31.第3章(新世界)---陸蒸気
31.第3章(新世界)−−−陸蒸気
夕食後、サンダースは彦太郎をつれてホテルの地下室に降りていった。穴蔵のような所であったが、地上から光をとるよう工夫され、内部は明るかった。
「コレハテレグラフトイウ機械ダ。ココカラ私ノ生マレタ町マデハ、200マイル余リ離レテイルガ、明日帰ルト言ッテ、今カラコノ道具仕掛ケニ伝エレバ、間モナク先方カラ返事ガ返ッテ来ルンダ」
サンダースは彦太郎に言いながら係のものに言づてを頼んだ。
半信半疑の彦太郎は部屋に戻り、少ししてから再び地下室に連れられて行き待っていると、やがて返事が届いた。
「無事ニューヨークニ到着ナサレタコトハ誠ニ嬉シイコトデス。家ノモノ全員元気ニ過ゴシテイマス。明日ハ、ボルチモアノ蒸気機関車ノ駅マデ、オ出迎エニ参リマス」
まるで魔法か手品である。そうでなければ、からかわれているとしか思われなかった。
「人間言葉、空、飛ブ、私、信ジナイ」
「明日ニナレバ、分カルヨ、彦君」
サンダースは白い歯を見せて電文をポケットにしまった。
「一時間ニ40マイルカラ60マイルモノ速サデ走ルンダヨ」
翌日駅に向かう途中サンダース氏が言った。
彦太郎は異国の距離の表し方にはなかなか慣れることができない。
彦太郎の怪訝そうな表情を見てサンダース氏が付け加えた。
「今、私達ガ乗ッテイル馬車ノ五倍程ノ速サダ」
やっと見当がついた。しかし、今度はサンダース氏の言葉が信じられなかった。
機関車が大音とともに蒸気を吹き上げ、巨大な煙突から真っ黒な煙を吐き出したかと思うと、車両がゆっくりと動き出した。そして最初遅かった動きは次第に速さを増していき、しばらくすると車窓の景色が見極められないほどの速さで走り始めた。
建物も人々も見えたと思うと、飛び去り見分けがつかなかった。ところが車内の揺れはそれほどでなく、読書するのに全く差し支えなかった。
「彦君、ドウダネ。コレデモ信ジラレナイト言ウツモリカネ」
眼を丸めている彦太郎を見てサンダース氏は笑った。
町を抜けたあと汽車は野原ばかりの中を走った。右も左も見渡すかぎり広い原っぱで、所々にたくさんの牛が放し飼いにされていた。そして線路近くにいた牛は、列車が近づくと驚いて逃げだした。時々遠方に丘の頂が低くかすんで見えた。
生まれ故郷の古宮でもこれに似た景色があったのを思い出した。庭先の柿木に登り、海とは反対方向、彦太郎の家越しに見やると、近隣の村里や田畑のはるか彼方に播磨の山並みが低く連なり伸びているのが望めた。
昼ごろフィラデルフィアの駅でしばらく停車し、ボルチモア駅には午後九時ごろに到着した。
ニューヨーク州マンハッタンとメリーランド州ボルチモア、距離は約300キロ。現在はアムトラックでたったの2時間である。彦太郎たちがマンハッタンのホテルを出たのが朝の七時だから、半日近くも列車の中にいたことになる。しかし、陸を走る「蒸気船」・陸蒸気に初めて乗った彦太郎にとっては、一瞬一刻たりとも退屈しない旅行であったに違いない。
列車がボルチモアに近づく辺りより、彦太郎は前夜サンダース氏が彦太郎の眼の前で取った行為を考え始めていた。地下室にあったテレガラフとかいう器械でやり取りして、家族を次の日にボルチモア駅に迎えに来させると彦太郎に言ったのだった。
「彦君。コレガ私ノ家族ダヨ。昨夜、テレガラフデ知ラセテオイタカラ、コレコノ通リ迎エニ来テクレタンダ」
列車から降りて、サンダース氏が一人の中年婦人に歩み寄りながらこう言ったとき、彦太郎は、それでも、最初はまさかと思った。しかし、それに続く婦人の言葉で信じないわけにはいかなかった。
「貴方ガ彦サンデスカ。夫ノ手紙デ存ジ上ゲテオリマス。オ会イスルノヲ楽シミニシテイマシタ。長イ旅デ、サゾオ疲レデショウ」
詳しくは聞き取れなかったが、「ヒィコゥ」と「彦」を英語ふうに発音したらしい言葉が聞こえたし、何よりサンダース氏に対して馴れ馴れしい。彼女は紛れもなくサンダース氏の家族に違いなかった。
サンダース氏はいかさまをしたのでもなく、魔法を使ったのでもないのだ。
彼女はサンダース氏の妻で、彼女の弟と二人で迎えに来ていた。
彦太郎たちが夫人の弟の御する馬車でサンダース氏宅に帰りつくと、召使らしい女性が一人出てきて出迎えた。
「家族ノ者ガ、夕食ノテーブルデ、貴方ヲ待ッテイマス。サア、ドウゾ」
サンダース夫人が彦太郎を案内した。
食堂に入ると美味しそうな匂いが彦太郎の鼻腔を刺激した。部屋は大変広く畳を十五六枚敷いたほどの広さがあった。高い天井からは立派な灯りが吊り下げられ、それの発する眩いばかりの輝きが、大きなテーブルの上に所狭しと並べられた料理を、豪華に浮かび上がらせている。彦太郎の到着を待ちかねたように、召使いたちが後ろで控えている。
サンダース氏の子どもは三人いて、みな女の子だった。彼女たちは長女から順に彦太郎に挨拶と自己紹介をした。しかし彦太郎は彼らの名前がまったく聞き取れなかった。
大人はゆっくりと話してくれので聞き取りやすい。ところが、子どもは少しも気を使ってはくれない。異国人とて容赦はしない。
「会エテ嬉シイ。僕、名前。彦太郎。デモ、彦ト呼ンデ下サイ。宜シク」
彦太郎は三人それぞれに同じセリフを繰り返した。
長女はそれほどでもなかったが、下の二人は挨拶の前も後も、彦太郎の顔を穴のあくほど見た。珍しがられるのには慣れている彼もこれには閉口した。
彦太郎はアメリカにきてから、これほど近くから落ち着いて異人の少女を見たことはなかった。目鼻立ち、髪の色などみなそれぞれ異なっていたが、三人とも皮膚が透けるほど白く、睫毛が重たげなほど長かった。
また鼻が恐ろしいほど尖がり、眼が周囲より落ち込んでいた。眉毛は眼に異常に接近し瞼が見られないぐらいだった。
日本の娘なら、器量の良し悪しが弁じやすいが、彼女たちは顔の造作一つひとつが極端に目立ち、美しい顔立ちなのか平凡な容貌なのか判断するのは難しかった。
「彦君。小サナ子供程、良イ教師ハイナイヨ。何シロ、遠慮セズニ話掛ケテクルカラ、聞ク力ヲ養ウニハ持ッテ来イダ。大イニ遊ビ相手ニナッテヤッテクレ給エ」
サンダース氏はこう言って彦太郎の注意を促したかと思うと、突然頭をたれ何事かつぶやき始めた。
つづく