、渇いた蹄の音、刻むような馬の背の上下動。ヒコは船旅の疲れが次第に消えていくのを感じた。そして、ワイキキの浜辺で馬を止め、やしの木の間から青緑色の遠浅の海を見るうちに、何とはいえない力がみなぎってきた。
ヒコは馬を降り、浜辺に出た。幼いころよく遊んだ故郷の浜辺と同じ砂の白さだった。2月なのに、真上から射おろす日差しが真っ白な砂浜に反射しヒコの眼に痛いほどだった。ヒコは眼を細め遠くを見やった。水平線に白い雲が浮かび漁船らしい帆船が何隻か行き来していた。
眼を左に移すと白波押し寄せるワイキキ湾の向こうに、ダイアモンド・ヘッドの先端が褐色に尖って見えた。百年ほど前に、初めてこの山に登った西欧人が、噴火口の壁面に光る石の結晶を発見し、名づけたという。もっとも後ほどそれは彼らが期待したような宝石ではなかったらしい。
ごつごつとして一片の緑としてないこの岩山は、その美しさと壮大さにおいて、紺碧の相模の海の彼方にそびえる富士の霊峰には比べるべくもなかった。
帰りに米領事館に立ち寄り、数種類のニュースペーパーをもらった。日本に関する記事があれば読んでみたかった。艦に帰り順に眼を通していると、アメリカ本土から届けられたものの中に果たして見つけた。
そして読み終えるや、嬉しさの余り飛び上がった。日米通商条約締結の結果、きたる七月に神奈川、長崎、函館の三港が開港される見込みとある。ついに二百五十年の鎖国がおわる。開国しても、日本人はまだ自由に外国とは往来できない。しかしアメリカ人の自分は束縛されない。いつでも、大手を振って日本に帰れる。嗚呼、一刻も早く祖国の土を踏みたい。
胸の高鳴りが押さえられないヒコは、2月9日のカメハメハ3世誕生日の祝賀行事を満喫する。港に停泊する船はみな賑やかに旗を翻らせ、正午には軍艦から21発、陸の砲台からは101発の祝砲がとどろき、捕鯨船のなかには火薬を破裂させて祝う船もある。
海岸近くの通りでは色とりどりのキャラコをまとった現地の男女が馬にまたがって列をなして練り歩いている。実に華やかだった。
フェニモア・クーパー号出向の日が迫ってきた。また船酔いにやられるのかと思うと気が大変重い。一方で日本開港のことがヒコをいたたまれなくもする。測量船はこの後マニラ、香港近海、琉球と回り、そのあと日本に立ち寄るとのことである。
それではあまりに日数がかかりすぎる。いっそクーパー号を辞して、直通の函館便か香港便を探すほうが懸命ではないか。
ヒコはブルック艦長に思い切って打ち明けた。
「私モ君ノ船酔イヲ心配シテイタンダ。船を降リルノニハ私モ賛成ダ。シカシ、香港マデ我慢スレバ、東洋艦隊ニ私ノ知人ガイルカラ、日本ニ往ク便ナラ簡単ニ見ツケテアゲラレルト思ウガ」
艦長はいつにもまして協力的である。
ヒコはあまりに親切な言葉をかけられるとかえって、心優しいクーパー号の仲間たちと別れるのが辛くなる。それに、資金が十分ではない。直ぐに船は見つからない。見つかるまでの滞在費が問題である。
ヒコは知り合いのF・ハンクスを頼ることにした。彼はヒコがシスコのマコンダリー商会で働いていたときの商売仲間で、このときたまたまホノルルに滞在していた。ハンクスは喜んで協力を約束してくれた。船が見つかるまでのあいだ、只で住まいを提供してやろうと言った。
ヒコは三月一日付けで正式にブルック艦長に辞任を申し出た。
艦長は快くこれを受け入れ、何日かして、ヒコに辞職承諾の返書をくれた。ちょうど、函館に向かう捕鯨船のミリシア号の便が見つかった直後のことである。
〈君の健康を考えると今船を降りたほうが賢明と私も思う。合衆国政府派遣の軍艦絵で君を送り届けるつもりであったが、日本の開港など情勢が変わったので、一人で帰国しても大丈夫だろう。数年前に中国から何人かの漂流者が帰国したと聞いているが、君の場合は彼らほどは問題にされないだろう。
〈捕鯨船のミリシア号の便が見つかったと聞く。この船は北太平洋が漁場だから、函館にも立ち寄る。航海もきっと平穏だろう。私はクーパー号で後ほど日本に行くからそのときにまた合おう。
〈別れに際し私は君が私のもとで誠心誠意勤務に励んでくれたことに深く感謝するとともに将来誰かが君を雇うとき、君にふさわしい処遇で迎えてくれることを切に願うものである。
私は君がつつがなく祖国に帰りつき君の家族や知り合いたちに再会できることを心より希望する。そして万一私の助力を必要とする事態が起これば、私は喜んで相談にのらせていただくつもりだ。
幸運と成功を祈っている〉
ヒコはブルック艦長の優しさに今更ながら頭下がる思いがした。J・ブルックはじつに広大無辺の心の持ち主なのであった。
ヒコの下船を知った政吉は驚き懸命にヒコを引きとめようとした。しかしヒコの心は決まっていた。一刻も早く祖国に帰り、欧米諸国との橋渡しをしたい…知り合ったばかりの漂流民には理解してもらえそうにないことだった。
つづく