表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/85

32.第3章(新世界)---ホワイトハウス


32.第3章(新世界)−−−ホワイトハウス


サンダース氏の言葉の内容はさっぱり分からなかった。見回すと一同眼をとじて唱和している。西洋式の経文のようである。彦太郎も慌てて真似た。しかし何を言っていいか見当もつかず、頭を垂れておくしかなかった。最後に彼らが言った「アーメン」は聞き覚えがあった。


万蔵がハワイで葬られたとき、セントメリー号の士官たちが、万蔵の墓前で祈りの言葉を述べたが、最後に「アーメン」と言った。胸に指先で何かを描く真似をするのも同じだ。


そういえば、トーマスは食べ始める直前に頭を下げ、同様に指を前で動かしていた。祈りの言葉を発しなかったのは、面倒くさかったのかもしれない。


 彦太郎はこれまで、この国の家族の食事風景を見たことはあったが、いつも外側からで参加するのは初めてだった。日本でも食事のときは、箸を取る前には合掌して「いただきます」、終わると再び手を合わせて「ごちそうさま」と神に感謝する。この「アーメン」は「いただきます」に当たるに違いない。


 果たして、食事を終えたときも同じだった。サンダース家の人々は何事かを唱和し、再び「アーメン」と言った。そして胸に指で何かを描いた。こちらでは「ごちそうさま」も「アーメン」なのだ。始めも終わりも、同じ言葉で片付ける…死んだときも「アーメン」。


アメリカ人は何と横着な人々なのだろうと彦太郎は思った。しかし、食べ物に感謝する気持は日本と変わらないことを知ると、彦太郎はサンダース家の一員に少しばかり加わったような気がした。


「彦君。君ヲ、コノ国ノ最高支配者ノトコロヘ連レテ行ッテヤロウ。大統領トイッテ君ノ国ノ大君ミタイナモンダ」

 一週間ほどたったある日のこと、サンダース氏が彦太郎に言った。


 彦太郎は耳を疑った。アメリカでは驚きの連続である。東部に来てからでも、マンハッタンの街、ガス燈、テレガラフに陸蒸気と立て続けに眼を剥いた。しかしサンダース氏が今口にしたことは、それらの比ではない。この国で一番偉い人物とは、日本で言えば、江戸の千代田城にいる将軍様。雲の上の人だ。


彦太郎は一張羅の服に着替え、サンダース氏とともに馬車に乗り込んだ。


「彦。貴方凄イワ。大統領ニ会エルナンテ!」

「ソウヨ。私達、見タコトハアルケド、大統領ト話ヲシタコトナンテナイモノ」

 娘たちに見送られ出発した。

 末娘は幼くて事態がよくはつかめないのか黙って手を振っただけだった。

 

 B・サンダースが大統領と会う目的は、米露通商条約締結の打ち合わせのためである。彼はまもなく駐露公使として赴任し、ロシア皇帝ニコライ一世に謁見しなければならないのだ。


「露西亜ハネ、トルコト開戦シタバカリダ。戦争ヲ始メルト、アラスカ方面ノ経営ガ重荷ニナル。従ッテ、今ガ露西亜ト交渉スルチャンスナンダ。勿論、我々ハ、ドチラニモ味方シナイ。中立ダ」


 彦太郎は途中サンダースの説明を聞かされたが、露西亜という国名は少し耳にしたことはあったが、トルコは初めて聞く名前だった。外国の遠いところで起こっている出来事らしく、彦太郎にはどうでもいいようなことに思われた。


しかし、合衆国を代表して国と国との取り決めに出かけるのだから、サンダース氏は大変な人物なのだと思った。


 首都ワシントンはボルチモアの南西50キロあまりのところにある。


昼過ぎワシントンに入った彦太郎たちの馬車は、まもなくペンシルヴァニア通りを抜けたあと、立派な鉄柵の門をくぐり、豪壮な大理石の邸宅の玄関階段前に止まった。ホワイトハウス(1792年着工・1800年完成)である。純白の巨大な屋敷を初めて見る彦太郎には白亜の館は眩いばかりだった。


サンダースが降りていってベルを鳴らすと、ひとりの体格の立派な男が現れた。サンダースから名刺を手渡された男はすぐに消えた、がまもなく引き返してきて、彦太郎たちを招じ入れた。二人は二階の大広間に案内された。


「アソコガ大統領ノ執務室ダヨ。コノ国ノ首長ノオラレル部屋ダ」

 サンダースの言葉には少しも緊張した響きは感じられない。親しい友人にでも会いに行くといったくつろいだ態度である。


 執務室に入ると痩身色白の紳士がひとり机に向かっている。年の頃は五十歳ぐらい。黒っぽい服を着て、見るからに実直で温厚そうな人物である。彦太郎たちが近づくのを認めると、彼は書き物をしていた手をやすめ立ち上がった。アメリカ合衆国第十四代大統領フランクリン・ピアスであった。


 サンダースは机を回って近寄ってきた大統領と握手をかわし、何事か一言二言親しげに話したあと、彦太郎を紹介した。


「コノ青年ハ日本人ノ彦ドンデス。最近カリフォルニアカラヤッテ来タバカリデス」

 サンダースは彦太郎を紹介した後さらに何か言った。自分に関することらしかったが早口で彦太郎は聞き取れなかった。


 耳を傾けていた大統領はやがて事情を飲み込んだらしく、彦太郎に歩み寄り手を伸べた。

「私モ会エテ嬉シイデス。遠イトコロ、ヨク来テクレマシタ」

「私モ、オ会イデキテ、光栄デス」 

 彦太郎は圧倒されながらもぬかりなく挨拶をした。


 大統領は手を放すと彦太郎に傍らの椅子を指差し掛けるよう言った。しかし失礼と思ったので、お辞儀だけしてその場に立っていた。まもなくピアス大統領とサンダース氏が椅子に座り小声で何かを話し始めた。


二人の深刻そうな表情から、国家の機密に関する要談らしいことが想像された。気を利かして席を外した彦太郎は窓辺へと引き下がった。そこからはポトマック川沿いの美しい景色が一望できた。


 あの紳士がアメリカ合衆国の最高の支配者なら、サンダース氏と同じく質素なフロックコートしか身に付けていないのは驚きだ。自分たちと接した先ほどの態度は、少しも儀式張ってはいなかったし横柄でもなかった。


従者だって一人も付いていない。サンダース氏と話すときも、同じ椅子に向かい合わせに座って、対等な人間同士みたいである。


日本では殿様は出掛けるときは、共の者を多数従える。引見を許されるとなると、こちらは大層で厳しい儀礼を尽くさなければならないし、殿様は素振りも口振りも尊大なことこの上ない。また、服装の違いは提灯と釣鐘。錦と襤褸である。義父や栄力丸の仲間たちはよく話していた。


地方の殿様でさえこうである。ましてや将軍様となると、考えも及ばない。第一殿様でも将軍様に会うのはめったにないらしい。


彦太郎はアメリカと日本のこの違いは、国の大きさの違いに似ていると思った。漂流中に救われた直後、オークランド号の船長が地図を開き、日本とアメリカを指し示し教えてくれた。アメリカに比べて日本の何とちっぽけだったこと…今でも鮮明に覚えている。


「アメリカハ〈デモクラシー〉ノ国ダカラ、指導者ハ国民ガ選ブンダ。〈デモクラシー〉トイウノハ、人々ガ権力ヲ持チ、コレヲ行使スル思想ノコトダ」

ここへ来る途中サンダース氏から説明を受けた。


デモクラシー。彦太郎が聞いたこともない言葉であるが、頭を皆で選ぶことと言い換えれば分かる。しかしこの広い国で、どうやって…。


 ピアス大統領はサンダースとの話し合いを終えると、再び彦太郎のもとにやってきて握手をもとめた。彼は彦太郎たちを執務室の入り口まで送って出た。


 彦太郎がピアス大統領に謁見したのは、M・ペリーが下田で前大統領フィルモアの書簡を幕府に手渡して(1853年7月8日)、わずか一ヵ月あまり後のことである。前大統領フィルモア(副大統領から昇格)は日本開国にきわめて前向きであった。


しかし、まもなく行われた大統領選挙でホイッグ党が破れ、民主党のピアスが勝利した。民主党は保守色が強く、日本への関心は高くはなかった。


とはいえ、ピアスは国家の舵取りを任された合衆国大統領。遠くアジアの国からやってきた青年を前に、遼遠たる彼の前途を思い描いたに違いない。彦太郎たちがボルチモアに帰ってしばらくして、ピアス大統領は彦太郎のウエストポイント士官学校への入学をすすめてきた。


つづく


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ