37.第3章(新世界)---帰化
37.第3章(新世界)−−−帰化
職探しに徒労の日々を重ねるにつれ、ヒコの絶望感は深まった。難破した栄力丸で大海を幾日も幾日も漂流したときの気分に似ていた。あのときはオークランド号が拾ってくれた。しかし今回は誰も拾ってくれそうにない。
ワシントンやボルチモアには数え切れないほどの会社や商店があるのに自分を必要としてくれるところは一軒もない。通りで行き交う異国人の顔が赤鬼に見えた。
政治利用目的だとしても、〈完全にアメリカ化しており…〉というグイン上院議員の新聞紙上におけるヒコ評は、決して誇張ではなかった。ヒコはこの頃ややもすれば日本語を忘れる程にアメリカ文化を吸収していた。
抑揚強弱の効かせ方、高雅流麗な筆記体、ヒコの英語は現地人と比してほとんど遜色なかった。しかし、太平洋越しに東洋をにらむサンフランシスコとは違って、カリフォルニアからでも何千キロも東に隔たった東部諸州では、日本は未だ耳慣れぬ国。
日米双方の文化に精通した希有な存在ではあっても、ヒコを必要とする状況からは程遠かった。
「ボルチモアハ、ニューヨーク、ワシントンニ次イデ三番目ニ大キナ都会デ、人口ハ17万人モイルノニ、東洋ニ関心ヲ持ツ者ハ、ホトンドイナインダ。ワシントンニ居ル政治家ノ中ニハ、日本ヲ知ラナイモノモイル程ダ。マア、気長ニ構エルコトダ」
夕食後、コーヒーをすすりながら、サンダースは気落ちしたヒコを励ました。
手持ちの所持金がわずか二ドルになった頃、シスコで短期間働いたことのあるマコンダリー商会の出資者で、当時中国に滞在していたT・ケアリーが、ボストンに住む彼の父親をとおしてヒコに資金の融通を手紙で打診してきてくれた。
あわせて、必要なら日本の書物を何冊か送ろうと思うが、もし希望するなら父にその旨申し出てくれとも認めてあった。
日本の書籍は傷心のヒコを慰めるためもあったろうが、将来に備えてヒコに日本語を忘れて欲しくないとの願いも託されていただろう。ケアリーはサンダースの親友。帰国して米日の架け橋として活躍させたいとのサンダース氏の希望を知らないはずはなかった。
「地球ノ反対側ニ居る人ニ、ドウシテ私ノ窮状ガ分カルノデショウ。モシヤ、貴方ガ御知ラセニナッタノデハ?」
ヒコは不思議に思ってサンダースに尋ねた。
「神様ガ御恵ミクダサッタノダヨ。君ガ将来、果タスニ違イナイ、アメリカト日本ノ掛ケ橋ノ仕事ヲ祝福サレテイルノダヨ」
サンダースはこう言っただけで、ヒコの質問に直接は答えなかった。
マコンダリー社におけるケアリー氏との付き合いはほんの数ヶ月。なのに何千何万マイルを隔ててのこの温情。捨てる神あれば拾う神。ヒコは胸が熱くなり言葉が出なかった。
ヒコはボストンの父君に感謝の手紙を送った。そして、融資は必要なときは申し出るので是非お願いしたい、また日本の書籍は直ちに送って欲しいと認めた。
以後、雨天続きの鬱陶しい五月であったが、極めて心地よく過すことが出来た。
好い事は重なるもの。六月に入ってすぐ、待望の便りがジョン・ブルック海軍大尉から届いた。
〈計画中の中国・日本沿岸調査団具体化のめどが立ったので、その書記として君を雇い、祖国に送り届けてやろう。日本は開国前であるため、東北か北海道辺りにひそかに上陸させてやるつもりだ〉
ブルックからの知らせはヒコに二重の喜びを与えた。帰国が現実味を増し、再び底を尽きかけた生活費を稼ぐ目途が立った。
旅装の準備、若干の借金返済などのため、T・ケアリー氏に融資を申し込んだ。もちろんブルック大尉に雇われることも知らせた。
ケアリー氏からは帰国できることを心より喜ぶとの書状が届き、銀行手形が同封してあった。さらに必要なら遠慮なく申し出るよう追記してあった。ヒコは有難くて涙に暮れた。
出発を間近に控えたある日、サンダースがヒコを呼んで言った。
「ヒコ。君ガ有頂天ニナルノハ、無理ナイコトダトハ思ウガ、出発前ニ合衆国ノ〈ナショナリティー〉ヲ取ッテオキタマエ。日本ハ未ダ鎖国中ダカラ、何事カガ君ノ身ノ上ニ起キタトキノコトヲ考エルト、ソノ方ガ安全ナンダ。アメリカノ〈ナショナリティー〉ガアレバ、日本政府ハ手ガ出セナイノダ。我ガ国ガ介入デキル口実ガデキルカラネ」
ヒコは〈ナショナリティー〉の意味が理解できなかった。しかし、本人に代わって、身分を保証してくれるものらしい。サンダースの提案が並々ならぬ決意に基づいていることが、彼の真剣な表情から読み取れた。
帰国に際して受けるであろう災難は大よその想像はつく。異国の風に染まることは罪人になることである。万蔵たち栄力丸乗組員たちから耳にたこができるほど聞かされたし、船に乗る前は母や寺子屋の先生などからことあるごとに教えられた。
ヒコの染まりようは半端でない。髷を落とし、洋装し、英語をしゃべり、禁制のキリシタン改宗までしてしまっている。外見も中身もすっかり入れ替わっているのである。サンダースの心配と助言は当然すぎるものであった。
とはいえ、牢獄に繋がれても、取調べが厳しくても、欧米の文化を身に付けようと決心した身。仮にアメリカ人となって、祖国から疎んじられても、しばしの間であろう。開国して新しい政府が生まれれば、きっと手続き一つで再び日本人に戻れる日がくるに違いない。
帰国後の華麗な姿を描き続けてきたヒコの眼には、ただの紙切れ一枚で再び変更できる肩書き程度の問題にしか見えなかった。
ヒコが日本に向けボルチモアを発つ日の迫った1858年6月7日、サンダースは合衆国地方裁判所にヒコを連れていき、帰化申請を行った。そして四五日して、ギル裁判所判事とスパイサー裁判所書記の署名の入った帰化証明書が発行された。
ここにヒコは日本からアメリカへの帰化第一号として、アメリカ合衆国の市民権を得たのである。しかしこの決断が、以後におけるヒコの運命を決定的に変える。異邦人として自ら押した刻印に、自らの境涯を翻弄されることになる。
市民権を取得する前後に、測量船クーパー号艦長付き書記への辞令書を受け取った。ブルック艦長が封書で送ってくれた。ブルック艦長の代筆であった。
此処にアイザック・トゥシー海軍長官の命を奉じ、船長付き書記に任用する。七月五日発の定期船にてニューヨークをたち、サンフランシスコに来られたし。尚到着され次第直ちに届け出られるべし。
艦長合衆国海軍大尉
J・M・ブルック手記
メリーランド州ボルチモアに於いて
ジョセフ・ヒコ貴下
同封の私書に、来る6月20日士官以下を率いてサンフランシスコに向かう、ついてはニューヨーク税関には自分の弟が働いており、前もってヒコのことを耳に入れておくから、その旨弟に告げれば、万事うまく取り計らってくれるだろうと書き添えてあった。
漂流以来、夢に見続けてきた故郷播磨の白砂青松の海辺と白帆を日に輝かせ船の行き交う瀬戸の海。そして、霊峰富士の山。
今は亡き万蔵殿とともに、紺碧の相模の海の船の上からはるかに望んだ富士山は実に神々しく美しかった。あの富士の山がもうすぐ見られるのだ。
ヒコは胸の高鳴りを抑えることができなかった。
つづく