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29.第3章(新世界)---ニューヨーク


29.第3章(新世界)−−−ニューヨーク


 ところでサンフランシスコで彦太郎と別れた治作は税関監視船アーガス号ほかいくつかの船で働いた後1859(安政6)年、アメリカ商船シリタ号で函館に送還される。一方亀蔵も治作より一年遅れになるが帰国を果たす。


彼も測量船ユーイング号などで船員の生活を送った後、帰国を決意して香港まで帰ってくる。日本行きの船を捜していると幸運にも、米国艦船ナイアガラ号で帰国途上の遣米使節団(主席全権・新見正興豊前守)に出会い、同道帰国を許可される。


 彦太郎は1859(安政6)年、治作よりわずかに遅れて帰国する。しかし治作の送還先が函館であったためか、二人はその後会うことはなかった。もっとも、彦太郎の帰国する少し前に彼らはサンフランシスコで一度出会う。


他方、亀蔵のほうは遣米使節団が上陸したのが江戸であったから、すでに米国領事館の通訳をしていた彦太郎は彼に会うことはできたのだが、何故か会おうとしない。


 再渡米する彦太郎たちを香港で見送った栄力丸乗組員たちのうち十一名は、その後そろって帰国する。しかし、うち二名は船中と長崎の揚り屋で死亡する。一行から一人離れた伝吉はイギリス公使館に通訳として雇われ、また仙太郎は上海でサスケハナ号に留まりアメリカ人宣教師の世話になる。

 

 1853(嘉永6)年7月、時の大統領民主党のピアスより駐ロシア公使に任命されたサンダースは税関長の職を辞し、故郷ボルチモアに帰ることになった。アラスカ(当時はロシア領、1867年に米に売却)の事業に関するロシアとの交渉にそなえて、ワシントンの政府役人と打ち合わせるためであった。


 大陸横断鉄道(1869年開通)はいまだ通じてはいず、西海岸のサンフランシスコから東海岸のニューヨークまでの交通は、途中パナマ地峡の陸路(馬車[鉄道1855年開通])を間にはさむ海路が主なものだった。


 彦太郎たちがニューヨークに到着したのはカリフォルニアを発って21日目の8月5日だった。ニューヨーク港が近づくと、右手は白い砂浜、左手には緑の山が連なり、故郷瀬戸内の景色を髣髴させた。


行き来する船の数が急に増えた。帆柱の旗、船体の文字など一様でなく、諸外国から来ている船であることが想像された。


「今スレ違ッタノハイギリス船ダヨ。ソシテ続イテ来ルノガフランス船。ソレカラ、彦ドン、コッチヲ見テゴラン。私タチノ後ロヲ付イテクル少シ小サナ船ガアルダロウ。アレハポルトガルダ。アア、イスパニアノ船モ見エルゾ。ホラ、アソコダ」


 甲板からサンダース氏が教えてくれるが、イギリス以外は聞いたことのない国の名前ばかりだった。


彦太郎は港に停泊する船の巨大さと数の多さに眼を見張った。


 彦太郎は眼前いっぱいに広がる黒船の壁に圧倒された。オークランド号船上から初めてサンフランシスコのノースビーチ港を見たとき以来の驚きであった。


 船から降り馬車に乗った彦太郎とサンダースはホテルへと向かった。馬車は二頭立て、外部は黒塗りの地に金銀の飾りが施され、内部にはビロード張の腰掛けが据えつけられていた。


 沿道には地面が見えないほどたくさんの人々が行き交い、江戸の浅草の混雑そのままであった。人口が85万だと教えられたとき、聞いたこともない桁の数で想像がつかなかったが、シスコの約十倍だと言われ、おおよその見当が付いた。


1653年にはわずか1,200人だったのが1850年には52万人になり、そしてこの三年間だけで33万人も増えたのだ。ニューヨークは合衆国で最も大きな町だと言ったサンダース氏の言葉が彦太郎はうなずけた。


 建物はすべて石造りか煉瓦造りで、三階建てあるいは五階建ての倉庫連なっている。ウォール街と呼ばれる商業地では、通りの両側には銀行、商店、両替屋などが軒を並べている。建物の表が言葉では尽くせないほど綺麗に飾り立てられている。道幅は八十尺(25m)、表面に石が敷き詰められている。


 彦太郎たちはメトロポリタン・ホテルに投宿した。ホテルは五階建て石造り、長さが一町(109m)、幅が四〇間(70m)。広さは小さいものは十畳から、大きいもの七〜八十畳のものまで、三百近い部屋数があった。


メトロポリタン・ホテルは七年後に日本の万延遣米使節団が宿泊することになる超一流のホテルであった。


 使用人は召使いや給仕人などが五〇人ほどと、床の揚げ下し(シーツの取りつけ取り外し)係、洗濯係に女が七〇人ほどいた。すべて黒人であった。


 夜になってボーイが彦太郎の部屋の灯りを点けたとき、彦太郎は西欧文明のもう一つの奇蹟を見せられた。ガス燈である。


「コレハガス灯と言ッテ、石炭ノ精気、ツマリガスヲ管デ引イテ来テ燃ヤシテイルンダ」 眼を見張っている彦太郎に向かってサンダース氏が言った。


「石炭、私モ知ッテイマス。サスケハナ号、汽走軍艦、見タ。デモ、黒イ石、ドウシテ青イ炎ニ変ワルカ?」


「詳シイコトハ私ニモ分カラナイ。デモ、画期的ナ発明ナンダ。現在使ワレテイル、ランプノ照明ハ鯨油ガ原料ダカラ非常ニ暗イ。ソレニ比ベテ、ガス灯は数倍、イヤ何十倍モ明ルイ。マタ、嫌ナ臭イモ、煤モ出サナイ。落トシテ火災ヲ起コス心配モナイシネ。今ハ未ダ、ニューヨーク等東部ノ大都市ニシカナイケレドモ、ヤガテ、サンフランシスコ等西部ニモ広ガルニ違イナイヨ」


 サンダースの口調は誇らしげであった。


 日本の菜種油を燃やす行灯と比べて何という隔たり。まるで月と太陽である。

眼をくらませた彦太郎は、眼を休めるため室内のガス灯から窓の外へと視線をそらした。


ところが夕闇が迫っているはずなのに、外も真昼の明るさである。ガス灯が道路にも取り付けられていたのである。彦太郎はもう言葉がなかった。


ところが、彦太郎はすぐ次の日に、再び度肝を抜かれる事件に遭遇する。


                              つづく


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