40.第4章(帰国)---もう一人のクリスチャン
40.第4章(帰国)−−−もう一人のクリスチャン
サム・パッチなる人物の正体を明らかにするため、しばらくの間ヒコからはなれ、話を6年前のマカオにもどす。
マカオでヒコたち三人と別れた栄力丸乗組員たちは引き続き、東印度艦隊旗艦サスケハナ号で到着の遅れていたペリーを待った。
しかしアメリカの艦隊で帰国しても追い払われるだけだと教えられた彼らは、現地在住の音吉に頼んで、サスケハナ号から下船できるよう艦長に掛け合ってもらう。武装した軍艦でなく商船など民間の船を使っ他方が無難だと進言される。
艦長J・オーリックは自らの不始末により解雇されたばかりで、職務にはあまり執着していなかった。また十三人の日本人漂流民の面倒を見るのに辟易してもいた。
彼は外交取引の道具としては栄力丸乗組員全員は要らない、一人で十分と考えた。オーリックは一人を残すことを条件に要求をのんだ。
誰を残すか栄力丸船乗りたちは話し合った。遭難、漂流そして異国での不慣れな生活。ともに耐え忍んだ仲だとしても、いよいよとなれば自分の命が惜しくなる。こういうとき貧乏くじを引くのは、温和従順でお人好しの人間である。
選ばれたのは仙太郎だった。彼と同じ芸州出身者の仲間がいれば弁護してくれたかもしれないが、同郷の亀蔵はヒコたちと友に再渡米していていなかった。もっとも、仙太郎はいちばん年下で、ただひとりの炊方であったから、彼に白羽の矢が立てられるのは避けられなかったかもしれない。
到着したM・ペリー提督はサスケハナ号艦長J・オーリックの取った措置に激怒して、十二人を取り返そうとしたが見つけられず、仕方なく仙太郎一人を乗せて浦賀に向かった。
しかし1853(嘉永6)年6月、日本に到着して引き渡される寸前に、仙太郎は日本人役人を前にして、恐怖のあまり声が出ない。名を名乗るのがやっとである。ただ土下座をして顔を上げることもできない。
仙太郎は再びマカオに連れていかれ、翌年再びペリーに従い日本に向かう。仙太郎には今度こその覚悟があったようだが、結局は前年の繰り返しであった。日本側担当役人は米国事情にも通じており、帰国後の穏便な処置を約束したのにである。
この東印度艦隊の一つに乗船していたJ・ゴーブルなるアメリカ人が仙太郎に関心を持ち、彼をアメリカに連れて帰る。ゴーブルはいずれ宣教師の資格をとり、日本でキリスト教を伝道するという夢を持っていた。彼はこの羊のように大人しい青年をサム・パッチと呼んだ。
ゴーブルは仙太郎を故郷ニューヨークのハミルトンにあるマジソン神学校に入学させる。仙太郎は寄宿舎に入れられる。この神学校は東洋伝道を重視する学校で、学校は仙太郎に期待をかけ特別に生活援助を与えた。
仙太郎にしてみれば他人の都合で無理やり押しつけられたこと。周囲の意見に流されるままに生きてきた。
この幽囚に似た境遇は彼に大きな精神的負担を与える。嫌々の学習であるから言語の習得もままならず、成績は少しも上がらなかった。そこにゴーブルの短気が追い討ちをかけた。しばしば仙太郎に暴力をふるった。
行き場をなくした仙太郎はすっかり落ち込み、滝壺に身投げすることまで考えた。結局、彼は一年ほどで学校をやめる。
1858(安政5)年3月6日、仙太郎ことサム・パッチはバプティスト洗礼儀式(幼児洗礼を認めず、自覚的な信仰告白に基づき、浸礼による洗礼を行う)によりバプティスマを受けた。丁度グインの元を去ったヒコが、ボルチモアで職さがしに奔走している時分であった。
翌年11月に彼の庇護者ゴーブルが正式に宣教師として任命され、日本に向かうまで仙太郎はニューヨークで暮らすことになる。なおプロテスタントの一派であるこのバプティスト(浸礼)教会は、日本では、1860(万延元)年にこのゴーブルが伝えたことに始まる。
ヒコが東部に滞在した期間は仙太郎とかなり重なってはいても、場所がボルチモアとワシントンに、ニューヨークと離れれば、出会うことは難しかったであろう。噂としてなら仙太郎は知っていたかもしれない。
ヒコは大統領や国会議員の日程に入れられる程の人物であった。ゴーブルや神学校関係者が英語に堪能な日本人青年の話を聞いていたとしても不思議はない。
もっとも仙太郎にその噂が届いていたとして、彼が本来内向的な性格であり、当時絶望のどん底にあったことを考え合わせれば、彼が噂の人物に会ってみたいとは思わなかったに違いない。
ヒコにしてもグインに連れ回され、あるいは職さがしの多忙な日々。仮に行く先で仙太郎のニュースを知っている人物がいたとしても出会うことは難しかっただろう。
ヒコが祖国へと旅立つ直前のニューヨークにおけるこの滞在が、唯一二人が再開できるチャンスであった。互いに眼と鼻の先にいたのである。
急ぎの旅でなかったらヒコはきっと、サム・パッチなる人物をおとなっただろう。そうすれば、少なくとも精神的に八方塞であったサム・パッチにとっては救いの再会となったに違いない。
仙太郎はまもなくJ・ゴーグルのもとを去り、バプティスト教会からも離れる。帰国を決意した彼はサンフランシスコで日本行きの船を見つける、しかし旅費がない。事情を知った人々からの寄付と船で雑用係をするとの条件で、乗船を許される。そして、1860(万延元)年4月1日、無事帰国を果たす。
仙太郎が十年ぶりに祖国の土を踏みしめた横浜の町では、彼より一足先に帰っていたヒコが働いていた。
教会を出てしばらくしてヒコは旧知のセント・ジョンに偶然出会い、彼の自宅に招かれた。セント・ジョンはヒコがシスコにいるとき、サンダースを介して知った。彼の家は貴顕紳士たちの住む五番街にあり、四階建ての大邸宅だった。
屋敷の前の広い道路はレンガが敷き詰められ、歩道と車道との間には柳の木が植えられていた。彼の両親は同じ屋敷内の別棟に住んでいた。
ヒコが異国での苦労話をするとジョン一家は入れ替わり立ち代り、言を尽くして同情してくれた。昼食は眼も覚めるほどきらびやかな食堂でいただいた。サンダース家でも出されたことがないような豪華な料理ばかりだった。
翌五日は出港予定であったが、独立記念日の祝賀行事でさらに一日延期される。ヒコは、昼間はホテルでブルックと会食し、午後は彼といっしょに観兵式を見物した。夜はジョンも加わり三人で劇を観た。
『悪童学校』という、イギリスの劇作家R・シェリダン(1751~1816)の風刺喜劇である。
「ヒコ。私ト同ジ様ニ笑イ転ゲテイルトコロヲ見ルト、君ハ完全ニ我々ノ言葉ヲ習得シタネ」
「全クダ。二ツノ国ノ言葉ガ自由自在ニ喋レルナンテ、私ニハ信ジラレナイ!」
劇の可笑しさに度々腹をかかえて笑うヒコを見て、ブルックとジョンがしきりに感心した。
実際ヒコは、日本語が怪しくなり始めていた。
ヒコとしても暇を見つけては、サンダースの友人テー・ケアリーがくれた日本語の書籍を開き日本語を忘れない努力はしていた。
しかし、読み書きだけでは言語の運用能力を維持することは不可能であるし、さらに彼の日本語の語彙が寺子屋時代止まりであったため、彼の知らない日本語が数多く見られた。
つづく