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34.第3章(新世界)---迷い

34.第3章(新世界)−−−迷い


 青年期は自己形成・人格形成の時期である。〈自分は何者か〉、〈自分には何ができるのか〉、〈自分は何もできないのではないか〉など、精神および行動様態が極端から極端へと動揺する「疾風怒濤」の時期である。


 ボルチモアにおけるサンダース一家との生活は、彦太郎の物の見方・考え方に計り知れない影響を及ぼした。滞在期間がわずか一年数ヶ月と短かくはあったが、少年には過酷過ぎると苦難と放浪の後の夢のような生活であることを考慮すれば、時間は問題にならないだろう。


そのことは彦太郎が帰国してからも、終生乗馬を楽しみ、乳牛を飼うほどミルクを愛飲したことからもうかがわれる。

 

彦太郎たちが「ヘレンの谷」からボルチモアに戻って間もなく、サンダースがヨーロッパでの米露通商交渉の任務をおえて帰ってきた。


「露西亜カラ氷ヲ購入スル交渉ガマトマッタンダヨ。アラスカカラカリフォルニアマデ運ベバ、真夏デモ涼シク過ゴセテ、皆健康ニナレルニ違イナイ。露西亜ノ利益ニモナルシネ。氷売買ノ件ハ全部私ニ任サレタンダガ、サラニアメリカ西海岸ニオケル露西亜海軍ノ専属主計官ニモ任命サレタンダ」


大任を果たして帰米したサンダースは誇らしげに語った。


バルカン戦争に続きクリミア戦争でトルコとの戦いに忙殺されていたロシアは、シベリア・アラスカ経営に手が回らず、アメリカ側との交渉を早期に切り上げたかった。


ロシアはアメリカ側から現地在住のロシア人に、食料、衣料品など日用雑貨を供給してもらう代わりに、シトカの氷のほか、キナイ半島の石炭、木材、魚などをアメリカに供給することになった。また中古のロシア船を低価格で譲り渡した。


 1854年11月の初旬、彦太郎はロシアとの交渉の仕上げに赴くサンダースに連れられて、再びサンフランシスコに行くことになった。ミッションスクールは退学せざるをえなかった。


出発が迫ったある日のことサンダース夫人は彦太郎に言った。

「ヒコ。洗礼ヲ受ケテカトリック教徒ニナリナサイ」


 サンダース夫人は敬虔なクリスチャンであった。


サンダースに連れられボルチモアに来て一年あまり、彦太郎はすっかりサンダース家の一員となっていた。宗教心の篤いサンダース夫人にとっては彦太郎が洗礼を受け、クリスチャンになることは極めて自然な成り行きであったのだろう。


一方夫のサンダースはそれほど宗教心は強くなく、特には反対もしなかった。欧米の風俗習慣を身に付けさせる程度の軽い認識であったのかもしれない。彼は実業家としては立派な成功を収めてはいたが、外交官としての経歴は、駐露西亜公使としてのわずか一年ほど。


ヨーロッパはともかく、東洋の小国・幕藩体制下の日本についての知識はほとんどなかったに違いない。ましてや、カトリックへの改宗が将来、彦太郎の人生を重大に左右することになるなど想像もつかなかっただろう。


 彦太郎は大変な岐路に立たされていると思った。


祖国のキリシタン禁制のことは知っている。異国の言葉を喋ったり、風俗に染まったりすると、帰国したとき厳しいお咎めを受けるということも心得ている。


万蔵や栄力丸仲間たちから耳にタコができるほど聞いた。洗礼というのは魂を売ることのようで、だとすれば心の底までこの国の人間になるということだ。到底許されることではない。


 とはいえ、帰国をあきらめ香港からトーマスや亀蔵、治作たちと再びアメリカにきたのは自らの考えからである。欧米の新しい知識と技術を学び、新生日本の建設に自分を役立たせるためだった。


黒船、遠眼鏡、ギヤマンの鏡、カメラ、ガス灯、それに電信機、蒸気機関車…こういった魔術を理解するにはその魔術を使う人々の言葉をしゃべらなければならない。そう信じて英語を懸命に学んでいる。


ミッションスクールでは聖書講義の授業があった。もちろんカトリックというキリスト経の宗派が運営しているらしいから、当然といえば当然である。しかしこの宗教は他にもいろいろな宗派があって、競い合っていると聞く。


これは人々の間に宗教が入り込んでいることの証ではないか。


大抵の人々は日曜日には家族そろって教会に行くし、家庭で子どもを躾けるときは決まって神様を引き合いに出す。また、片田舎の小さなホテルでも、部屋には必ず聖書が備えられている。


これらはみな宗教が人々に親しまれていることを意味しないか。とすればクリスチャンになることは、彼らを理解するのには役立つかもしれない。


 日本が国を開いて欧米のものを取り入れるとなると、キリスト教も入ってくるであろう。日本にも昔からたくさんの宗教があったようである。夫が船乗りであったためか、母親が手を合わせ、また経を唱える姿をよく見た。


お天道さん、お稲荷さん、お地蔵さん、神棚、仏前。別々なものを拝むのは、それぞれ違った神様がいるのだろう。


都合で使い分ける。魂を売り渡すなどと深刻になるから駄目なのだ。再び帰ってくるぐらいの呑気な考えでいればいいのだ。


 1854(嘉永七)年10月13日、彦太郎はボルチモアの聖母マリア大聖堂で受洗した。神父は締め切った小さな部屋に彦太郎を導き、神の存在や信仰について質問を加えたあと、名前を順に読み上げながら気に入ったのを選べと彼に言った。


ところがどれも響きが今一つよくない。最後に発せられた「ジョセフ」が心地好く聞こえた。ジョセフ・ヒコの誕生であった。


時に彦太郎は満17歳と2ヵ月。鎖国禁教後、日本人としての最初の正式受洗者となった。

丁度この時分、香港で別れた長助たち栄力丸漂流民一行が長崎に送還され、長崎奉行の取り調べを受けていた。


 洗礼を受けジョセフ・ヒコとなった彦太郎は、二日後サンダースに従ってボルチモアを発ち、ニューヨーク、パナマを経て1854(安政元)年11月28日、サンフランシスコに到着した。

日本では元号が嘉永から安政に替わったばかりだった。


二週間後、ヒコは現地のカトリックのミッションスクールに入った。現サンフランシスコ大学の前身である。


サンフランシスコには一年半前に別れたトーマスや亀蔵、治作がいるはず。しかし、税関長の地位にはもはやいないサンダースには、船関係の情報は伝わらない。彼らがどの船に乗り、その船がどこにいるかなど一切分からない。


ヒコとしても久々に会ってみたい気持はなくはない。しかし、今は学問が先である。学校からの帰りに港のほうに足が向きかけることもあるが、そういときは思いとどまる。学校は町の中央、丘の上に建っている。


授業の合間に、校舎の窓から船の行き交う美しい湾を見下ろし、彼らとの日々を懐かしく偲ぶばかりである。


平穏で充実した学生生活は、しかしながらわずか一年しか続かなかった。ヒコが学業を断念させられる事件が起きた。


つづく


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