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39.第4章(帰国)---神の悪戯

39.第4章(帰国)−−−神の悪戯



 平静さを取り戻したヒコは、車中でサンダースから手渡された手紙を読んだ。「アメリカにおける私の父」そのままに、愛情にあふれた手紙であった。


 六年前のサンフランシスコ税関長時代に、初めてヒコに出会い、ヒコが漂流民仲間の通訳を見事にこなすのを見たとき、ヒコの中に類まれな才能を見出した。そして開国後における日本での活躍を期待して、ヒコに欧米の進んだ教育を受けさせることを思い立った。


そのため、ヒコをボルチモアのカトリックの教会学校に入れ、一時的な中断はあったものの、駐ロシア公使辞任後、さらなる対ロシア交渉のために再びシスコに赴いたとき、当地のカトリックの学校に再び入学させた。


もっとも、破産が原因で、学業をヒコにあきらめさせなければならなかったのは一生の痛恨事である。ヒコにいくら謝っても謝りきれない。しかしマコンダレー商会においてヒコが経験した実務と、習得した実務的知識は将来必ずや役に立つだろう。


ヒコほどの教育と知識、天性の怜悧と機才があれば、いかなる職業でも職務を全うできることを保証する。


ただグイン上院議員からのヒコの国務省入りの話に飛びついたのは、一生の不覚であった。破産で冷静な判断力を欠いていたなどは、名の通った実業人としては言い訳にならない。


 さらにヒコの将来について、〈議会ハ日本トノ条約ヲ批准シタカラ、日本トノ外交関係ガマモナク始マルコトダロウ。モシ公使館ノ何カレッキトシタ地位ニ就ルチャンスガ君ニクレバ、君ガ任命サレルヨウ、私モ骨折ルツモリダ〉と思いやった。


 最後は、愛別離苦のなか、「父」が「息子」に対する親愛の情を吐露していた。


〈此ノ六年間、我々二人ノ間ニハ、イツモモットモ親シイ関係ガアリマシタ。君ハイツモ誠実、高潔、忠実ニシテ丁寧デ恩義ニ厚ク、君ノ友人ダケデナク、アラユル人々ノ信用ト尊敬ヲ受ケルニ足ル人デシタ。君ト別レルノハ、イカニモ残念ダ。シカシ君ノ将来ノタメニハ、ドンナ犠牲ヲ払ッテモ、決シテ高価ニ過ギルコトハナイトイウ望ミト期待デ、コノ私モ元気ヅケラレマス。君ノ成功ト幸運ヲ祈リマス。御体御自愛…〉


 ヒコは涙で眼がかすみ最後まで読むことができなかった。

            

 サンダースが手紙の中で触れた「条約の批准」とは、1858(安政5)年6月19日、アメリカ初代総領事T・ハリスが神奈川(現横浜)で調印した日米修好通商条約のことで、その年の6月米国議会で批准されたばかりであった。


アメリカ側全権・東インド艦隊司令官M・ぺリーが1853(嘉永6)年、日米和親条約を締結し、日本に開国を約束させてからすでに5年が経過していた。


翌年ペリーはこの和親条約を再度突きつけるべく、日本に赴くのであるが、香港到着が予定より大幅に遅れる。そのため同船で帰国予定であったヒコたちが亀蔵、治作とともに再びアメリカに渡ることになったのでる。


 日米修好通商条約は勅許を得ずして大老・井伊直弼(海防係・岩瀬忠震/井上清直)が独断で調印したもので、孝明天皇が不満の勅諚を下すなど、これを機に日本の政治情勢が風雲急を告げ始める。


この条約は日本側には関税自主権はなく、治外法権は認めるという日本側にとって極めて不平等な条約であった。


 祖国で高まりつつある政情不安については何一つ知らず、帰国の途についたヒコは、7月4日アメリカ独立記念日の早朝3時にニューヨークに到着した。


 メトロポリタン・ホテルにチェックインをして早めの朝食を済ましたヒコは、すぐにニューヨーク税関に向かった。自分を日本まで送り届けてくれる測量船クーパー号ブルック艦長の弟J・ブルックを訪ねるためだった。彼はニューヨーク港の税関長の職にあった。


 ヒコが行くと彼は待っていたようにして切り出した。


「政府カラノ旅費ハ300弗ハ出テイマス。船賃ハ上等ガ300弗、中等ガ200弗、下等ガ150弗トナッテイマス。貴方タノコトハ、兄カラ頼マレテイマスノデ、中等ノ料金デ上等ニ乗レルヨウ交渉シテミマショウ。残リノ100弗ハ小遣ニデキマスカラ」


彼はすぐさま船会社に掛け合ってやろうと言った。

要望はすぐにでも通りそうな口振りだった。


サンダースから船会社社長宛の紹介状をもらっていたので、ヒコがそれを手渡すと彼はますます心強気に見えた。しかし、希望はかなえられなかった。


ブルックの弟が紹介状を示すなどして懸命に頼み込んでくれたが、社長はどうしても首を縦に振らなかった。規則は曲げられないの一点張りだった。


「アノボス野郎ノ御天気屋ニハ、ホトホト手ヲ焼クヨ。機嫌ノ好イ時ハ、二ツ返事デオーケーナノニ、悪イ時トキタラ、アノ通リダ。畜生!」


彼は事務所を出たあと、融通のきかない社長に対して怒りをあらわにした。

税関長の事務的な対応に対してヒコは複雑な思いをしないこともなかったが、それより弟のブルックが親身になってくれたことが有難かった。


 この日はちょうど日曜日。帰路ヒコは教会に立ち寄った。祖国への旅立ちを前に、はやる心を抑えたかった。


ミサはすでに始まっていた。独立記念日と重なったためか礼拝堂はいっぱいである。立っている人もたくさんいる。ヒコは出入り口近くの人垣の間に隙間を見つけ体を滑り込ませた。途中からなので説教の中身がいまひとつつかめなかった。


静まり返った礼拝堂に響き渡る司祭の声を聞いていると、ヒコの心はやがて漂流以来の九年の月日へと移っていった。


黒船、カメラ、テレグラフ、陸蒸気など神業を生み出す欧米の技術をこれまで至る所で見聞きした。もっとも驚かされるのは大統領というものの存在である。国の指導者が人々の中から選ばれるという考えは今でも信じられない。


この仕組みは〈ニュースペーパー〉によって支えられているようである。人々がニュースペーパーをとおして政治に参加している結果である。彼らの物を製造する神業的技術も、この日毎の瓦版なくしては考えられない。


まもなく日本は開国をする。そうすれば自分は新しい国の建設に役立つことができる。アメリカ版瓦版を祖国に広めたい。漂流民、異教徒、異国人と虐げられるだろうが、自分には後ろ楯がある。市民権を獲得しているからアメリカ政府が守ってくれる。


心静かなとき、苦しい記憶は鮮やかによみがえる。マカオで別れた栄力丸の残り十三名は無事日本に帰り着いただろうか。シスコにいるはずの亀蔵、治作はどうしているだろう。そして、サンダース氏と出会う機会を作ってくれた、新潟出身の漂流民は帰還できただろうか。

  

それにしても、今自分があるのは、サンダース氏やトーマスたちを含め、多くの人々の支えがあったおかげだ。


ミサが終わり帰ろうとしたとき、ヒコは誰かに肩を叩かれた。見知らぬ中年の男性だった。

彼は突然呼び止めたことを詫びたあと、ヒコが日本人どうか尋ねた。ヒコがそうだと答えると安心したように口を開いた。


「貴方ガ日本ノ人ナラ、サム・パッチト言ウ人ヲ知ッテイマスカ。彼モ日本人デ、今隣町ノハミルトンニアルマジソン神学校デ学ンデイマス。私ノ友人ガ神学校デ教エテイテ、彼カラ聞キマシタ」


 ヒコは東部のこの辺では自分が唯一の日本人であるとサンダース氏も言っていたし、第一サム・パッチは日本人の名前ではない。中国人は日本人とよく似ている。カリフォルニアなど西部には中国人が多い。中には司祭を目指す者もいるだろう。


 ヒコが首を振ると彼はさらに言葉を継いだ。


「彼ノ友人ニ宣教師デジョナサン・ゴーフルト言ウノガイマス。彼ハ昔、日本ニ行ッタコトガアルラシイノデス。東印度艦隊ノ船デ行ッタノデスガ、偶然同ジ船二サム・パッチガ乗ッテイテ、知リ合ッタソウデス。サムトイウソノ日本人ハ、漂流先ノ中国カラ帰国スルトコロデシタ。ソシテ…」


ヒコは栄力丸仲間の誰かもしれないと思った。しかし、仲間はみな帰還後の取調べを大変恐れていた。そういう彼らが、どんないきさつがあるにせよ、改宗することは考えられない。まして、アメリカの、しかもこの東部地域にまでやってきているなど。


それに、会うとしても時間がない。

「残念デスガ、サム・パッチトカ仰ルソノ方ハ私トハ関係ノナイ方ダト思イマス」

 ヒコは丁寧にお辞儀をして男性に背を向けた。


 もしヒコの出発が次の日でなく、三四日先だったなら、ヒコはきっとサム・パッチと呼ばれる人物に会っていただろう。そして、ヒコはともかく、相手サム・パッチの人生は大きく変わっていただろう。


つづく




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