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41.第4章(帰国)---五年ぶりの亀蔵と次作

41.第4章(帰国)−−−五年ぶりの亀蔵と次作


 明けて六日は出発の日。税関長ブルックと友人ジョンが波止場まで見送りにきてくれた。ヒコはパナマ行きの客船モーゼス・テイラー号に乗り込んだあと、出港前の落ち着かない時間をデッキの上で、ブルックとジョンとの世間話でついやしていた。


するとそこへ見覚えのある人物がやってきた。かつて、ヒコがボルチモアにいるとき、サンダースが紹介してくれたボルチモア出身のメリーランド選出国会議員H・メイであった。

 

メイも覚えていてくれたらしく、すぐにヒコを認め歩み寄ってきた。

「覚エテイテ下サイマシタカ。ココデオ会イ出来ルトハ、思ッテモ見マセンデシタ。私ハコレカラ、日本ニ帰ルトコロデス」

 握手を交わしたあと、ヒコは傍らに立つブルックとジョンをメイに紹介した。


 メイは紹介された二人と握手をしたあと、再びヒコの方に向き直って言った。

「勿論、覚エテイマスヨ。政治家ナラ、日本ガアメリカ合衆国ニトッテ重要ナ国ニデアルコトハ誰デモ知ッテイマス。貴方ハ、ソノ日本ヲ将来背負ッテ立ツ人ダ。忘レル訳ガアリマセンヨ」


 一人旅の心細さを覚悟していたヒコは、降ってわいた幸運に感謝した。メイは訴訟の件で、サンフランシスコに向かうところであった。


 出帆をつげるベルが鳴り渡り、ヒコは見送りにきていた二人の友人と別れの握手を交わした。ブルックとジョンが下船していった辺りを見遣りながら、ヒコがメイと話していると、入れ替わりに船長が乗り込んできた。


船長はヒコを認めるなり、大声で叫んだ。

「オヤ、彦どん。君、彦どんジャナイカ!」

「ソウ言ウ貴方ハ、ミスター・マクゴワン!…本当ニ御久シ振リデス。再ビ御会イデキルナンテ夢ノヨウデス。ポーク号ノ時以来デスネ。アノ時ハ大変御世話ニナリマシタ」                

 この船長はかつてサンフランシスコ税関の監視船ポーク号の副艦長だった。ポーク号はヒコたち栄力丸の仲間たちが拾われて直後、最初にあずけられた船である。


ヒコは彦どんと呼ばれたとき突如として郷愁を覚えた。彦どんはヒコが栄力丸に乗る前の子ども時代の愛称である。それを知っている同じ村出身の者が栄力丸の乗組員のなかに何人かいて、彼のことを彦どんと呼んだのが始まりであった。


ポーク号で世話をされたときはまだ栄力丸の仲間たちといっしょだったから、マクゴワンたちからも彦どん彦どんと親しまれた。ヒコは、ひとり浜辺に出て瀬戸の海を行き交う船を飽かず眺めた日々のことが懐かしく思い出された。


ヒコはマクゴワンの抱擁でわれに返った。


「会エテ本当ニヨカッタ。東部ヘ来テイルトハ聞イテイタガ、ココデ会エルトハ思ワナカッタ。知ラセテクレレバヨカッタノニ。私ハ今ハニューヨーク郊外ニ土地ヲ買ッテ、ノンビリト暮ラシテルヨ。…船ヲ出サナクテハナラナイカラ、マタ後デ話ソウ」

 彼は感に堪えない様子のヒコをあとに残して、急ぎその場を去った。


 マクゴワンは船を出帆させたあと、ヒコを船長室に連れていった。そこにはマクゴワンの息子がいた。年齢はヒコとあまり変わらず、すぐ二人は打ち解けあった。息子は父親より聞いていたのだろう、ヒコのことを大変知りたがった。


ヒコはポーク号を去ってからのことを概略語った。息子はまるで自分のことのように、あるときは悔しがり、またあるときは悲しみつつ熱心に耳を傾けていた。


 傍で聞いていたマクゴワンもよほど心を動かされたらしく、ヒコが話し終わってもしばらくは黙して感に堪えているふうであったが、やがて口を開いた。


「苦労シタンダナ君モ。デモ、ソノ為カ、君ハ一段ト逞シクナッタヨウダ。神様ハ辛苦ヲ耐エ忍ブ者ニ味方ヲサレル。…タッタ今神様ガ、コノ私ニ御命ジニナッタ。コノ殊勝ナ日本人青年ニ、料金ハ中等ノママデイイカラ、上等船室ヲ使ワセテヤレトナ。息子ノ隣ノ部屋ガイイダロウ。食事ノトキハ私ノ隣ノ席ニツイテモラウコトニシヨウ」


船長は力強くヒコの肩を叩いた。


「デモ、中等料金デ、食事マデイタダク訳ニハ参リマセン」

「ヒコ。君ハ私ニトッテハ普通ノ客デハナイ。私ノ友人ダ。珍客ナノダ。ダカラ、遠慮ナドスルナ」

 船長は固辞するヒコを相手にしなかった。


 客船では、船長のテーブルが最上席である。マクゴワンはヒコの席を自分のすぐ左側に作らせた。メイ議員がその次だった。船長の右側、ヒコたちの向かい側にはかなり身分の高そうな老夫婦が座っていた。


船長席に続いて席を与えられるのは上等客以上の待遇である。まったく思いもよらぬ歓待である。ヒコが乗船前に船会社の社長の冷遇に対して我慢したことが、結果的にマクゴワン船長と出会えることにつながった。


大望を胸に祖国に旅立とうとするとき、一時の瑣末な出来事に構っていてはいけない。そう思ってヒコは自らを抑えた。それを神が見てくださっていたのだ。これは正しい心を持つ者のみに対する神様のお導きに違いない。


 この先乗客はパナマ地峡(82キロ)の大西洋岸、アスピンウォール(現コロン)で船を降り、汽車で太平洋岸のパナマまで地峡を横切る。


ヒコたちが到着したのは朝であった。マクゴワン船長は他の乗客が下船した後も、ヒコとメイ議員を引き止め、豪華な朝食に招待してくれた。


船長はさらに同じ汽車に乗って、パナマまでヒコを送って行った。そしてパナマに着くと、サンフランシスコ行きのソノラ号の船長ボービーにヒコを紹介し、便宜を計るよう頼んでくれた。ホービーもこれを快諾した。


ヒコはメイとともに上等の船室があてがわれ、食事の席は上客待遇を与えられた。


 ヒコはニューヨークを出て三週間後の七月二十九日、サンフランシスコに着く。メイ議員と別れたヒコはさっそく、出港準備に取りかかっているブルック艦長をメア島に訪ね、到着したことを知らせた。


ブルックは用意がととのい次第迎えに行くから、それまでシスコで待つよう告げる。


 街に引き返したヒコは旧友のヴァン・リードや栄力丸仲間の亀蔵と次作に再会し無事を喜び合った。


ヴァン・リードは、かつて上院議員のグインがヒコを国務省に推挽するため新聞紙上において、ヒコ・キャンペーンを張ったとき、他紙から転載した記事の中で〈ヒコと付き合いのある最上流の家族のものたち〉と評されたうちの一人である。


 リードの実家は東部のペンシルヴァニア州レディングにあり、ヒコはボルチモアを出立する直前に自宅に滞在する彼を訪ね、帰国の挨拶をしていた。彼の住むレディングの町はヒコに強い印象を残している。


町は首都ワシントンからサスケハナ川を百数十キロも遡った内陸部にあるにもかかわらず、規模は劣るものの町としての機能はワシントンに引けを取らないほど整っているのを見てヒコは大いに驚き、かつ感心したのだった。


リードは一足早くシスコにやってきていたのである。


 亀蔵と次作はやはり船に乗っていた。しかし別々の船だった。五年振りに見る亀蔵と次作は洋装姿がすっかり身に付き、れっきとした異国人に見えた。しかし言葉のほうは日本語と英語の混じったものだった。しかも日本語はたどたどしく英語は片言である。


二人が同じところで働いているならともかく、職場が別々だとすれば話し相手はなく、日本語が怪しくなるのも無理からぬことだろう。


また学校に通ったり、商社で働いたりして、率先して英語を習得しようとしたヒコと違って、船上での力仕事に明け暮れた彼らであってみれば、当然英語の語彙は限られていたであろう。


「彦どん。ミー、覚えとるかのう。次作じゃ。(めえ)はアルガス号じゃったが、今ファルガス・ウエルズの船。(おんな)じカスタム、パトロール・ボートじゃ。…いつ(けえ)れるか、分からン身の上。エブリデー、ハッピー。それでオーケーじゃ」

次作は最後はやけ気味に笑った。


「ユー彦どん。ミー亀蔵。じゃが、今はトラ。みんなワシのことトラ、呼んどる。ミーずっと(おんな)じ船。ユーイング号じゃ。始め、エンゲレッシュ習う、セーラー辞める思うた。彦どん、ユーと違うて、ミー、オールド、ベリー・オールド。ギブアップじゃ。でものう、いつか絶対(ぜってえ)日本帰(けえ)る。それで、ミー、エブリデー、ハード・ワーク。マネー貯めとる」

 亀蔵は瞳を輝かせた。


 争いを好まず世話好きで慎重派だった次作が、今は日雇い的な放蕩生活をする一方で、好奇心も眼端の効き方も人一倍強かった亀蔵が、堅実な生き方をしている。二人のこの余りに対照的な変わりようはヒコにとっては大変な驚きであった。


 亀蔵と次作は同じシスコで暮らしていても、雇われた会社が異なれば、互いに会うことは難しいようであった。この日はヒコに逢えるということで、それぞれのボスの許可をもらい二人はやってきたのだった。


亀蔵と次作も日本語と英語のちゃんぽんで近況を語り合っていた。久しぶりといった様子がありありで実に楽しげだった。


人間は切羽詰まったときは、すべてをさらけ出さないと生きてはいけないのだろう。その点自分は一念発起エンゲレッシュを学んだがため、異国の人々の間に入り込むことができた。


もし亀蔵や次作と同じように漫然と生きていたら、サンダース氏に出会うこともなかったであろう。そのサンダース氏は駐露公使を勤めたほどの国際人で、将来に備えて日本語も忘れないでおくよう、ことあるごとにヒコに忠告してくれた。


そのヒコにしても日本語が怪しくなりかけているのである。


つづく



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