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42.第4章(帰国)---幾人もの「ヒコ」


42.第4章(帰国)−−−幾人もの「ヒコ」


 それからしばらくして、亀蔵が突然ヒコを訪ねてきた。ヴァン・リードといっしょだった。日本人漂流民の通訳をしてやって欲しいとの頼みだった。ヒコは漂流民たちのいるノースビーチの波止場へ向かう途上亀蔵から詳しい話を聞いた。


 ヒコがサンフランシスコに到着する二ヵ月ほど前、香港からのイギリスの定期船カリビアン号が日本人漂流民十二名を乗せて入港した。


彼らは尾張の国半田村の永栄丸という船の乗員で、五ヵ月近くも海上を漂った後この船に拾われた。たまたま航海を終えシスコに戻っていた亀蔵が呼び出され彼らとの交渉に当たった。


永栄丸乗組員たちは一刻も早く帰りたがった。ところがカリビアン号は香港、サンフランシスコ、バンクーバー間の定期便。いつ祖国に帰れるか分からない。近く日本はどこやらの港をアメリカに開くらしいことを小耳に挟んだ亀蔵は、彼らがアメリカ船で帰国できるよう折衝する。


しかし彼にとって言葉の壁は如何ともしがたく、税関当局との交渉が捗らないうちに、カリビアン号は次の予定地バンクーバーへと出帆した。そして、再び帰ってきたのであった。亀蔵はヒコの滞在先が分からなかったのでリードに案内を頼んだのだった。


 ヒコは自らも漂流民であったし、またかつては越後の国出身の漂流民を世話したこともある。仕事の内容は大体分かっている。


遭難したときの模様や救助されたときの手続きなど、永栄丸乗組員から聞きだしたことをヒコは書類にまとめ税関に提出した。しかし、ヒコの尽力は実らなかった。


このあと再びイギリス船カリビアン号に乗せられ永栄丸漂流民十二名は、香港まで連れていかれ、さらに上海に回された後、そこからイギリスの軍艦で長崎へと送還されることになる。


永栄丸漂流民に対する扱いが、ヒコたち栄力丸乗組員や越後出身の勇之助の場合と違ったのはなぜだろうか。ヒコたちは十七名で一年以上にわたって政府の補助を受けた。永栄丸乗組員は十二名で人数は少ない。


また中国までならアメリカ船の便はかなり頻繁にある。したがって滞在費など経済的な問題は除外できるだろう。


米英戦争(1812~15)のしこりが考えられる。これはナポレオンのフランスと戦っていたイギリスが中立国の船舶を海上封鎖し、アメリカ合衆国の貿易を阻害したため起こった戦争である。


決定打のない戦いは長引き、経済的・軍事的に疲弊した両国はベルギーのガンで講和を結ぶ。米英は兄弟国。骨肉の争いである。半世紀やそこらでは水に流すことは難しかっただろう。

 

 ブルック艦長率いる測量船フェニモア・クーパー号が、万感迫るヒコを乗せてサンフランシスを出港したのは1858(安政5)年9月26日のことである。


ヒコはデッキに立ち、シスコの象徴テレグラフ・ヒルがゴールデンゲートの岬に隠れるまでシスコの町を見つめていた。テレグラフ・ヒルは町の中央にある小高い丘で、そこからはシスコの町やノースビーチの港が一望できた。


また、サンダースの破産で退学を余儀なくされたが、半年ほど通ったカトリックの学校もテレグラフ・ヒルにある。授業の合間や学校への行き帰りにしばしばシスコ湾を見下ろし、行き来する船に故国をしのんだものだ。


 亀蔵、次作、ヴァン・リードの三人がヒコを見送ってくれたが、彼らの別れ際の言葉にヒコは見の引き締まる思いであった。


「幸運ヲ祈ルヨ、彦。危険ガ迫ッテモ、君ナラキット上手クヤレル。日本ハオランダ語ダケハ通ジルラシイカラ、私モイツカ君ノ国ニ行クツモリダ。ソノ時ハ又会オウ。何カ役ニ立テルカモシレナイ。待ッテイテクレ」


 オランダ系アメリカ人で、オランダ語も達者なリードの言葉は心強かった。


しかしながら、亀蔵と次作の言葉はヒコが心の底に眠らせていた不安を呼び覚ました。

「彦どん。ジョセフ、名前(なめえ)、忘れろ」

「エンゲレシュ、喋る。止めろ」

 懸命に首を振り、手を顔の前で左右させた。

 たどたどしい日本語はそれだけヒコの胸に強く刺さった。


 二人もその気になれば帰国は難しくなかった。しかし洋風化した姿で帰国することにはなかなか思い切れなかったのだ。亀蔵と次作が日本語を忘れるまで異国に留まらざるを得なかったという事実こそが、ヒコがこれから立ち向かわなければならない苦難を暗示していた。

 

なおヒコに触発されたのか、ヒコを見送ったあと、次作と亀蔵は別途ではあるが帰国する。次作は翌1859(安政6)年、アメリカ船で日本に送り返され、開港直後の函館の領事館で帰国の手続きを行う。


一方亀蔵は、さらに一年後の1860(万延元)年、香港まで帰ったとき、条約締結を終えて帰国途上の遣米使節団に出会い、故国への便乗送還を許可される。


漂流民に対しては厳しい取扱いをしたはずの幕府が、亀蔵の場合はその帰国に対して寛大な措置をとったのは、アメリカ化したヒコに対する当てつけがあったためと思われる。亀蔵より先に帰国したヒコは当時すでに横浜のアメリカ領事館で働いていた。


 午後4時ごろ、フェニモア・クーパー号が金門を通過し、水先船が引き返し始めた直後、船は突然に南西の強風を受けたと思うまもなく、天を突くほどの大波に襲われた。外洋に出ていた。

 測量艦フェニモア・クーパー号は二本マストのスクーナー(縦帆式帆船)である。ニューヨーク港の水先案内船であったものを政府が買い上げ、メア島の海軍ドックで東洋遠征向きに装備替えした。


96トンと小艦ではあったが、深海測定のための様々な機器を装備していた。乗員は艦長以下21名。二か月分の食料、飲料水を喫水いっぱいに積み込んでいた。


艦長のブルック、ソルバーンと名乗る大尉、技師一人そして書記役で乗船するヒコの4人がキャビン([寝台付き]船室)に常駐した。


 ブルック大尉の海洋調査目的は、サンフランシスコ・香港間の蒸気船に最も適した航路を見つけることである。彼は軍人であると同時に、科学者としても知られていた。彼の発明した深海測量器は、後の大西洋海底電線敷設を可能にする。


 ブルックは水深測定、海底土壌の分析、波浪計測、水中音波の調査研究などを実施した。ヒコの仕事は測量結果を詳細に書き留め、研究実務に参加することだ。サンフランシスコ出向後43日目の11月9日、クーパー号はいったんハワイのホノルルに立ち寄る。


クーパー号がダイヤモンドヘッド沖に差し掛かったころ、迎えの小船が一艘現れた。到着が遅いので遭難したのではないかと思われていたのだ。


 碇を下ろしてすぐ、検事総長のベイツ、新聞記者のデンマン、そして英仏の海軍士官を相次いで訪問し、無事寄航の報告をする。ヒコたちは行く先々で遭難したのではないかと心配していたと言われた。


ベイツは停泊中の宿舎として自宅を提供してくれた。また新聞記者のデンマンは、当地で月刊誌『フレンド』を発行していた。彼は牧師でもあり、かつて漂流民ジョン万次郎の世話に携わった人物でもある。


 ヒコはホノルル滞在中、何人かの日本人漂流民の面倒を見る。尾張の勘太郎と喜平は、前年に他の仲間と漂流中アメリカの捕鯨船チャールズ・フィリップ号に助けられ、後彼ら二人だけが、人手を欲しがっていたイギリス捕鯨船ホボマック号に移され水夫として働いていた。

  

直ちに帰国したいとの二人の意思を確かめたヒコは、捕鯨船の船長の許可を得る前に、ベーツ検事を訪ね相談する。すると彼はオランダ商船ゲデアン号がまもなく函館に向け出向するとの情報をヒコに与える。


ヒコは直ちにゲデアン号の船長に会い、二人の送還を依頼する。さいわい船長はこれを快諾した。


 手はずを整えたヒコはホボマック号の船長に会い、二人の下船について掛け合った。

「彼等ハ本当ニヨク働イテクレマシタ。イズレ函館ニハ寄航スルツモリデシタノデ、ソノ時下船サセル予定デシタ。今直ニ、便ガアルノナラ、早イニ越タコトハアリマセン。喜ンデ協力サセテモライマショウ」


 船長は名残惜しげだったが快く応じてくれた。


ヒコは送還の謝礼として食料用の米を買い求め積み込んでやった。勘太郎と喜平の二人はこのあと無事函館に送り届けられ、ヒコがンフランシスコを発つ前、帰国のため奔走してやった尾張の国半田村の永栄丸漂流民たちと一緒になる。


 数日後、別の漂流民がアメリカの捕鯨船に乗せられ寄港する。彼は名を政吉といって、蜜柑を運ぶため淡路から紀州に向かっていたとき、突然舵が壊れ、沖へ沖へと潮に流された。


漂流するうち他の仲間二人は飢え死にした。自分も朦朧として命つきかけたときに、さいわいアメリカの捕鯨船に発見された。


政吉は水兵姿のヒコを見て最初は戦いているふうであったが、ヒコが日本語で語りかけると俄かに表情を和らげ、ヒコの前にひざまずいた。


ヒコは政吉を立たせてから言った。

「私も貴方と同じように昔漂流してアメリカの船に助けられた者です。今、アメリカ政府の船で日本に帰るところです。もし貴方さえよければ、艦長ブルック氏に乗船願えるよう頼んでみてあげましょう」


「願ったりかなったりでございます。地獄に仏とはこのこと…。なにとぞ、よろしくお願いします」

 政吉はうれし涙に咽んだ。


 ヒコはさっそく政吉を連れて、ブルックのところに行き事情を説明すると、彼は二つ返事でオーケーした。

政吉は月給12ドルの食事見習いとして雇われることになった。


ヒコは再び捕鯨船に赴き船長に政吉に暇をくれるよう頼むと、船長は快く同意した。

「彼ハ大変素直デ勤勉デシタ。仲間カラモティム、ティムト呼バレテ親シマレマシタ。私モ気ノ毒ニ思ッテモイマシタノデ、本人ガ希望スルナラ、連レテ帰ッテ米国ノ教育ヲ与エテヤロウカトモ考エテオリマシタ。シカシ、今ノ話デハ、本人ハ今直グニデモ帰リタイ様子。願ッテモナイ機会デス。ドウゾティムノ望ミノ通リニシテヤッテクダサイ」


 こうして政吉は1859(安政6)年7月無事神奈川に帰り着く。


 ブルック艦長を恩人と崇めた政吉は下船後、艦長が翌1860(万延元)年、遣米使節団を伴って咸臨丸で帰国するまで、淡路へは帰らず、彼の身辺を世話した。


ブルックは政吉の働き振りに感心し、彼の所持品没収をせぬよう奉行所に依頼したうえに、水夫見習いとしての月給12ドルにくわえ、一ヵ年の俸給として大金230ドルを与えた。


犯罪者引き渡しの見返りとして、漂流民を送り返してくれた国に対しては謝礼を贈るのが一般的であった当時としては、これはあべこべで、奉行所の役人はブルックの真摯で寛大な人柄に深い感銘を受ける。


 故郷に帰った政吉は、蜂須賀徳島藩主より天毛の名字を与えられ、帯刀を許される。天毛は、捕鯨船時代と測量船時代に異国人仲間から「ティム」と呼ばれたことにちなむ。


後、彼は小奉行格に取り立てられ、異国人通辞の御用に当たる。また会得した西洋航海術を生かし、阿波藩軍艦の艦長もつとめた。


つづく

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