38.第3章(新世界)---別離
38.第3章(新世界)−−−別離
出発の日まで少し余裕があったので、ヒコは旧知のヴァン・リードに別れの挨拶をするため彼の住むペンシルバニア州のレディグに向かった。ヴァン・リードはヒコがサンフランシスコのミッション・スクールで学んでいたとき、サンダースより紹介してもらった。
貿易業などいくつもの事業を手がけ、カリフォルニアでは若手実業としてのを知られていた。実家は東部ペンシルバニアにあった。
途中、州都ハリスバーグで列車の待ち時間のあいだに、町を見物した。ハリスバーグはサスケハナ川の東岸に位置し、同川河口にある首都ワシントンから110マイル(176キロ)の距離にある。町の中央には高さが100フィート以上ほどもある大伽藍がそびえていた。
伽藍の周囲にはたくさんの木々が植えられ、全体を鉄の柵が取り囲んでいた。他に銀行、監獄、役所であろう、イオニア式の柱を持つ立派な建物が見られた。鉄道、運河、道路など交通が発達し、各地の物産が集まっていた。町はサスケハナ川より鉄管で上水道を引いていた。
ヒコは、こんな内陸部に、規模こそ劣るものの、首都ワシントンと同じような町があることに驚いた。そこでは人々が代表者を選び、選ばれた者は人々の幸せのために働いているに違いなかった。
こんな町が合衆国中至るとこるにあるとすれば…ヒコはそれ以上のことは想像することができなかった。
案内書に寄れば、町名の由来は布教にやってきて先住民に殺害された伝道師ハリスに因むらしい。町の人々はペンシルバニア訛りのドイツ語を話す。風貌は粗野であるが、人柄は極めて温厚、正直、勤勉とのことである。
ペンシルバニアはクエーカー教徒(内面的信仰を重んじ、国王の権威や教会制度を否定)のウイリアム・ペンが、1682年にイギリス国王からの返済金代わりに北米に得た土地で、ペンはイングランド、ウェールズのみならずオランダやドイツのクエーカー教徒、さらにはルター派のカトリック、ユグノー派のプロテスタントにも入植を勧めた。
ヒコが見聞きしたドイツ語を話す人々というのは、そういう敬虔なクリスチャンだったのだろう。
それとも、1727〜1770年に迫害を逃れドイツから移住してきたアミッシュ(1693年J・アマン設立)、あるいはその子孫のことかもしれない。
一切の現代文明を拒否した彼らの生き方(電気・水道・自動車など使わず、古風な衣装を纏い、人力と馬力だけの農業と自給自足程度の家畜飼育で生活を支える)は、ハリソン・フォード主演の映画『刑事ジョン・ブック/目撃者』で広く知られた。
もっともヒコが訪問した頃は、電気も自動車もなかったのだから、21世紀の我々がタイムスリップしたほどの驚きは感じなかったであろう。
ストーリーから離れ、生臭い話になるが、時代をぐっと下った1979年3月、放射能漏れ事故を起こした米国のスリー・マイル島は、州都ハリスバーグの南東、サスケハナ川の中洲に立つ。
この事故は、後年1986年4月に発生したチェルノブイリ原子炉爆発に次で二番目に大きな放射能汚染事故で、世界を震撼させた。島の名前は島の長さが3マイルあるところから付けられている。
『グーグル』による俯瞰映像で施設を見下ろすと、特有の円筒形の巨大な二本の蒸気排出設備と、そこからもくもくと吹き上げる蒸気の柱、そしてその手前に原子炉収容棟が小さく見える。この原子炉二機のうち一方が暴発寸前にまで行ったのだった。
さて、話は再び19世紀半ばに戻る。ハリスバーグ見物を終えたヒコは、午後2時発の汽車に乗り、4時半ごろヴァン・リードの住むレディングの町に着いた。すぐにホテルを取り荷を解いた。片田舎に似ず清潔な宿で、主人は物腰低く、よく気が付いた。
夕食は20人ほどの客が一同に会したが、主人がこれに加わったのには驚いた。給仕に当たるものも極めて礼儀正しく、料理は多少冷えてはいたが、心のこもった美味しい食事であった。
夕食後、一服吹かしてからヴァン・リードを訪ね到着の挨拶をした。
翌日はディナーに招かれた後リードに町を案内してもらった。レディングは緑の山に囲まれ清らな川の流れる、絵のように美しい町である。ウイリアム・ペンというイギリス人の子孫が設計したとのことで、道路は広く取られ、まっすぐに伸びている。
また民家と民家のあいだは十分な間隔が取ってあり、どの家も芝生と樹木に取り囲まれていた。
官庁、学校、裁判所、銀行、取引所、教会堂など、州都ハリスバーグに引けを取らない町の構えであった。人々は勤勉の質に富むらしく、途中サスケハナ川支流の水力を利用した帽子製造工場を見せてもらったが、労働者は休憩するのも惜しそうにせっせと立ち働いていた。
当地に三日間滞在したあと、ヒコは帰途についたが、汽車に揺られながら、ハリスバーグやレディングのような町が合衆国中にあるとすれば、アメリカは大変な力を持った国だと思った。まもなく祖国に向け発つのだという心の時めきもすっかり忘れてしまっていた。
フィラデルフィアでは郊外ペニメンスビルに住む、もう一人の旧知ウェブスター宅を訪ねた。ウェブスターは、最初の渡米後、ヒコが栄力丸乗組員たちとともにサンフランシスコに留め置かれていたときに、世話をしてくれた税関所属の監視船ポーク号の艦長であった。
ヒコたちは制服、衣類、寝具など、ポーク号水兵と同じ用具一式を供給され厚遇された。英語教師トーマス・トロイに出会ったのも、ポーク号においてであった。
ウェブスター宅にも三日間滞在し、珍客として歓待された。帰るときは家族みんなでペニメンスビルの駅まで来て見送ってくれた。偶然避暑にやってきていた彼の母親もきてくれた。
帰りの車中ヒコは自分が、数え切れないほどたくさんの人々の世話になっていることをあらためて感じた。
ボルチモアに戻ったヒコは出発までの一週間連日、たくさんの当地の友人知人から晩餐、朝食、お茶の会などに招待された。あまりに多すぎて幾らかは辞退しなければならなかった。しかし別れの挨拶には、招待してくれた全員を訪ねた。
1858年7月3日、出立の前夜、夕食のテーブルでサンダースは、自分の破産によりヒコに学問を途中で諦めさせなければならなくなったことでヒコに謝った後で、さも残念そうに付け加えた。
「今マデ君ニハ黙ッテオイタガ、君ガ私達ノモトヲ去ルコトニナッタ以上、話シテオイタ方ガイイダロウ。私ガ君ヲピアス大統領ニ紹介シタコトヲ覚エテイルダロウ。アノ時、後デ大統領カラ、君ヲウエストポントノ士官学校ニ入レテハ如何カトノ進言ガアッタンダ。
私ハ将来君ニハ軍人ヨリモ実業家ニナッテ欲シクテ、ソレデクリスチャンノ学校ニ入レタ。シカシ、今コウシテ破産シテ無一文ニナッテミルト、アノ時大統領閣下ノ忠告ニ従ッテオケバヨカッタノニトツクヅク悔ヤマレル」
ヒコはサンダースの意外な告白に少し驚いたが、それは慈父サンダースが良かれかしと考えて選んでくれた道、致し方なかった。
翌1858年7月3日、ついに出発の朝が明けた。
「彦。本当ニ行クノネ。貴方ガ行ッテシマウナンテ私、信ジタクナイワ」
「彦ト一緒ニ暮ラセテ本当ニ楽シカッタワ。元気デネ」
「何時カマタ此処ニ帰ッテ来テネ、彦。旅ノご無事ヲ祈ッテイマスヨ」
サンダース夫人を始めサンダース家の人々が口々にヒコに名残を惜しんだ。
「御世話ニナリマシタ。家族ミタイニ親切ニシテモラッテ、大変有リ難ウゴザイマシタ。貴方ガタサンダース家ノ人達ノコトハ一生忘レマセン。ドウゾ、体ニ気ヲ付ケテ…」
ヒコは別離の言葉を準備していたが、胸が詰まって途中までしか言えなかった。
ヒコの乗った馬車が出るとき家族がヒコを見送った。
娘のエミリー、エリザベス、アンナは、夫人がハンカチで眼を押さえる前に立ち手を振った。上二人の娘、エミリーとエリザベスの眼も曇っているようであった。
同じ屋根の下で暮らしているときはヒコはそれほど意識しなかったが、永久の別れとなるであろう今、彼女たちが瞳を潤ませているのを見ると、驚くほど女らしく見えた。
ヒコは滞在中職探しなどで多忙なあまり、彼女たちを知る暇が見つけられなかったことを残念に思った。
サンダース氏は駅まで見送ってくれた。
駅に到着した後切符を買いプラットホームに出るまで、サンダースは押し黙っていた。先に立ってゆっくりと歩を進めるサンダースの大きな背中を見ていると、ヒコは彼の下で過ごした五年の日々がつい昨日のように思い出された。
ニューヨーク線に停車している車両の一つに乗り込んだサンダースは、空いている窓側の座席を見つけヒコを座らせると、自分は通路に立ち発車までしばらく一緒にいた。そして時折、瞬かせながら眼を逸らす以外は黙ってヒコを見ていた。
発車の午後五時が近づいたとき、サンダースはヒコに歩み寄り手を握りしめた。
「デハ、彦君。オ別レダ。君ノ無事ヲ祈ル。マタ機会ガアッタラ帰ッテ来テクレ。…コレ、後デ読ンデクレ。私ノ気持チヲ書イテイル」
サンダースは別れの言葉を述べたあと、ヒコに手紙を手渡した。
「ミスター・サンダース。大変オ世話ニナリマシタ。貴方ノ親切ハ一生忘レマセン。日本ニ帰ッタラ、期待ニソウヨウ、日米ノタメニ尽シマス。ドウゾ御健康ニハ十分オ気ヲツケニナッテ下サイ。夫人ヤ娘サンタチニモ宜シクオ伝エ下サイ」
ヒコも精一杯感謝の気持ちを込めて握り返した。
汽笛が響き煙突から煙が流れ始めると、サンダースは再びヒコの手を握り、声を出して祈った。
「神ヨ。此の青年ノ前途ニ幸多カレ!」
ヒコは胸が詰まってしゃべれなかった。
サンダースは手を放すとヒコに素早く抱擁を与え、急いで降りていった。
サンダースはプラットホームに立って、ヒコのほうをじっと見ていた。そういう彼は、本当の息子と別れる慈悲深い老父のようで、実に寂しげだった。ヒコにもサンダースが実の父親のような気がしてきた。途端に熱いものがこみ上げてきた。
列車が動き始め、ヒコは窓から身を乗り出した。
サンダースは手を振りながら付いてきた。ヒコも手を振った。列車がスピードを上げたため、サンダースは追うのを止めた。まもなく、サンダースの姿もボルチモアの町も涙でかすんでしまった。
つづく