35.第3章(新世界)---ワシントンへ
35.第3章(新世界)−−−ワシントンへ
翌1855(安政二)年11月5日、B・サンダースが共同経営する「サンダース・アンド・ブレンハム」銀行が破産し、サンダースが米露太平洋貿易の責任者の職を解かれた。サンダースは取り付けの損失補填に、自らの資産を当てることを余儀なくされた。
新聞は破産の原因は不況にあると報じたが、実際はサンダースの名声をねたむ地元の財界人、経済人、米露通商関係者たちの仕組んだ罠であった。
「友人ノ、ブレンハム達ノ裏切リダヨ。新シク設立サレタ銀行ニ、彼ガ残ッテイルノガソノ証拠ダ。イツカ君ニ、友情ト金銭ハ別ト言ッタガ、ソレヲ私モ忘レテイタヨウダ」
サンダースはこう言って、彼の破産を報じる新聞を握りしめた。
サンダースがクリミア戦争でロシアを支持したこともまた仲間を背かせる一因となった。ロシア海軍アメリカ西海岸専属主計官および駐ロシア公使の時代に、彼は多くのロシアの高官や政財界人たちと親交をきずいていた。ロシア支持に見えたのは当然と言えた。
クリミア戦争は、不凍港を求めて南下外交を伝統的国策とするロシアが、エルサレムの聖地管理権を主張してトルコと戦った戦争である。東アジア植民地との連絡路・地中海支配を脅かされるイギリスはトルコに味方して参戦した。
戦いの大部分が行われたセヴァストポール要塞がクリミア半島にあるためこう呼ばれる。イギリス婦人ナイティンゲールが敵味方なく傷病兵を看病し、赤十字運動の先駆けともなった戦争として知られる。
アジア進出を強めていたアメリカもロシアの膨脹に危機感をいだき、トルコとイギリスを支持した。従ってサンダースの親露姿勢はアメリカの国策に反したのであった。
サンダースの経済的庇護を失ったヒコは、しばらくは親切な友人の援助で通学を続けた。しかし、その人もまた破産したため、結局は学業は半年しか続かなかった。
ヒコは世話になったサンダース氏への経済的恩返しをするため、マコンダリー商会という貿易会社に就職した。1856(安政三)年の4月5日のことであった。
マコンダリー商会は、破産後にサンダースが友人四人とともに新たに設立したサンダース・アンド・ケリー商会が出資する仲介貿易専門の会社で、世界各国と取引を行い、活気に満ちていた。
貿易業は自分が習得を目ざす西欧文明とは、随分かけ離れているように思われたけれども、口に糊し慈父サンダースに報いるには仕方なかった。
「ヒコ君。私ノ不徳ノタメ迷惑ヲカケテ申シ訳ナイ。デモ貿易ノ仕事モ君ノ将来ニ大変役ニタツト思ウヨ。世界ノ国ノ事ガ分カルカラネ」
自身の不幸にもめげず、明るく励ましてくれるサンダースにヒコは頭が下がった。
「貴方ハ私ノ御父サン。息子、御父サン助ケル当タリ前。サンダース氏言ウコト分カリマス。学校行カナクテモ勉強出来ル。英語習エル」
言われてみると、そうかも知れなかった。生活に密接に結びついた物資を扱うこともまた、人々の考え方を学ぶすぐれた方法ではないか。単に学校に通ったり、役人になることだけではその国の表面しか見ていないとも言える。
ヒコは友人のトロイ、栄力丸の仲間亀蔵と治作のことを片時も忘れたことはなかった。
マコンダリー商会に職を得るといっそう強く思い出された。
貿易関係であれば船舶関係で働くであろう彼らの所在がつかめるかもしれなかった。また初めて一人前に働くことの大変さを教えられた。
再渡米してから、これまでは半人前扱いだった。監視船フローリック号の料理手伝い、ベニシアのホテルでのボーイ。頭を使わない単純労働だった。フローリック号では船長のウィルキンソンに、ベニシアの一方のホテルでは中国人コックに扱き使われた。しかしそのたびトーマス、アーガス号のピーズ船長たちが助けてくれた。
これからはどんなことがあっても、他人に頼ってはいけない。自分で解決していかなけらばならないのだ。亀蔵と治作は月給60〜70ドルの仕事に就いた。一人前の大人だったからだ。言葉はまったく通じないし、きっと苦労したに違いない。
自分は今、見習いとしてではあるが、れっきとした職に就くことができた。さらにサンダース氏の肝いりということもあり、中途半端な仕事ぶりでサンダース氏を失望させてはいけない。
仕事中にヒコは失敗して注意されるたび、亀蔵と治作のことを思った。
ヒコは三人に会ってみたかった。しかし時間が許さなかった。以前の単純労働と違って商業実務には専門的な技術や知識の習得が要求される。さらにヒコの場合は言語のハンディキャップがある。
ヒコは早く一人前の商売人になるため仕事以外でも寸暇を惜しんで学習に励んだ。休みの日にはサンダースをつかまえ、仕事上の質問をした。
一年がたち、貿易や商売の面白さが分かりかけた頃、重大な転機がヒコにおとずれた。カリフォルニア選出の上院議員W・グインが、ヒコを秘書にしたいと申し込んできた。
ヒコの経歴を知ったグインが将来、ヒコを国務省に入れ、日本との交渉に役立てることを目論んだのであった。
ワシントンからの手紙による申し込みであったし、グインがヒコの将来にどの程度関心を持っているのかも不明であったため、サンダースはこの申し出を辞退した。
しかし二度三度となお熱心に申し込んでくるので、サンダースがヒコを雇う目的を詳細に告げるよう折り返しグインに尋ねると、次のような返事が来た。
〈ペリーによる和親交渉の結果、日本はやがて開国するはずです。日本は二〇〇年来の鎖国により、外国の情勢に全く通じていません。今ヒコ殿が、ワシントンで政府の仕事について、世界情勢等が学ばれれば、帰国してから米日の掛け橋となって、祖国に大いに貢献できると思われます。政府部内に、すでにヒコのための職務を用意しております。
もっともヒコ殿はアメリカの市民でいらっしゃらないので、雇い入れるまでには多少の時間が必要と思われます。しかし、十分な根回しをすれば、その障害も取り除くのはそう困難な事ではないでしょう。さような訳ですから、是非ヒコ殿をワシントンまで御寄越しください。〉
サンダースの疑問に答える内容だった。
「ピアス大統領ガ士官学校入リヲ君ニススメラレタトキ、私ハオ断ワリシタ。ソレハモット相応シイ道ガ君ニアルト思ッタカラダ。ヒコ君。グイン上院議員ガ持ッテキテクレタ話コソ、君ニ用意サレタ道ダ」
サンダースはヒコのワシントン行きについに同意した。マコンダリー商会のケリーも賛成した。
議会の合間に地元に帰っていたグイン夫妻に従いワシントンに行った。到着する前グイン上院議員がヒコに言った。
「君ヲブキャナン大統領ニ会ワセヨウト考エテイル。シカシ、君ハ東洋カラ来タ全ク無名ノ青年ダ。大統領ニ直グニ会エル訳デハナイ。何シロ、合衆国ノ大統領。大変多忙ナオ方ダ。マズ、準備ガ要ル。残念ダロウガ少シノ間、辛抱シテクレタマエ」
「一度、ピアス大統領、会ッタコトアル。サンダース氏ト一緒。サンダース氏、何モシナカッタ。私達突然行ッタ。大統領喜ンダ。今度、如何シテ?」
「ソノウチ分カルヨ。マア、私ニ任セテオキナサイ」
グインはヒコの質問には答えず、心配はないと言いたげに頷くばかりだった。
グイン上院議員の根回しとは新聞紙上でヒコの紹介キャンペーンを張ることだった。
〈ヒコはまるで自分の国で受けたごとく十分に教育され、英語の読み書き会話にも精通している。また彼は完全にアメリカ化しており、将来は必ず対日交渉において欠かせぬ人材になるであろう。
ヒコはボルチモアにいるとき受洗し、ジョセフは洗礼名である。彼は後見人べヴァリー・サンダース氏より機会ある度に、祖国の言葉は忘れないよう忠告されてきた。将来、日米の掛け橋役が期待されるからである。ヒコはまたアメリカの市民権を取得することを切望している〉
グインはさらに、『サンフランシスコ・ジャーナル』紙に掲載された「アメリカ化した日本人」との、ヒコに関する記事をも転載し、最後は次のように結んでいる。
〈ヒコはすでに、ワシントンでピアス前大統領や、他の高官にも紹介され、サンフランシスコに帰ってからはヴァン・リード、その他の最上流の家族と暮らした。ヒコはアメリカに現在住む唯一の教養あるアメリカ化した日本人である。将来日本との交渉において間違いなく有益な仲介者となるであろう〉
「アメリカ化した日本人」の記事はたちまちのうちにヒコをワシントン社交会の寵児にした。夜はパーティー、昼間は各種集まりにとヒコは盛装した紳士淑女から引っ張りだこにされた。
つづく