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36.第3章(新世界)---慈父

6.第3章(新世界)−−−慈父


 ヒコの人気は日増しに高まった。しかし、初めてこの国の土を踏んだときのことを思い出すと複雑な心境にならずにはいられなかった。サンフランシスコの町で万蔵や栄力丸の仲間たちと仮装舞踏会に招かれ、見世物にされた。仲間たちの髷や羽織袴が珍しがられた。


ヒコは今や髪も衣服も洋装し、片言ながら英語もしゃべっている。「ヘレンの谷」以来牛乳を愛飲しているおかげで体格も立派になった。しかし、彼らのヒコを見る眼は、仮装舞踏会のとき向けられた眼と同じものだった。蔑みの眼つきだった。


 ヒコは行く先々で判を押したように同じことを尋ねられた。

「侍ガ腹ヲ切ルトイウノハ、本当デスカ」

「大君ノ権力ハ、大キイデスカ。アメリカノ大統領ト比ベテ、ドチラガ強イデスカ」


 日本の国の風俗習慣や日本人一般についての質問は、幼い時分の知識で何とか対応できたが、武士の世界はまったく知らない。


「切腹、聞イタコトアル。デモ見タコトナイ」

「分カラナイ。デモ、アメリカ大統領、強イ思ウ。大統領、皆ガ選ブ」

 どちらが強いかの質問には大統領に軍配を上げた。


 ヒコは答えるときいつも、サンダースに連れられて、初めてピアス大統領に謁見したときのことを思いだした。少しも横柄でなく物腰がたいそう柔らかで、それでいながら眼つきは鋭く怖そうだった。


服装もヒコたちと変わらず質素だった。サンダース氏とは同じソファに掛けて、膝を突き合わせて話をしていた。「威ありて猛からず」寺子屋時代、素読の授業で習った言葉そのままだった。


 執務室には大統領一人しかいないのも驚きだった。官邸に入って執務室に行くまででも出会ったのは案内係、秘書など数人だけ。護衛は門番の守衛しか見なかった。


あれは人々から信頼されているからに違いなかった。腕力で押さえつけるより理屈で納得させるほうが、事あるときには力を発揮するに違いなかった。


「ニュースペーパーデ私達ハ政治ニ参加スルノダヨ。大統領ノ仕事ハ、ニュースペーパーデ国中ニ報道サレル。次ノ大統領ヲ選ブトキノ参考ニスルワケサ」


 ホワイトハウスへの往還に、馬車の中で聞いたサンダース氏の言葉は今でも耳に新しい。

ヒコはニュースペーパーの持つ底力みたいなものを感じたのだった。


 上院議員のグインは、ヒコの名前が十分に知れ渡った時分を見計らって、ヒコを第15代大統領J・ブキャナンに会わせた。ヒコのかつて謁見したピアス大統領は民主党の指名争いでブキャナンに敗れていた。


 今回は自分のことが訪問の目的であったので、ヒコは最初から緊張していた。ブキャナン大統領は年齢はかなり行っているようだったが、威厳温容の両風采を兼ね備えているのはピアス大統領と同じだった。


 グインは日米関係構築の重要性と、そこで期待されるヒコの役割について大統領に言を尽くして説いた。詳細は分からなかったが、グインの真剣な眼つきと、時に身振り手振りを交える懸命な話し振りから見当がついた。


 グインが話している間、大統領は熱心に耳を傾け盛んに頷いた。口を挟むことはほとんどなかった。ヒコは大統領がグインの提案を受けることを確信した。


 グインの説明を聞き終わるや、大統領は言った。


「君ノ言ウトオリダ。シカシ、国務省ニハ空席ハ無イト思ウ。私ガ就任シテ七ヶ月ニナルカラ、書記モ含メテ皆塞ガッテイルハズダ。一度、国務省ニ行ッテ空席ガアルカドウカ尋ネテミテクレタマエ。モシ、アレバ、君ノ友人ヲ直チニ任命サセテモラオウ」


「仰ルマデモナク、国務省ニ出向キ問イ合ワセマシタ。仰セノ通リ空席ハゴザイマセンデシタ。デスカラ、コウシテ御願イニ参ッタノデデス。閣下ノ御力デ何トカ特殊ナ地位デモ御作リ頂ケナイモノデショウカ」


「私ノ一存デ出来ルコトデハナイ。国会ニ議案ヲ出シテ審議シナケレバナラナイ。次ノ国会マデハ、マダ大分暇ガアルシ…」


 最高権力者とは思われない、煮えきらない返事である。しかし、人々に推された立場であれば当然の意見かもしれなかった。


 グインも横紙破りなお願いと最初から分かっていたらしく、残念そうな気配は見せつつも、そのまま引き下がった。


十二月に国会が開催されたが、ヒコの件は議事には取り上げられなかった。ヒコの国務省入りは結局挫折した。これはブキャナン大統領が民主党出身だったことが考えられる。保守傾向の強い民主党は外交問題に消極的で、特に対日関係には関心が低かった。


 ヒコの入省画策が単に個人的な政治利用目的にすぎなかったグインにとっては、計画が頓挫した以上、もはやヒコには何の用途も見出せなかった。グインは自ら声をかけた責任上、ヒコを解雇もできず秘書として雇った。しかしグインの態度は急速に冷ややかになった。


 これまで何度か裏切られたことがあった。しかしそれは自分の無知や早合点から起こったことで相手には責任はなかった。今回はそうではない。明らかにグインは自分を踏み台にするつもりだった。手のひらを返したようなこの冷たい扱いがその証拠だ。


 ヒコは二ヶ月ほどしてグインに暇を申し出た。

「残念ダガ、希望ヲカナエテヤレナカッタ以上、イツマデモ引キ止メテオク訳ニハイカナイダロウ。カリフォルニアニ戻ルナラ、旅費グライハ払ワセテモラオウ」

 言葉とは裏腹に、安堵の表情がありありと見て取れた。


「イイエ、サンフランシスコニハ帰ルツモリハアリマセン。ボルチモアニ、知リ合イガイマスノデ、ソコデ仕事ヲ探ガシマス。貴方ニモ誰カ心当タリノ方ガアレバ、紹介状ヲ書いてイタダケマセンカ」


 相手が淡白であれば、こちらも無理を頼みやすかった。


 ヒコは用意していた依頼事項を持ち出した。シスコでの貿易業を棒に振らせたのだから、この程度なら当然でしょう、とでも言うように、相手に突きつける語気であった。


 ヒコがボルチモア滞在を意図したのは、「ヘレンの谷」におけるサンダース家の人々との夢のような日々が忘れられなかったこともあるが、グインの秘書をしていて昵懇となった海軍大尉ブルックの存在があった。


 ブルックには、中国や日本の沿岸地域を調査する計画があり、実現すればヒコを調査員の一人に雇って、故国まで送り届けてくれることを約束していた。サンダースの破産により後見人を失った現在、祖国帰還がヒコの胸のなかで現実味をおび始めた。


 グインは快くヒコの依頼にこたえ、ボルチモア税関長宛に紹介状を書いてくれた。もっともこの愛想のよさは、その直後に彼に対して取られた仕打ちの伏線かもしれなかった。


グインはカリフォルニアに比べれば、格段に近いボルチモアまでの旅費さえ払ってくれなかったばかりでなく、大統領に会う前、自分の一存でヒコに新調させた、ヒコの社交用の服代75ドルまで給料から差し引いたのであった。手元に残ったのはわずか20ドルしかなかった。


 ボルチモア税関長に託した就職の希望は、折からの不景気のためかなえられなかった。傷心のヒコは再びボルチモアのサンダース家を訪ねた。落魄老齢の実業家を当てにするのは忍びなかったが、故国から遠く離れた孤独の身空では、他に頼る知る辺もなかった。


 サンダースは倒産の残務整理のためカリフォルニアに行っていて留守であったが、夫人や子どもたちがいて歓迎してくれた。


 グインとの一部始終を夫人に話すと彼女は、ヒコにひとしきり同情したあと励ました。

「当分ノ間、私達ノ処デ寛ギナサイ。仕事ハユックリ探セバイイワ。夫モ間モナク帰ッテ来ルハズデスカラ、相談に乗ッテクレルワ」


 五月のある雨の日、サンダースがカリフォルニアから帰ってきた。

 彼はヒコの報告を聞いた後申し訳なさそうに言った。


「彼モ所詮ハ政治屋ダッタ訳カ。政治屋ハ約束バカリデ、実行ガトモナワナイ。ソウイウ人物ニ君ヲ託シタ私ノ方モ浅ハカダッタ。トニカク、君ガ来テクレタコトハ大変喜バシイ。自分ノ家ニイルツモリデ、クツロイデクレタマエ」


 倒産による残務整理を終えてカリフォルニアから帰ったばかりのサンダースは、行く当てのないヒコを温かく迎えてくれた。

 

 昔と変わらぬ慈愛に満ちたサンダースの言葉は、傷ついたヒコの心にしみた。


 ヒコは部屋代は善意に甘えるとして、食費など雑費は僅かでも払うことにした。懐が底を突くまでには職を見つけなければならない。


サンダース氏の知己やワシントンに来てからヒコが知り合った人々を頼って、東奔西走した。しかし、難しかった。前年に始まった恐慌の余波だった。


つづく





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